第1話

文字数 3,082文字

 少し前まで、裸足を通じて心地よく伝わってきた絨毯の毛並み。それが今や、私の頬を撫でている。全くあたたかくない。血がすでに大量に流れ出ていることを自覚できた。声は出せないし、横たわった自分の肉体を引き摺る力も残っていない。
 ある瞬間に悟った。もう助からない、と。
 理屈じゃなく、感覚で。全身、肌の表面を膜みたいな半透明の死が覆うのだ。逃れられない。
 ぼやける視界、薄れる意識の中、私は最後にすべきことを思った。

   ~   ~   ~

 推理作家として業界の末席を汚していた私だが、ある一つの自己満足ルールを密かに課していた。

『安易なダイイングメッセージ物は書かない』

 たとえば、
“血文字で1+1=と書かれていたのは、マッチ棒パズルの応用で田中の田だ”
 とか、
“アルファベットのオーだと思ったら実はゼロで、零一を示していた”
 あるいは、
“被害者が口にちり紙をくわえていたのは、犯人の星座、山羊座を意味していたのだ”
 等々。羊や牛だって紙を食べることがあるそうだけど。
 何にせよ、クイズやパズルとしてならよくても、推理小説に使うには短絡的に過ぎる。犯人による偽装はなかったと決め付けているのがおかしいし、そもそも犯人は被害者が妙なメッセージを遺したことに気付いたなら、それを完全に破壊することこそが最大の防衛策でしょって話。
 だから自分がダイイング.メッセージをネタに書くとしたら、完璧に納得の行くロジカルなダイイングメッセージ物を……と思い続けて、結局書かずじまいになりそう。

 否。
 まだ機会はある。今こそ、ダイイングメッセージを書くとき。
 ここは森の中の一軒家。相当大きな物音を立てても人は来るまい。声も依然として出せない。それでも、それだからこそ足掻こう。
 私が自分の利き手がまだ動くことを確かめた。幸か不幸か、インク代わりの血はそこら中にある。
 私は漠然とした残り時間を意識しつつ、文字通り必死に考えた。

 私を襲った犯人の名は、加賀見元(かがみはじめ)。私と彼は以前コンビ作家として活動していたが、約二年前に解散。一つのペンネームを名乗らず、坂井未来(さかいみく)と加賀見元として書いていた。加賀見も作家活動を続けているはず。
 彼が私を襲った理由は何だったっけ。そうそう、思い出してきた。
 二人で創ったものの使わなかったトリックやアイディアを、コンビ解散時に仕分けした。これは私が使う、それは加賀見がという風に。最近になって私は、“これらは早い者勝ちにしような”と決めたグループにあったトリックで、短編を書いて雑誌に載った。その発売日の翌日、加賀見が電話をくれ、言い掛かりを付けてきたのだ。
「あのネタを使うなら使うと言ってくれよ! 俺、構想一年の大長編に取り組んでいたんだ。あのネタが肝なのに、先に使われたら台無しだ。替えも効かない」
 なんて言われたけれども、そういう事前通知の取り決めはしていなかったから突っぱねた。結局、今後はネタの大小にかかわらず、使うときは事前に知らせ合うことというルールを付け足し、そのときは収まった。

 二ヶ月後、また噛み付いてきた。今度はわざわざ家にまで押し掛けてきた。
 私が短編集のかさ増しに書いた書き下ろし掌編について、「あのトリックはコンビ時代に使ったトリックの焼き直しだな。俺も同じ案を考えていたのに!」という。以前使ったトリックを再利用してはだめだとか、するなら事前に連絡するとか、そんな決めごとはもちろんしていない。私達は協定に新しいルールを付加した。

 そして今日。家に上がってくるなり、「まただ、三度目だぞ」と怒鳴り散らしたから、恐らくトリックのことについて難癖を付けに来たに違いない。落ち着かせるためにお茶を入れようと私が背を向けたタイミングで、加賀見は私を刺した。具体的にどのトリック・アイディアが原因で刺されたのかは分からない。

 まずいことに、彼とはダイイングメッセージに関して話し合い、意識を共有していた。つまり、犯人が取るべき最善の手はメッセージの破壊であると、加賀見も理解している。
 多分、加賀見は再びここにやって来て、第一発見者を装うつもりだ。その際に、私がメッセージを残していないかつぶさにチェックし、握り潰す気でいるに違いない。

 調べても簡単には気付かれないダイイングメッセージはある。たとえば銅の微細な粉を犯人の名前になるよう、薄く撒けば、ルミノール検査で発光するはずだ。実際に試した経験はないけれども、ルミノール試薬は銅にも反応すると、物の本に書いてあった。
 もしくは指紋。犯人の名前になるよう指紋をぺたぺた付ける。鑑識が粉をはたけば、名前を示した指紋が浮かび上がる。
 でも、今の私に、これらの案は使えない。銅粉なんて手近にないし、手の指は血でべたべた。指紋で字を形作っても、加賀見に速攻で発見される。

 頭に霧が掛かってきた。振り払いたくても、頭を動かす体力がない。
 何かないか。
 加賀見は鏡に通じる。鏡を割るのはどうか。いや、割っただけでは加賀見に勘付かれ、片付けられるだけ。鏡の表面に唾が不自然に付いていたら、鑑識は気にしてくれるかしら。私が今横たわっている場所から、一番近い鏡まで何メートル?
 「元」からは何を連想できる? 元号? 元旦? カレンダーは比較的近くに壁掛けの物があるけれど、あいにく今は十一月だった。元号の部分に印を付けるのも、加賀見にばれずにやるのは無理そう。
 犯人が消しきれないくらい大量にダイイングメッセージを書く? そんなに身体が動くのなら、助けを呼ぶ。今の私に動かせるのは手足の先と、まぶたぐらいが関の山。さっき思い付いた唾を飛ばすのだって、もう不可能かもしれない。

 いよいよ本当の最後が近い。このままじゃあ、何も残せない。どうしたらいい? だめもとで、加賀見の名を書くか? 私自身の身体に書けば、気付かれる恐れは低くなるだろうか……。
 途切れかける思考を、意識を浮上させてつなぎ留める。最後の最後まで足掻いて足掻いて、足掻き尽くしてやる。固めた決意は、でもすぐに、衝撃を与えたプリンみたいにぶるぶると震え、脆くも崩れ始める。
 わたしは、あがいた。

 結果から記すと、加賀見元は逮捕された。しかも殺人未遂罪で。
 私は、九死に一生どころか九十九死に一生ぐらいの率で、奇跡的に命を取り留めた。
 だから私が足掻きに足掻いて残したダイイングメッセージ――いや、死んでいないのだから単なるメッセージだ――は、捜査の役には立たなかった。でも念のために鑑識の人に聞いて、教えてもらった。
「私が足の指紋で残したメッセージ、検出できましたか?」って。
 答はイエスだった。足先が絨毯からはみ出て、板の間の上に位置していたことが大きかったようだ。
 これで一本、短編が書けないかなと思った。

   ~   ~   ~

 死の間際にいた坂井未来の走馬灯が、止まろうとしている。
 加賀見元に襲われたときはメッセージを残し、生還した彼女も、二度目の殺人被害には抗しきれず、今まさに命を散らしつつある。
 彼女は一度目と同じ状況で刺された。が、老境を迎え、アイディアの泉が枯れていた推理作家に、犯人の名前をうまく伝える妙案は全く浮かばなかった。
 代わりに、かつて加賀見元に襲われた際の思い出ばかりが、走馬灯になって脳裏を駆け巡っていた。

 そして止まった。

 終
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