紗南の涙

文字数 1,983文字

同窓会の会場は、新宿駅の東口から少し歩いたあたりの雑居ビルにある居酒屋だった。
エレベーターのドアが開く前から笑い声が響いてきて、ドアが開くと、脂っぽい臭いが広がってくる。

さて、みんなはどこに座っているやら…と、思うか思わないかで、紗南(さな)の笑い声が聞こえてきた。
店の右奥あたりに陣取っているらしい。
「あああ!ヒナぁ!おつかれさん!」
駅の反対側のホームに話しかけるくらい大きな紗南の声に迎えられた。
「ごめんね、みんなもうそろってるの?」
「あと、三隅(みすみ)だけかな?なんか、大学のサークルがなんとかって」
「三隅たちの代の就職祝いなのに、主役がいないのね」

高校の演劇部は、いつからか毎年三月に集まっていた。
紗南や私の代から数えて二つ下くらいまでが集まって、部活の帰り道の延長戦みたいに賑やかにやっている。私たちは、どんなに歳を重ねて大人になっても、ずっとこんな感じなんだと思う。
「はいはいはいはい!乾杯乾杯!」

高校生の頃から、弾けるような紗南の笑顔と声は変わらない。
いつも肩にぎりぎりかからないくらいのショートボブで、眉のあたりで切り揃えられた前髪の下からは大きな瞳がのぞいていた。
みんなより背は低いはずなのに、溢れる元気を後光のようにまとっていて、すごく大きく感じる。


だから、紗南が涙を流す姿を見た日のことを、いまでも昨日のことのように思い出せる。

その日は、朝からずっと雨が降る日で、暑くてジメジメした空気が教室に満ちていた。
私たちは高三になっていて、しかも夏が近いというのに、放課後はいつも二人で教室に残って話し込んでいた。
紗南は決まって上履きを脱いで、椅子にあぐらをかいている。

何の話をしていたか忘れてしまったが、何かで笑い合っているときに、廊下に人影が映った。
「あ!佳苗(かなえ)だ!」
磨りガラスに映ったその人影を見て、紗南は突然立ち上がって、教室のドアに走っていく。
上履きも履かずに、ツルツルと滑りながら走る姿を追って、私たちは廊下に出た。

そこには確かに佳苗が立っていた。

いや、その時は佳苗だとすぐにはわからなかった。

暗い廊下には、鮮やかな金色の髪と、短いスカートから伸びた白くて長い脚が光っているようだった。
私や紗南と同じ演劇部で、笑い合いながらジャージ姿でステージの雑巾掛けをしていた面影は全く残っていない。

佳苗は、こちらを振り返った姿のまま、止まっていた。

「佳苗、久しぶり!」
紗南はそんなことにことなく、昔のように声をかけた。
「うん、久しぶり」
佳苗は、何かに怯えるような目でこちらを見ていた。
「元気してる?」
「元気だよ」
それから二人が見つめあっていた数秒間を、私はとても長く感じた。

突然、時間を止めていた妖精が触れたかのように、二人は同時に走り出した。

いわゆる女の子走りで逃げる佳苗を、紗南が足を滑らせながら追いかける。
私はどうして良いかわからなくて、教室の床に放り出された紗南の上履きを持って走った。

紗南は何度も転けそうになりながら、必死で追っていた。
階段も全段飛び降りてしまいそうな勢いで突っ込んで、手摺りを頼りにグルンと旋回していく。
佳苗も佳苗で、学校に来ない間に、特別なトレーニングでもしていたのかと思うくらい速い。

私はというと、呼び止めることもできず、ひいひい言いながら、恐々と階段を駆け降りていく。

階段を降り切ったところで、佳苗は捕まっていた。
文字通り、紗南は彼女の左の手首を掴んでいた。

息の上がった二人は、見つめ合いというより睨み合っていた。
「ねえ、離してよ」
「この手首、どうしたの!」
紗南は語気を強めて顔を近づける。
「ちょっと!紗南、離しなって」
息を切らした私が紗南の肩を引いても、びくともしない。

見下ろすと、紗南の中に真っ白な佳苗の手首があった。
しかし、その手首には薄黒い線がいくつも並び、皮はたわんでいるようだった。

佳苗はその手を振り解くと、唾を一気に飲んだ。
「なんでよ!」
大きな声で叫んだのは、紗南だった。
小さな体をガタガタと震わせ、赤い目からは涙の粒が落ちた。
「なんで!どうしてよ!いつもいなくなって!またそうやって!一人で勝手に大人になって!」
「…じゃあね」

佳苗はそのまま昇降口のほうに早足で歩いていく。
「いいじゃん!そうやって逃げ続けて!どんなに逃げても、私は探すからね!警察でも探偵でもなんでも使って!絶対にまた佳苗に会いにいくから!」

叫びながら泣き崩れる紗南を支える私も、小刻みに震えながら泣いていた。


「はいはいはーい!まだ三隅くんは来てませんが!ヒナが来たので!さあ盛大に!」
紗南が椅子から立ち上がって、声を張り上げる。
店内からくすくすと笑い声がするが、全然聴こえていないようだ。
「紗南先輩、立ち上がってもあんま高さ変わんないぞ!!」
「はい!そこ!うるさいです!」

そして、紗南がその日一番の声で言う。

「よっしゃ!!!かんぱあああああい!!!」
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