第2話 ほっそい横断歩道

文字数 1,778文字

「この前いつも通る道を何気なく歩いていたら、歩行者信号が赤だったから法令を遵守しながら止まったのね。
 私っていつも上を向いて歩いているんだけど、世間的にはいいこととされているそれも、ずっとそうなのはどうなの、ってことで、バランスを取るためにその時だけは下を見たの。そしたらね。横断歩道の白線がいつもより細くて。友だちだったら心配になるくらい細くて。あ、そんな細くないと思ってるでしょ。本当に細かったんだから。いつも見る白線が単行本だとしたら、その時の白線はブックエンドくらい細かった。
 あー、私が誇張してると思ってるでしょ。単行本の中でも細いやつだと考えてくれれば誇張はしてないことになるんだけど。単行本の中でも太いやつを想像してたら、私は虚言癖モンスター怪獣って呼ばれる可能性はあるな。でも呼ぶなら影で呼んでね。
 そんなこと考えてる内に信号が青に変わって、渡らなくちゃいけないってなったんだけど、なんかいつも通り渡るのが憚られるなあとか思って。でも隣にいたスーツのお兄さんは白線が通常の太さであるような顔して渡るもんだから、私もあんな大人になれるのかなあって不安になって、怖かったから早歩きで急いで渡ったの。
 この話はここで終わらないの。
 その日の帰り道、私はまたその細い白線があった横断歩道に戻ってきたのね。戻ってくるまでは細い横断歩道のことなんて、すっかり忘れてたのに。いざ目の前にしたら朝のことをくまなく全部思い出しちゃって。その日一日のことは逆に記憶から吹き飛んじゃった。ただやっぱり朝と夕方って全然違うんだね。夕方は細い白より太い黒が存在感を放ってて。分かると思うんだけど厳密には黒は太くないんだよ。黒は線じゃないから。世界なんだ。黒と白は対等じゃない。黒の中に横断歩道という前提を作り出したことで存在を許されたのが白。横断歩道にしかない白。なんか冬にしかない静電気みたいで神秘的だね。
 それでね、黒を注視してると、車道ってこんなに黒かったんだって、車を運転する人はよく、この黒に吸い込まれていかないで済んでるなって。そう思った。歩行者から見て、横断歩道の横に停止線ってあるじゃん。あれって吸い込まれる状態を停止させる線っていう見方もできるんじゃないの。そういえば、停止線も白いから、白は横断歩道にしかないっていうのは間違いだったね。それでいうと静電気も年中あるね。じゃあ譬えとしては適切だったってことなのかな。
 私は、一旦信号が青になっても横断しなかった。断っておくけど横断の決断ができなかったのでは断じてない。今のはスルーしてもらって。
 私は極めて冷静に横断を拒否したの。青信号横断拒否罪で逮捕したい輩もいるだろうけど、その人が警察官でないのなら黙っていてほしい。警察官だったら笑っていてほしい。検察官だったら……。これ以上言うのは野暮またはヤゴだね。
 私は自分が思春期なのが悔しかった。信号が青なのに立ち止まっているのは、社会に抵抗しているわけじゃない。いつもとは違う選択をすることで、細い横断歩道を忘れないように心に刻みこみたかっただけ。刻みネギみたいにだよ。ただそれだけなのに。それだけで良かったのに。
 忘れてしまうから。小さな感動も、あの人の優しさも。だから、自分が憶えておきたいと思ったことは、人からどう思われても脳に焼き付けておきたいの。焼きナスみたいにだよ。
 きっと、私は思春期真っ只中の反発娘だと皆に思われてた。そうしてたら、信号は赤い表示に変わって、さっきまで間違いだった待つという行為が正解になっちゃった。私はどんどん怖くなってきて、もう次こそは絶対渡ろうって決めて。でもいつまでも赤のまんまで、お前はいつまでも赤ん坊のままだって言われてる気分になったんだよね。流石に赤ん坊とは違うって反論したんだけど。その時、横にスタイルのいい髪の長い女性が現れたのね。その人は前を真っ直ぐ見てて、もう迷いなんてないって顔してたの。だから、信号が青に変わった瞬間に横断歩道を渡りだしたんだけど、何を思ったか、横断途中で回れ右して、まだ止まってた私の横を通り過ぎていっちゃたの。それを見た時にさ、法を守って、誰にも迷惑かけないなら、何してもいいんだってその人に教えてもらった気がしたんだよね」
「一人で喋りすぎじゃね?」
 松島がいたのだ。


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