バックミラーに写った過去

文字数 2,016文字

 車で熊谷から東京に戻る途中、喉の渇きを覚えた僕は道路沿いのコンビニへ立ち寄った。冷蔵ケースに入ったペットボトルのジャスミン茶を買い、店を出て車に戻る途中、夕暮れの空を見上げた。
 九月も半分を過ぎたが、外の気温はまだ暑く、歩いているだけで来ているシャツが汗ばむ日がまだ続く。だが季節は確実に秋の装いに身を包んでおり、頭上の空は夏場よりも高く透明度を増して、以前よりも西の紅色、そして東の方からやってくる紺色のグラデーションが鮮やかになっている。その色彩の中に浮かぶ様々な雲は淡い灰色だった。秋空をテーマにした詩文学が昔から多く作られているのは、秋になると人々が空を見上げるからだろう。
 そんな事を考えながら、僕は駐車スペースに停めた車に乗り込んだ。エンジンは切っていたが、先程まで入れていた冷房のせいで車内は涼しかった。シートに座り、買ったジャスミン茶のキャップを開けて一口飲む。視線が一瞬持ち上がると、僕の車の後部とコンビニの間に、地元の高校生らしき男女が会話をしている光景がバックミラーに写った。恐らくカップルだろう。だが二人の表情は明るくなく、何か深刻な内容を話しているのか表情が曇っていた。車内に居るので会話の内容は聴き取る事は出来ないが、楽しそうな内容ではないだろう。
 その二人の様子が、僕の中にある記憶を呼び起こす。

 僕が高校生だった頃、同じクラスの女子生徒のDに仄かな思いを抱いていた事がある。彼女の母親は彼女が八歳の頃に死別して、祖父母に育てられていた生徒だった。その悲劇的な事実をDは学校生活において少しも滲ませなかったが、悲劇のヒロインであるDの支えになりたいという気持ちに溢れていた僕は、必要以上に強い男をアピールしてDの気を惹こうとしていた。今思えばそれは繁殖能力を得た若い雄の個体が、繁殖の為に若い雌の気を惹こうとする動物的な行動に過ぎなかったのだが。
 高校二年生の秋、文化祭の準備で下校時間が遅れた僕は、学校近くのコンビニに軽食と飲み物を求めて立ち寄った。コンビニに入ると、そこには冷蔵ケースからコーラのペットボトルを手に取ったDの姿があった。
「ああ、**君。今終わったの?」
 先に声を掛けたのはDだった。
「ああ、文化祭の事で少し帰りが遅れた。そっちは?」
「あたしも文化祭の事を少し手伝って、その後ここで待ち合わせ」
 Dの言葉は淡々としていた。僕はDに特別な思いを抱いていたが、Dの僕に対する特別な気持ちは微塵も感じられなかった。
 僕はボトル缶のコーヒーと個包装のチョコパイを購入し、先に会計を済ませたDと共にコンビニの前に佇んだ。僕はチョコパイを学校の鞄に仕舞った。そしてボトル缶のキャップを開けて、Dと共にコンビニの前で佇んだ。Dも購入したコーラのキャップを開け、一口飲んだ。
「文化祭はどう?」
 Dが僕に訊く。
「まあ普通。忙しいのか暇なのかはわからないけれど」
 僕は当時自分が感じていたことを素直に話した。そして自分がDに対して抱いていた気持ちをそれとなく打ち明けようと思い、こう口を開いた。
「Dの方こそ、辛くない?」
「何が?」
 Dは怪訝そうな言葉で僕に返した。気まずくなった僕は慌ててこう続ける。
「いや、家に帰れない時間とか増えるとさ、ストレスにならない?」
「気遣ってくれてありがとう。でも大丈夫。私には付き合っている相手がいて、男女のする事は一通り済ませたから」
 え?と僕は声にならない疑問を漏らす。だがそんな僕の青臭い驚きを無視して、Dは落ち着いてこう続ける。
「**君が私を気にかけてくれるのは気付いていた。でも安心して。私はそんなに弱い人間じゃないし、互いに支えあう相手もいるから。**君には悪いけれど。優しさは嬉しかったわ。ありがとう」
 Dは静かに語った後、僕の顔を見て小さく微笑んだ。やがてDと待ち合わせていた別の高校の男子生徒がやってくると、Dは「じゃあ」と小さく言って僕から離れていった。

 Dと真面目に会話をしたのはそれが最後だ。三年生になるとDとは別々のクラスになり、卒業後の進路は僕が工業系の専門学校でDは高卒での就職を選んだ。卒業後は一度も顔を合わせていないし、Dが今どこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかさえ判らない。Dはもう霞んでゆく記憶の中の存在だ。
 バックミラーに写る若い二人の未来が互いにとって幸せな関係になるのか、それとも別々の道を進んで記憶だけの存在になるかは分からない。でもそれは不幸ではない。幸福や不幸とは、この空の様にすぐ近くにあって、果てしなく変化してゆくものに過ぎないのだ。その事をバックミラーの中の二人に伝えたかったが出来なかった。
 僕はバックミラーから視線を外し、エンジンを掛けて車を出した。

                                      (了)
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