未完「老愁」
文字数 5,014文字
序
いつの間にか老いて、その愁いの確かなる存在を、誰しもが、意識するしないに関わらず、自らの内に認めざるを得ないときが来るであろうことには、少なからず気づいているのではないのか。
重く、確かに重く、それは時として耐え切れぬ重さを背負わせ、老い耄れた己の心身を苛み、鞭打つ。
耐え切れぬ重圧に、抗うことを諦め、重すぎるその心身を引きずることさえも儘ならぬとき、老い耄れた心は、漠とした死というものを、強く己の意識の内に抱くのであろうか。
「死にたい」若しくは「死のうかなぁ」と呟くとき、その声にならぬ吐息は、虚しくその闇の静寂に響く・・・。
遠い昔、草臥れ倒れるまで走り続けた力漲る肉体は、今はもうその寸分の面影さえも無く、ただ歩くのにも、何処となく違和感や疲れを感じるようになってしまった。
まぁ、それが老いるということなのではあろうが、自分の内にそれを受け入れ同化することには少なからずの抵抗を感じるのである。
得体のしれぬ何か、それを愁いと呼ぶのであれば、その「老愁」を身に纏い、ヨタヨタと生き永らえるこのみすぼらしい老い耄れの行きつくところは・・・。
老愁
(一)愁い
獏とした焦燥に囚われ、死のうと心を決め、死地を求めて彷徨い続けたあの日、遂に死にきれず、再び日常の中へ還ってきたが・・・。
疲れ果てて寝入り、そして目覚めた朝、また何も変わらぬ日常の中に在る自分に気づかされる・・・。
私のその旅を知る由もない妻が、「山はもう紅葉が始まっていましたか」などと話し掛けながら淹れてくれる一杯のコーヒーも、好みの焼き具合のトーストの味もまた、その旅に出掛ける前と何ら変わってはいないのである・・・。
ふと、この微温湯のような日常が、どうせそう長くは無いであろうこの命、「敢えて死ぬまでも無い」ではないかと、見得を切るかの如く鈍らな刃をこの胸に突き付けていることに気づかされ、老い耄れはそれを心の何処かで嘲笑い、哀しみの心でコーヒーとトーストを「旨いなぁ」と感じながら、まるで日常を食らうかのように食べ続けるのである・・・。
明日・・・。
ふとその死への幻想が、老い耄れの脳裏を過る・・・。
「まぁいいか」と、カップの底に僅かに残った茶色の冷たい液体を飲み干して呟くとき、その旅の少し残された疲れが再び体に甦り、心地よい微睡の誘惑にその身を委ね、瞼を閉じるのである・・・。
*「老愁」を引き摺りながら生き永らえている・・・。
そんな心象風景の一端を書けたらなぁ・・・、と、書き始めて見ましたが・・・。
おそらく、一編一編のすべてが、未完成のまま書き続けられてゆくのではないかと危惧してはおります。
思いついたまんまのような文章の羅列、書きなぐり、読みづらい点は、未完ということで御赦しのほどを・・・。
老愁
(二)焦燥
この心を駆り立てる「愁い」、その正体は一体何であるのだろうか・・・。
そして、それは何ゆえに「死」というものに帰結してゆくのであろうか・・・。
老い先短い身であることが、その答えだとは思えない・・・。
ここまで生きてこれたことを、奇跡のように想い振り返るとき、この心の中に、異様に増殖してゆく得体のしれない「後悔」のようなこの不可解なものは一体・・・。
悔いることなんぞ、己を老い耄れたなぁと悟るものであれば、誰しもが持つものであるに違いないし、生きてきた多くの過程の端々で、それは積み重ねられ、川面に降りかかる枯葉の如く流れ下り、やがて深淵に沈み、忘れ去られていったものではなかったのか・・・。
老いというものからくる焦燥が、その一つ一つをゾンビのように再生し時には己を苛む・・・。掴みどころのない悪性の寄生虫が体を蝕み、その肉体の奥から皮膚へと這い出し、纏わりつくかのように絡みつく・・・。
解けもせぬそれを、必死に解こうとするとき、老い耄れの心身に、焦りのようなものとともに湧き出てくる哀しみに似た感情を纏うとき、それを「老愁を纏う」というのではないのか・・・。
老い耄れはそれに抗うことをしない。ただ無抵抗に受け入れるというのではないのであろうが、焦燥を抱きながらも、じっと、傍観者であることに甘んじている・・・。
そしてそれは、「死」というものに対しても同じなのではないのであろうか・・・。
老愁
(三)老醜
腐臭のような悪臭を漂わせながら、独り、群衆を避けながらふらふらと歩み続けている。
いつのころからかはわからない、いや、その匂いに気づいたときは、もうその匂いを感じることにすら鈍く疎くなっていたに違いない。
その腐臭に気づいたのであろう他人が避ける前に、自ら遠く距離をとる。そして、目立たぬように日陰を歩く・・・。
そんな自分が嫌いだった時代はもうとっくの昔に過ぎ去り、今はもう、それが自然のように振舞えるようになってきた。
いや、自分は、「他人(ひと)」というものを畏れているのだ。そう、変わり果てた自分を理解してくれない、理解しようとしない、そんな人たちの目から逃がれようとしているのだ。
その追い込まれた孤独の闇の静寂の隙間から、時折何かが垣間見える。
何の興味も、そんなものには抱かない。
いや、頑なにそれを拒絶しているのである・・・。
が、そんな時、ふとまた自分の放つ腐臭が一段と増していることに気づかされるのである・・・。
老愁
(四)老いさらぼうて
勝手気ままといえばまぁ格好はつく。
が、自分からしてみれば、「我が儘」の極みかなぁ・・・。
生来の気性、負けず嫌いが、いつのころから大きく変わり始めたのであろうか・・・。
うーん、小学生のころ、大好きだった先生に「約束しろ、喧嘩をしない、暴力を振るわないと」と窘められたあの時からなのかなぁ・・・。
ははは、あの頃は、よく掴み合いの派手な喧嘩をしていたよなぁ・・・。職員室が、やがて校長室に、そして父兄呼び出しに・・・。
転校することになったその前日、あの先生に「喧嘩をしない」約束をさせられたんだっけなぁ・・・。
以来、まぁ揉め事程度の諍いはいくつかあったが、殴る蹴るの如きはきっぱりと止められた。
なぁに、それが良いことであったとは、老い耄れた今でも思わ無い。
子供なんて、大事に至ることがなければ、喧嘩もまた学びの一部であり、自己主張の手立てなのである。
こう老いてくると、いやまぁ、何と腹立たしいことの多いことか・・・。
ブツブツと口先のみで抗うその姿が、他人様には、あまり褒められたことではないように感じられるらしい。
いや、老い耄れは得てして、そんな些細な「他人の目」なんぞは「うっちゃらかし」、気ままに怒るのである・・・。
最たるものは、テレビのニュースにいちいち反応して、声を荒げて怒りの御託宣を並べることかなぁ・・・。
まぁ、自分が反発を覚えるものみなすべてが「お気に召さない」のであるからして、四六時中怒り散らしているが如し、まぁ、救いようのないこと甚だしい・・・。
寝付けない夜の静寂の中で、まぁ、今日という一日は、常に後悔の中に在る。
いやなに、反省なんぞはこれっぽちも無いのであるが・・・。
怒りやすい性格、負けず嫌いだけは、老いてもいまだ健在である・・・。
老愁
(五)蒼穹の果てに
抜けるように蒼い空。
その蒼穹の下を、老い耄れは当ても無く彷徨い続けながら、草臥れ果てて杖を置く・・・。
文字通り、草に寝てその蒼穹を見やるのである。
蒼穹は、老い耄れに何かを語る・・・。
そう、色んな何かを・・・。
でも、それはみな下らぬことばかり・・・。
が、一つだけ・・・。
「何処に行くのだ」と、問いかけられると、それは、老い耄れの草臥れた身体に重く伸し掛かる・・・。
「何処に行こう」
行くところなんてありはしないと重々承知しているくせに、老い耄れはハタと考える・・・。
いや、考える振りをしてみる。
遥か蒼穹を逝く白い雲が、無機質の微笑みを老い耄れに贈る・・・。
「何処でもいいから連れて行ってよ」
杖を頼りに立ち上がると、老い耄れは蒼穹を逝く白い雲に、そう呟くのである・・・。
老愁
(六)無為徒食
老い耄れイコール無為徒食、というのでもないのであろうが、僕に限って言えば、まぁ帰するところはそのようなものか・・・。
腹が減れば何かを口にする。
さぁて、それが出来ぬとなれば、老い耄れはどうなる・・・。
餓えて死ぬか、時折、年寄りの無銭飲食なんて話題を聴くが、まぁ、成れの果て、そういうことも、他人事ではなく、自分の身にも起こりうることなのが老い耄れなのである・・・。
若い時分のことであるが、昔は、ヒッチハイクなんて言っていたが、僕も、出発地に戻ってこられる国鉄の周遊切符というのをを買い、リュック一つ担いで無銭旅行に近い旅をしたことが何度かある。
アルバイトで貯めた少額のお金が尽きると、ハハハ、そこから先は空腹を抱えて見知らぬ街や野山を彷徨うことになる。
まぁ、フラフラになってということは無いのであるが、それなりに厳しい状態ではある、前日の牛乳一本で夜行列車に飛び乗り、常磐線経由で青森駅から上野駅、そしてアルバイト先に転がり込んで、ロッカーに直行。そこには、袋入りのカップ麺が残っているはずであったが、あ~あ、無い!無いではないか・・・。
アルバイト仲間の誰かが盗み食いをしたのだ。
でも、泊り番の社員の方が、喫茶店が開くまで我慢しろよ、と励まし慰めてくれる。
それで、喫茶店が開くと、モーニングサービスの茹で卵と三角の厚切りトーストをおごってくれるのである。が、ははは、がつがつ食らう僕を笑いながら、その方も、会社の他の方も、俺のも食いなよと・・・。
あの方々の優しい眼差しは、今もなお忘れられぬ僕の宝物。
とまぁ、若いということは、無謀極まりない「悪戯」の積み重ねと反省することが甚だ多いのではありますが、こう老い耄れてくると、もうそんな無茶は出来ませんし、無銭飲食するほどの勇気も無し、飢えて餓死する勇気も勿論無し、心頭を滅却するほどの胆力も無し、もう破れかぶれ、肝を据え何かをやらかす勇気?も無しとなれば・・・。
さぁて、これから先どうやって生きてゆこうかと、思案投げ首、「無為徒食」とは、まぁ、八方塞りの顛末なのでしょうが、何せ老い耄れですから、都合よく「コロリ」と逝けば、万々歳。
そう上手くはいかないのでしょうね。
「無為徒食」、行き着くところは、苦しんだ末に「野垂れ死に」かなぁ・・・。
なんぞと、ぼんやり考えるのではありますが、そろそろ、それもまた現実味を帯びてきましたかねぇ・・・。
老醜
(七)静寂
「しじま」・・・。
老い耄れたからであろうか、「しじま」の中に呆然と立ち尽くしている夢を見ることが多々ある・・・。
その夢から覚めた時、驚くほどに「心澄み切った」時もあるし、悪夢からの目覚めのように脂汗をかき、「心乱れている」時もある・・・。
時として、何かを叫んでいることもあるのであるが、大方それらの意味は捉えきれてはいない。つまり、何かを叫んだということは覚えているが、断片としての一部の言葉しか、記憶は蘇ってこないのである・・・。
「意識障害」何ぞという言葉があるが、夢であるからして、所謂「気が狂った」というのとはまた違うような気がするのであるが、時折「気が狂った」ような錯覚を覚え、夢から覚めた暗闇の中で、己の存在?を手探りして探すかのように惑い続けるのである。
重いインフルエンザなどに罹った時、理解できない壮大な夢を見たり、とてつもなく怖い夢を見たりすることが儘あるが、多くの場合それらは、己の理解を越えていることが多い。
まぁそんな得体のしれないものなのであるが、夢から覚めた「しじま」の中で、老い耄れは、ふと、「若いころの夢の見方」とは確かに違うそれに戸惑うのである。
「心落ち着く静寂」なんてもの、若しくは場所、そんな「しじま」が、若し、この老い耄れの心の何処かに在るのだとすれば、いつか、その「しじま」に辿り着けるか、遭遇するときが来るのであろうか・・・。
*メモ
@静寂にて
@陽は沈み、そして陽はまた昇る
*(未完老愁)、完結は、僕が死ぬとき、若しくは筆を持てなくなる日かな・・・。
人は旅人、
旅に病んで夢は枯野を駆け巡る・・・、ですかね。
いつの間にか老いて、その愁いの確かなる存在を、誰しもが、意識するしないに関わらず、自らの内に認めざるを得ないときが来るであろうことには、少なからず気づいているのではないのか。
重く、確かに重く、それは時として耐え切れぬ重さを背負わせ、老い耄れた己の心身を苛み、鞭打つ。
耐え切れぬ重圧に、抗うことを諦め、重すぎるその心身を引きずることさえも儘ならぬとき、老い耄れた心は、漠とした死というものを、強く己の意識の内に抱くのであろうか。
「死にたい」若しくは「死のうかなぁ」と呟くとき、その声にならぬ吐息は、虚しくその闇の静寂に響く・・・。
遠い昔、草臥れ倒れるまで走り続けた力漲る肉体は、今はもうその寸分の面影さえも無く、ただ歩くのにも、何処となく違和感や疲れを感じるようになってしまった。
まぁ、それが老いるということなのではあろうが、自分の内にそれを受け入れ同化することには少なからずの抵抗を感じるのである。
得体のしれぬ何か、それを愁いと呼ぶのであれば、その「老愁」を身に纏い、ヨタヨタと生き永らえるこのみすぼらしい老い耄れの行きつくところは・・・。
老愁
(一)愁い
獏とした焦燥に囚われ、死のうと心を決め、死地を求めて彷徨い続けたあの日、遂に死にきれず、再び日常の中へ還ってきたが・・・。
疲れ果てて寝入り、そして目覚めた朝、また何も変わらぬ日常の中に在る自分に気づかされる・・・。
私のその旅を知る由もない妻が、「山はもう紅葉が始まっていましたか」などと話し掛けながら淹れてくれる一杯のコーヒーも、好みの焼き具合のトーストの味もまた、その旅に出掛ける前と何ら変わってはいないのである・・・。
ふと、この微温湯のような日常が、どうせそう長くは無いであろうこの命、「敢えて死ぬまでも無い」ではないかと、見得を切るかの如く鈍らな刃をこの胸に突き付けていることに気づかされ、老い耄れはそれを心の何処かで嘲笑い、哀しみの心でコーヒーとトーストを「旨いなぁ」と感じながら、まるで日常を食らうかのように食べ続けるのである・・・。
明日・・・。
ふとその死への幻想が、老い耄れの脳裏を過る・・・。
「まぁいいか」と、カップの底に僅かに残った茶色の冷たい液体を飲み干して呟くとき、その旅の少し残された疲れが再び体に甦り、心地よい微睡の誘惑にその身を委ね、瞼を閉じるのである・・・。
*「老愁」を引き摺りながら生き永らえている・・・。
そんな心象風景の一端を書けたらなぁ・・・、と、書き始めて見ましたが・・・。
おそらく、一編一編のすべてが、未完成のまま書き続けられてゆくのではないかと危惧してはおります。
思いついたまんまのような文章の羅列、書きなぐり、読みづらい点は、未完ということで御赦しのほどを・・・。
老愁
(二)焦燥
この心を駆り立てる「愁い」、その正体は一体何であるのだろうか・・・。
そして、それは何ゆえに「死」というものに帰結してゆくのであろうか・・・。
老い先短い身であることが、その答えだとは思えない・・・。
ここまで生きてこれたことを、奇跡のように想い振り返るとき、この心の中に、異様に増殖してゆく得体のしれない「後悔」のようなこの不可解なものは一体・・・。
悔いることなんぞ、己を老い耄れたなぁと悟るものであれば、誰しもが持つものであるに違いないし、生きてきた多くの過程の端々で、それは積み重ねられ、川面に降りかかる枯葉の如く流れ下り、やがて深淵に沈み、忘れ去られていったものではなかったのか・・・。
老いというものからくる焦燥が、その一つ一つをゾンビのように再生し時には己を苛む・・・。掴みどころのない悪性の寄生虫が体を蝕み、その肉体の奥から皮膚へと這い出し、纏わりつくかのように絡みつく・・・。
解けもせぬそれを、必死に解こうとするとき、老い耄れの心身に、焦りのようなものとともに湧き出てくる哀しみに似た感情を纏うとき、それを「老愁を纏う」というのではないのか・・・。
老い耄れはそれに抗うことをしない。ただ無抵抗に受け入れるというのではないのであろうが、焦燥を抱きながらも、じっと、傍観者であることに甘んじている・・・。
そしてそれは、「死」というものに対しても同じなのではないのであろうか・・・。
老愁
(三)老醜
腐臭のような悪臭を漂わせながら、独り、群衆を避けながらふらふらと歩み続けている。
いつのころからかはわからない、いや、その匂いに気づいたときは、もうその匂いを感じることにすら鈍く疎くなっていたに違いない。
その腐臭に気づいたのであろう他人が避ける前に、自ら遠く距離をとる。そして、目立たぬように日陰を歩く・・・。
そんな自分が嫌いだった時代はもうとっくの昔に過ぎ去り、今はもう、それが自然のように振舞えるようになってきた。
いや、自分は、「他人(ひと)」というものを畏れているのだ。そう、変わり果てた自分を理解してくれない、理解しようとしない、そんな人たちの目から逃がれようとしているのだ。
その追い込まれた孤独の闇の静寂の隙間から、時折何かが垣間見える。
何の興味も、そんなものには抱かない。
いや、頑なにそれを拒絶しているのである・・・。
が、そんな時、ふとまた自分の放つ腐臭が一段と増していることに気づかされるのである・・・。
老愁
(四)老いさらぼうて
勝手気ままといえばまぁ格好はつく。
が、自分からしてみれば、「我が儘」の極みかなぁ・・・。
生来の気性、負けず嫌いが、いつのころから大きく変わり始めたのであろうか・・・。
うーん、小学生のころ、大好きだった先生に「約束しろ、喧嘩をしない、暴力を振るわないと」と窘められたあの時からなのかなぁ・・・。
ははは、あの頃は、よく掴み合いの派手な喧嘩をしていたよなぁ・・・。職員室が、やがて校長室に、そして父兄呼び出しに・・・。
転校することになったその前日、あの先生に「喧嘩をしない」約束をさせられたんだっけなぁ・・・。
以来、まぁ揉め事程度の諍いはいくつかあったが、殴る蹴るの如きはきっぱりと止められた。
なぁに、それが良いことであったとは、老い耄れた今でも思わ無い。
子供なんて、大事に至ることがなければ、喧嘩もまた学びの一部であり、自己主張の手立てなのである。
こう老いてくると、いやまぁ、何と腹立たしいことの多いことか・・・。
ブツブツと口先のみで抗うその姿が、他人様には、あまり褒められたことではないように感じられるらしい。
いや、老い耄れは得てして、そんな些細な「他人の目」なんぞは「うっちゃらかし」、気ままに怒るのである・・・。
最たるものは、テレビのニュースにいちいち反応して、声を荒げて怒りの御託宣を並べることかなぁ・・・。
まぁ、自分が反発を覚えるものみなすべてが「お気に召さない」のであるからして、四六時中怒り散らしているが如し、まぁ、救いようのないこと甚だしい・・・。
寝付けない夜の静寂の中で、まぁ、今日という一日は、常に後悔の中に在る。
いやなに、反省なんぞはこれっぽちも無いのであるが・・・。
怒りやすい性格、負けず嫌いだけは、老いてもいまだ健在である・・・。
老愁
(五)蒼穹の果てに
抜けるように蒼い空。
その蒼穹の下を、老い耄れは当ても無く彷徨い続けながら、草臥れ果てて杖を置く・・・。
文字通り、草に寝てその蒼穹を見やるのである。
蒼穹は、老い耄れに何かを語る・・・。
そう、色んな何かを・・・。
でも、それはみな下らぬことばかり・・・。
が、一つだけ・・・。
「何処に行くのだ」と、問いかけられると、それは、老い耄れの草臥れた身体に重く伸し掛かる・・・。
「何処に行こう」
行くところなんてありはしないと重々承知しているくせに、老い耄れはハタと考える・・・。
いや、考える振りをしてみる。
遥か蒼穹を逝く白い雲が、無機質の微笑みを老い耄れに贈る・・・。
「何処でもいいから連れて行ってよ」
杖を頼りに立ち上がると、老い耄れは蒼穹を逝く白い雲に、そう呟くのである・・・。
老愁
(六)無為徒食
老い耄れイコール無為徒食、というのでもないのであろうが、僕に限って言えば、まぁ帰するところはそのようなものか・・・。
腹が減れば何かを口にする。
さぁて、それが出来ぬとなれば、老い耄れはどうなる・・・。
餓えて死ぬか、時折、年寄りの無銭飲食なんて話題を聴くが、まぁ、成れの果て、そういうことも、他人事ではなく、自分の身にも起こりうることなのが老い耄れなのである・・・。
若い時分のことであるが、昔は、ヒッチハイクなんて言っていたが、僕も、出発地に戻ってこられる国鉄の周遊切符というのをを買い、リュック一つ担いで無銭旅行に近い旅をしたことが何度かある。
アルバイトで貯めた少額のお金が尽きると、ハハハ、そこから先は空腹を抱えて見知らぬ街や野山を彷徨うことになる。
まぁ、フラフラになってということは無いのであるが、それなりに厳しい状態ではある、前日の牛乳一本で夜行列車に飛び乗り、常磐線経由で青森駅から上野駅、そしてアルバイト先に転がり込んで、ロッカーに直行。そこには、袋入りのカップ麺が残っているはずであったが、あ~あ、無い!無いではないか・・・。
アルバイト仲間の誰かが盗み食いをしたのだ。
でも、泊り番の社員の方が、喫茶店が開くまで我慢しろよ、と励まし慰めてくれる。
それで、喫茶店が開くと、モーニングサービスの茹で卵と三角の厚切りトーストをおごってくれるのである。が、ははは、がつがつ食らう僕を笑いながら、その方も、会社の他の方も、俺のも食いなよと・・・。
あの方々の優しい眼差しは、今もなお忘れられぬ僕の宝物。
とまぁ、若いということは、無謀極まりない「悪戯」の積み重ねと反省することが甚だ多いのではありますが、こう老い耄れてくると、もうそんな無茶は出来ませんし、無銭飲食するほどの勇気も無し、飢えて餓死する勇気も勿論無し、心頭を滅却するほどの胆力も無し、もう破れかぶれ、肝を据え何かをやらかす勇気?も無しとなれば・・・。
さぁて、これから先どうやって生きてゆこうかと、思案投げ首、「無為徒食」とは、まぁ、八方塞りの顛末なのでしょうが、何せ老い耄れですから、都合よく「コロリ」と逝けば、万々歳。
そう上手くはいかないのでしょうね。
「無為徒食」、行き着くところは、苦しんだ末に「野垂れ死に」かなぁ・・・。
なんぞと、ぼんやり考えるのではありますが、そろそろ、それもまた現実味を帯びてきましたかねぇ・・・。
老醜
(七)静寂
「しじま」・・・。
老い耄れたからであろうか、「しじま」の中に呆然と立ち尽くしている夢を見ることが多々ある・・・。
その夢から覚めた時、驚くほどに「心澄み切った」時もあるし、悪夢からの目覚めのように脂汗をかき、「心乱れている」時もある・・・。
時として、何かを叫んでいることもあるのであるが、大方それらの意味は捉えきれてはいない。つまり、何かを叫んだということは覚えているが、断片としての一部の言葉しか、記憶は蘇ってこないのである・・・。
「意識障害」何ぞという言葉があるが、夢であるからして、所謂「気が狂った」というのとはまた違うような気がするのであるが、時折「気が狂った」ような錯覚を覚え、夢から覚めた暗闇の中で、己の存在?を手探りして探すかのように惑い続けるのである。
重いインフルエンザなどに罹った時、理解できない壮大な夢を見たり、とてつもなく怖い夢を見たりすることが儘あるが、多くの場合それらは、己の理解を越えていることが多い。
まぁそんな得体のしれないものなのであるが、夢から覚めた「しじま」の中で、老い耄れは、ふと、「若いころの夢の見方」とは確かに違うそれに戸惑うのである。
「心落ち着く静寂」なんてもの、若しくは場所、そんな「しじま」が、若し、この老い耄れの心の何処かに在るのだとすれば、いつか、その「しじま」に辿り着けるか、遭遇するときが来るのであろうか・・・。
*メモ
@静寂にて
@陽は沈み、そして陽はまた昇る
*(未完老愁)、完結は、僕が死ぬとき、若しくは筆を持てなくなる日かな・・・。
人は旅人、
旅に病んで夢は枯野を駆け巡る・・・、ですかね。