第11話 思い出(3)

文字数 2,763文字

 冬にマフラーを編んでくれた。忙しい時間の合間に編んでくれた。服のお礼だと。アイボリーの見事な編み方。
「毛糸は奮発したのよ」
幸子とふたりで首に巻く。帰ると母は手に取って調べた。
「アラン模様ね。がんばったわね」
母の質問をかわし幸せに浸る。容赦なく時は過ぎるのに。

 暮れに幸子は田舎に帰った。ホームで見送る。4日会わないだけなのに。こんなに辛いと思ったことはない。もう帰ってこないのでは? 不安が胸を押しつぶす。正月は地獄だ。親戚が口々に言う。まだ結婚しないのか? 
 退屈で書斎にこもる。昔読んだ本をパラパラめくる。見つけた。カミュのシーシュポスの神話。

『情熱恋愛の専門家たちが口をそろえてぼくらに教えてくれる、障害のある愛以外に永遠の愛はないと。闘争のない情熱はほとんどない、と。そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ』

 幸子は帰ってきたが本当の別れが近づいていた。
「こっちで働いて年に何度か帰ればいいじゃないか?」
「ハイジみたいに病気になる」
幸子はため息をつく。決心は変わらない。一方的な愛だ。怒りに任せゴミ置き場の袋を叩いた。右手に激痛が走り血が流れた。ガラスか? 割れたガラスが袋に?
 幸子は素早かった。近くの家のドアを叩き救急車を呼んだ。ハンカチの上から彼女の手が押さえる。気が遠くなっていく。
「しっかりするのよ」
頼もしい女だ。必死で俺を支えた。俺が守ってやる必要はない。守ってほしいのは俺のほうだ。
「一緒だな。おまえの手と……キスを……このままでは死ねない」
人間の精神力はすごい。遠のいた意識が戻った。気を失っている場合ではない。幸子の唇が正気に戻した。

 怪我のおかげで幸子は帰郷を伸ばし、ずっと付いていてくれた。手術の間は家族とは離れて待っていた。ふたりきりになると世話を焼いてくれた。食事、歯磨き、体を拭き、着替えさせる。そして……勉強熱心な女はキスの研究をする。角度を変える。映画のようにステキなキスを……ずっといてくれるなら治らなくていい。
 父が幸子のことを調べさせた。幸子の家族のこと。直接聞いた通りのことだ。深く付き合った男もいない。それでも反対する。母がとりなす。1度会いたい、と。なにを言われるかはわかっている。19歳の田舎の貧困の父親のいない中卒の娘。三沢家の長男の嫁にするわけにはいかないと。
 5月の連休に幸子は帰る。もう戻っては来ない。俺は幸子を家に連れてきて紹介した。幸子は家の大きさに驚き、グランドピアノに驚き、飾ってある日本刀に驚いた。
「本物? 斬られるかも」
幸子は買ってやった服ではなく普段の地味な服装で来た。ソファーに座らされ質問攻め。感情をなくすことの訓練を積んでいた女は、怒りも憤慨もせず涙も見せなかった。出されたケーキには手をつけず、壁に飾ってある額を見ていた。

  勧君莫惜金縷衣
  勧君惜取少年時 
  花開堪折直須折 
  莫待無花空折枝 

 母と1番下の妹には情けがあった。編み物、上手なのね、と言われ微笑んだ。すぐ下の妹の言葉に幸子は出て行った。立ち上がり俺の顔さえ見ずに、客にお辞儀をするように丁寧に頭を下げて出て行った。
「本当のことでしょ? 財産目当て」
父は聞く耳を持たなかった。男の孫は3人いる。
 追いかけると幸子は漢詩の意味を聞いた。
「花 開き 折るに堪へなば 直ちに 須く(すべからく)折るべし」
 
「花が咲いて見ごろになったら、すぐに折り取るがよい」

 海辺のホテル、幸子はベランダに出てすぐ真下の海を見て波の音を聞いていた。長い時間……体が冷え切っても。

 1週間後、幸子の実家に挨拶に行った。近くに部屋を借りた。幸子は当面俺を養うくらいの金は貯めていた。車を買ったばかりの俺が自由にできる金は僅かだった。幸子はスーパーで働く。籍を入れて夫婦になった。祝福は幸子の家族からだけ。
 5月の海、冷たくないのか? 幸子は足を濡らす。水を得た魚だ。泳いで行ってしまいそうで怖くなる。誰もこない海。長年の幸子の疑問を解いてやる。幸子の帰りたがっていた田舎の海、青空の下で抱きかかえた。

 子供ができた。母にはハガキで知らせた。父は許さないから返事はない。幸子は謝る。親と断絶させてしまったと。母になる幸子には耐えられないと。
 名前は考え過ぎるくらい考えた。結果、英幸(えいこう)、ふたりの名前から1字ずつ。


 
亜紀、
 俺は捨てられない。思い出にすることだけは許してくれ。おまえは俺の最後の女だ。


「あなたはずっと前に読んでたんだ?」
「嵐の夜に。パパが……」
「……どうして……愛は永遠じゃないの? ひとつじゃダメなんだ? ひどいよ。ママは。こんなに愛したパパを裏切るなんて」
「……裏切ったのはパパのほうかも。再婚したパパのほうかも……」
「そんな……バカなこと」
「なんとなく、そう思うことがある……あなたも?」
「絶対違う」
「……嵐の夜にパパはうなされてた。起こすと一瞬夢と現実の区別がつかないみたいだった。幸せそうな顔をしたわ。全部夢だったのか、みたいな……それからは本当の悪夢ね。再婚したこと後悔してるんでしょって私に暴れられて……ああ、おかしい」
「情けない男だ」
「……おじいさんが倒れ、会社も傾き、おばあさんは介護で体を壊しパパは戻った。お金がなくなると叔母さんたちは寄り付かなくなった。おじいさんは体が不自由でも怒るしね。
 あなたのママは半身不随のおじいさんの介護に、体を壊したおばあさんの世話、家の中のこと、外のこと、介護もお手伝いも頼まずひとりでやり遂げたの。パパが仕事に専念できるように。合言葉は
Don't give up.
 大変な時にお金を出したの。田舎から出てきたあなたのママはずっと節約して貯金してた。パパと結婚してからも自分の収入だけでやりくりして、幼いあなたを連れて配達の仕事をして、パパが手を付けずに渡した給料は全部貯金してた。パパは紳士服ナンバーワンの売り上げだったから半端な額じゃないわ。それを3年間手を付けずに貯めていた。そのお金で会社は持ち直した。あなたのママは会社の功労者。株主なのよ」
「財産目当てじゃなかったんだ」
「3分の1はあなたに」
「春樹は?」
「3分の1。あとは……寄付した。幸子さんの遺志で恵まれない子供に」
ママはそういう女だった。
「欲がないのね。幸子さんと同じ」
「……最後のページはあなたが書いたの? 絶望か希望か」
「ああ、忘れてた。なんだったかしら?」
「パパと結婚して幸せ?」
「英語の英に不幸の幸。ひねくれてたわね……」
「教えて。パパの部下のこと。瑤子の元婚約者。この家に住んでた? 僕は覚えてない。社長は太陽だったって、酔って言ってた。誰の太陽?」
「……あなたのママよ」
「……」
「私の太陽でもある」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み