想像妊娠をやめたかった男

文字数 6,104文字

 山の麓にある寺を訪ねた。
「ちょっと心頭滅却したいんですが」
「そんな軽いノリで来るところじゃないですよ」
 好々爺然とした住職は、柔らかな物腰で私の要求を拒否した。
「お坊さんでもノリとか言うんですね」
「ええまあ、多様性が求められる時代ですから」
 ここは修験道があるくらい厳しい寺だと聞く。拒否したのは、一般の人間には耐えられないのではという、先方の気遣いだろう。
「話だけでも聞いていただけませんか。私は精神を鍛える必要があるのです」
 私の真剣な眼差しを見て、住職の細い目が少し開いた。
「ふむ。では聞かせていただきましょうか」
 私は数日前からの出来事を語った。

 想像妊娠と診断された。
 最近どうにも急に吐き気やめまいがして、いまいち原因がわからなかったのだが、結果を聞いて合点がいった。なるほどそんなこともあるのか、と。
 確かに私は妊娠していない。
 私は男だからだ。身重なのは姉である。
 旦那の都合がつかない時に、送り迎えなどで私はしばしば駆り出される。姉のつわりはけっこうひどいらしく、近ごろは車の中でもうーうー唸っている。普段は明朗な人だから、相当辛いようだ。
 そんな姿をよく見ていたせいだろう。次第に私もその苦しみに当てられ、しまいには想像妊娠ときた。
 もちろん私の辛さなど、本当の妊婦の辛苦とは比ぶべくもないと思う。ただそれでも、しんどいものはしんどい。しかも私の身体には愛する我が子なんて宿っていない。それでは耐え抜く力も湧いてこないというものだ。
 実は今に始まったことではない。思えば幼少の頃から、私は人の感情や状態が移りやすかった。
 もらい泣き、もらいあくびぐらいならよくあると思うが、怒りや喜びまでひとりでに伝染してしまう。街中で見かける子どもの癇癪にすら同調し、嫌いな奴が喜んでいてもちょっと喜んでしまう。私の意思とは無関係だから、後になって気づくこともよくある。
 感受性が豊か。多少の生きづらさの正体はきっとそれなんだなと、自分の中ではわかっていたことだ。
 しかし、さすがに想像妊娠というのは私もたまげた。性別の枠すら超えてしまっている。歳をとると涙もろくなると聞くが、それと同じで、齢三十の私の全身も、これからどんどんと緩くなっていくのだろうか。
 こりゃいかん。普段のほほんとしている私も、これには危機感を覚えた。
「それで、精神を鍛錬すれば多少のことには動じなくなるのでは、と考えたのです」
「なるほど。話はわかりました」
 男の想像妊娠はけっこう驚く話だと思うが、さすが住職は眉一つ動かさず、ただ事実として受け止めているようだ。
「では座禅でもしてみますか。もしくは滝行など」
「いえ、どうせなら負荷は大きい方がいい。座禅しながら滝行します」
「でも滝壺で座禅したら溺れちゃいますよ」
「車にハンモックがあります。キャンプによく行くもので。いやあ、持っててよかった」
「……まあいいでしょう。あなた強めにやらないとわからないようだから」
 住職はやや呆れていたが、それぐらいじゃないと、三十年染みついた体質は変わらないと思ったのだ。
 ただ結論から言えば、やるんじゃなかった。
 滝の近くにちょうど木があったので、長紐で延長してハンモックを設置したまではよかった。
 しかし七月と思って舐めていたが、山の水はすこぶる冷たく、滝壺に入ってからしばらく私は縮こまっていた。ようやく動きだしてからも、凍える身では、滝に打たれて揺れ動くハンモックに乗れない。足が上がらないのだ。
 他の修験者らの手を借り、ようやくハンモックの上で座禅を組んでみたものの、更なる地獄が待っていた。
 考えれば当たり前のことだ。滝の勢いはおそろしく、単に水に浸かっているのとは比較にならないほどの冷たさなのだ。何より、降り注ぐ水の衝撃が強すぎて首がもげるかと思った。寒さで全身の感覚はとうになくなっているのに、錯覚を起こすほどだからよっぽどだ。
 一分と持たず座禅を解こうとしたが、身体がガチガチに固まって動けない。助けを求めようにも、絶え間なく流れる水の音に勝てるほどの声量が出ない。
 おまえ、よくこれに耐えてたなと、薄れゆく意識の中ハンモックに称賛を送った私が次に目覚めると、寺の一室だった。
 暖かい布団にくるまれ、扇風機の優しい風が吹いている。傍らには残念そうな顔をした住職が座っていた。「だから言ったのに」と顔で言っていた。
 我ながら阿呆なことをしたと思うが、心底憐まれると心にくるものがある。回復がてらふて寝してやった。

 さて、次なる一手は。
 目論見が見事に失敗した私は、住職にある人物を紹介してもらった。
 都内の片隅に建つ、濃い紫色の妖しげな館。営業時間外だそうだが、住職の名前を出すと入れてもらえた。
 館の中も外観に負けじと妖しい。やはり紫色の幕が天井から垂れ、廊下の壁にかかったランプは青い微光を放っている。
 奥の部屋には、仮面舞踏会で着けるようなマスカレードマスクをした男がいた。見るからに怪しい。
 私が訪ねたのは催眠術師である。精神を鍛えるのが難しいなら、いっそ己を騙してみようというわけだ。
 どういう繋がりなのか住職に訊いたら「多様性」とだけ言われた。闇を感じる。
「お掛けください」
 椅子に促されたので座り、ここへ来た目的を端的に伝えた。
「無になりたいんですが」
「あなた急ですね」
 強い催眠をかけるには、相手の情報がより必要らしい。仕方なく、私は住職に聞かせたのと同じ話をした。
「ではこちらに」
 今度はベッドに促され、私は仰向けに寝転んだ。手渡されたアイマスクを装着し、目をつむる。何も見えない世界に、耳障りの良い術師の声が響いた。
「今から私が言うことを思い浮かべてください」
「はい」
 おお、本格的だ。これは期待が持てる。
「あなたの目の前に金属が置いてあります。大きさは手のひら大」
「……はい」
「形は真四角の立方体。深い鼠色をしていて、鈍い光をたたえている」
「……はい」
「その金属はとても硬い。衝撃に強く、並大抵のことではびくともしない。こんこんと指で叩いてみてください。どうですか?」
「……はい、硬いです」
「さらにその金属は、自らの居場所を決めることができます。今、あなたの目の前を激流が通り過ぎました。金属の位置はまったく変わっていません」
「……はい」
「あなたはもう一度金属に触れる。すると金属はひとりでに浮き上がり、あなたの心臓へと吸い込まれていく。硬い硬い金属は、あなたの一部となりました」
「……はい」
「胸に宿した金属が、確固たる意思をあなたに与えてくれます。あなたの心は、どんなことがあっても揺らぎません。何物にも惑わされない精神を、あなたは手に入れたのです」
「……はい」
「さて、あなたはダイエットを始めました。目の前には、お皿に乗った大好物のケーキがあります。手にはフォーク。顔を近づけると甘美な香りが漂い、生クリームはまるで白雪のようです」
「……はい」
「カロリーは高いですが、見るからに美味しそうです。さあ、あなたは食べますか?」
「お腹が空いているので食べます」
「……はい?」
「後で運動すれば大丈夫です」
「いや、そんな問題じゃない。いいですか、あなたは鋼の意思を手に入れた。さらにはダイエット中だ。つまり?」
「腐らせたらもったいないから食べる」
「なんでかからないんだよっ」
 術師は唐突に声を荒げた。
「感受性が豊かだって、あなた言いましたよね。あれは嘘ですか?」
 むっとして、私は起き上がってアイマスクを取った。
「嘘じゃないです。でも、まずそちらが催眠にかかってくれないと。私それにつられる形になるわけだから」
「催眠術にかかった状態で人に催眠をかけろって言うんですか? しかも自分で催眠をかけろって? あなたねえ、それは」
「出来ないんですか?」
「あなっ……」
 術師は言葉を失い、はあ、と息を吐いた。
「無礼な方だ」
「でも相手が無礼かどうかは、自分の尺度次第でしょう。私はむしろ、尺度の押しつけの方が無礼だと感じる」
「そういうことじゃなく最低限の礼節ってものが……ああ、もういいです。出ていってください」
 しっしと手を払われ、私は館を出た。忖度してほしかったのならそう言えばいいのに。まったく呆れた人だ。

 これまで二箇所を巡り、目論見としては大失敗しているが、術師に会って一つわかったことがある。
 一心不乱に修行に打ち込んでいる修験者たちも、実は辛いということだ。
 というのも、彼らがもしも心頭滅却の域に達していたなら、私も辛さを感じなかったはずなのだ。
 三十年も生きてきて、今さら仕組みに気づくのも遅いと思うが、今気づくのが今からの最速なんだからいいだろう。
 つまり私に必要なのは、強い精神を持ったパートナー。人生の伴侶だ。
 そんなわけで、私は結婚相談所にやってきた。受付で手続きをした後、打ち合わせ室で待っていると、紹介係の女性がやってきた。ふくよかな中年の方である。
 私は単刀直入に希望の人柄を伝えた。
「鉄仮面がいいです」
「ええと、仮面夫婦をご希望ですか」
 意図が伝わらなかったのでいつもの説明をした。
「はあ、なるほど。うーん、かなり特殊なケースですが、一人だけ該当しそうな方がいますよ」
 係の人は、登録者をまとめた冊子をぱらぱらめくると、こちらに向けて差し出してきた。
「この方なんですけどね、無口で無愛想で、こちらがどんな話をしても無表情で、それで今までなかなかご縁に恵まれなくて」
 写真を見ると、うりざね顔というのか、色白で鼻筋の通った女性が映っていた。ただ話の通り、どこか浮世離れした印象を受ける。
「この人がいいです。この人に会わせてくれませんか」
 数日後、結婚相談所に併設されているカフェスペースにて、私は件の女性と対面を果たした。
 長嶺籐子さん。写真で見るより細く、どこか影がある。紅茶を飲む時のうつむき加減や、物静かな佇まい。太陽より月が似合いそうだと思った。
 軽い自己紹介の後、しばらく世間話をした。
 長嶺さんは、百貨店の中にある本屋で働いているのだそうだ。接客業と聞いて、不得手じゃないのかと思ったが、話をしていると、覇気はないものの受け答えはしっかりしている。
 ただ事前情報通り、表情はまったくと言っていいほど変わらない。
「趣味でキャンプをしているんですが」
「ええ」
「一人で行くんですが、やはり自然は良いですよ。空気の澄んだ山で、木漏れ日を浴びながらハンモックで昼寝なんかしていると、なんとも言えず心地いいんです」
「良さそうですね」
 そんな風には見えない。
「この時期は虫が多いので、ハンモックはもっと涼しくなってからですけどね。虫は大丈夫な方ですか?」
「平気です」
 そんな風には見えるけど表情は変わらない。
「冬キャンプもいいですよ。星空が澄んで見える穴場のキャンプ場があるんです。良ければご一緒しませんか」
「ええ、ぜひ」
 ぜひなんだ。普通ならけっこう乗り気な返事だと思うが、表情も声色も変化なしだと、社交辞令かどうか判断がつかない。
 その後もずっと同じような調子だった。紹介係の人が難色を示したのもわかる気がする。
 なのに、私は不思議と嫌に感じなかった。
 精神の揺らぎが少ない人を希望したのは確かで、それには合致するのかもしれないが、なぜかそんな理由に乗っかりたくない自分がいる。この人をわかるために、もっと話してみたいと思った。
 彼女は映画を観るのが好きだというので、我々は映画館に行くことにした。流行りのアクション映画ではなく、根無し草の主人公の旅を描いた、地味なフランス映画だ。
 その映画の一場面で、私の目から、つーっと涙が出てきた。なんてことのない別れのシーンなのに、さして感動をしていない自覚もあるのに、なぜか私は泣いてしまった。
 そっと横を見ると、彼女はまっすぐにスクリーンを見据えている。相変わらず表情はない。
 そこでようやく私は気づいた。
 私の涙は彼女の心なんだと。
 無愛想、鉄面皮だからといって、心の動きがない人なんていない。表面上に現れなくても、こんなにも豊かな感情があるんだと。
 私はこれまでの己を恥じた。と同時に、彼女に対して嫌な感じがしなかった理由がわかり、うれしくもなった。
 映画を見終わってから、帰りの車の中で訊ねた。
「長嶺さんは、どうして結婚相談所に?」
 助手席に座り、流れゆく夜の景色を見ながら彼女は答える。
「私には身寄りがありません」
 幼い頃に事故で両親を亡くしたこと。親戚の誰にも引き取られず、児童養護施設で育ったこと。人とうまく意思疎通できないこと。彼女は淡々と語っていく。多少の諦めはあっても、寂しさがなくなるわけではない。
「両親の記憶もありません。けれど、夫婦仲は良かったと聞いています」
 彼女がカバンから写真を取り出したので、手近なところに車を停めた。写真の中には、紫陽花をバックに笑い合う男女がいた。
「仕事の帰りに紫陽花を見かけて、この写真のことを思い出しました。私はこの二人から生まれたんだな、ってあらためて感じると、恋を知りたいと思ったんです」
 照れと恥ずかしさが混じって、耳が赤くなるのを感じる。加えてそれとは別に、自分自身の胸が高鳴るのを、私は感じていた。
「高梨さんは、なぜ結婚相談所に?」
「え、ああ、ええと」
 不意に問われて軽くうろたえてしまった。気を取り直し、私はこれまでの経緯を話した。
 想像妊娠から始まり、寺での失態、まったくかからない催眠術など、自分の中で真面目に深刻に捉えていた部分もあったはずなのに、楽しく話せてしまったのは我ながら意外だった。しかしその理由は言うまでもない。
 精神を鍛えるとか騙すとか、豊かな感受性を抑えようとしてきた私は、ここへきて、その考えは間違いだと知った。
 この人の心が知りたい。
 この人の心を知ることができる私の心を捨ててはいけない。
 これまでの話は終えた。必要なのはこれからの話だ。
「籐子さん」
「はい」
「僕と結婚してくれませんか」

 とうとうこの日が来た。
 今から始まる長丁場のことを考えると戦々恐々としてきたが、私がそんな体たらくではいけない。病院まではもう少しなのだ。
 後部座席にいる妻は珍しく呻いている。むろん、さっきから私の体調も悪い。経験したことのない鈍痛が、徐々に勢力を増してきている。
 分娩室にたどり着く頃には、きっと最高に苦しくなるだろう。そう、最高にだ。
 あの時、自分を抑え込むような真似をしなくて良かったと思う。でなければ、妻の心がこうして伝わることもなかった。
 痛い。苦しい。
 でもそれだけじゃない。
 その先にある、確かな希望を私は感じていた。
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