前編

文字数 7,789文字

田舎は、時間の進みが遅い。
片田舎にある祖母の家に単身で引っ越してから、(あや)はつくづくそう感じていた。
軒下に吊るされた風鈴が、りいん、と涼し気な音を響かせる。
都会にいた頃はクーラーがないと生きていけないと思っていたのに、ここでは風鈴と扇風機だけでなんとかなってしまう。「ここらは田んぼの水が冷房替わりなんよ」と誰かが言っていたけれど。
「地球温暖化まで遅いとは」
文はスイカの種を庭先に飛ばしてひとりごちた。
ネット通販で注文したものが届くのは一週間後だし、SNSで話題になったお菓子が「新発売!」のラベルとともに近所の商店に登場するのは、よくて半年後。事故が起きた交差点に、住民が設置を要望した信号機は何年経っても設置される気配はない。
夏雲が影を落とす。
スイカの皮を載せた皿を端によけて、文は縁側に寝そべった。
頭にヘアゴムが当たって痛かったので、身じろぎして髪をほどく。都会にいた頃はこまめに美容院に通ってショートヘアにしていたのに、今ではバスで一時間かけて街まで行くのが面倒で、伸ばしっぱなしになっている。

祖母がやっている、こじんまりとした稲荷屋は今日は定休日だ。
文の祖母は、祖父の定年退職を機に、自宅の敷地にあった納屋を改装して稲荷屋として商売を始めた。
ふっくらと炊き上げた甘辛い油揚げに、畑でとれた野菜を使った五目酢飯をたっぷり詰めたお稲荷さんは、文が子どもの頃から大好物の、自慢の味だ。
創業して間もなく20年になるが、店には地域の人と、ごくたまに立ち寄った観光客が来るくらいで、大して繫盛はしていない。
扇風機の風を打ち負かすように、山風がびゅうと吹いた。絶え間なく鳴いていた虫たちが一瞬息をひそめたが、風が吹き止むと、かえってけたたましくその声を響かせ始める。
ジーワジワジワ、ミンミンミンミン……、ゲコゲコゲコ……。
文は毎年、年末年始の時期だけ母方の実家であるここに遊びに来ていた。だから、夏がこんなに音に溢れていることを知らなかった、1年前まで。

祖父が亡くなったのは、去年の夏の終わりのことだった。
朝、祖母から連絡を受けて、母と一緒に新幹線に乗った。着いたころにはもうお通夜もお葬式も段取りがついていて、仏間には真っ白な布団で眠る祖父の姿があった。
葬儀の祭壇にはやさしい笑みの祖父の写真が飾られていた。年始にお酒を飲んでほろ酔いになったところを文が撮ったものだった。祖母の表情は、遺影の中の祖父とは対照的にずっと暗かった。
精進落としで味の薄いご飯を食べながら、後からやって来た父と一緒に今後のことを話していたとき、
「店をたたむしかないかねえ」
と言う祖母があまりに寂しそうで、文は考えるより先に、
「わたしが手伝うから。辞めるかどうかは、今決めなくてもいいんじゃない」
と言った。
前年の現役受験に失敗して、浪人中の身だったが「勉強はどこでもできるから」と言って、反対する母をよそに、半ば強引に引っ越した。

「『大人になった』」
文は、ぽつりと呟いた。ここに引っ越してから、店に来た昔なじみのお客さんに何度もかけられた言葉だ。
いつからか文は、以前の自分自身と違う自分に気付くたびに、その言葉を呟くようになった。
朝なかなか起きられなくなったり、暇な時間に漫画を読みふけったり、意味もなく夜更かしをしたり……正確には寝つけなくなった、だが。受験勉強をしていたときは、毎日、規則正しく、暇さえあれば勉強をしていたから、そんなふうに自堕落な過ごし方をするようになった自分に驚く。
最近の文は、早起きした日は店の仕込みの手伝いをして、日中、祖母が畑に出ている間だけ店番に立つというのんびりとした日々を過ごしている。
引っ越しと同時に持ってきた参考書の束は、ある事件をきっかけにすべて捨ててしまった。

居間にあるテレビから、天気予報を読む女性キャスターの声が聞こえてくる。梅雨明けが宣言されたようだ。
(もう何日も前から晴れているのに。気象庁も時間の進みが遅いのか)
うとうとと眠りにつきかけたところで、祖母の声が聞こえた。
「文ちゃん、食べ終えたんなら、蔵のお掃除やってくれる?梅雨も明けたし、風を通しておかんとね」
祖母は小さく切ったスイカ2切れを持って、とたとたと仏間の方へ歩いて行った。守り狐の金さんと銀さんにあげるのだろう。
以前の文なら反射的に小さく不満を口にしていただろうが、今は「はーい」と素直に返事をして、のそりと起き上がる。
ある日きれいさっぱり勉強を辞めてしまった文に、祖母は、
「文ちゃんの好きにすればいい。人生は長いから」
と優しく言うだけだった。
祖母の寛容さに感謝しながらも、文は、それからずっと、少しの罪悪感を抱いている。
転がっていたヘアゴムを拾って髪を適当にまとめなおした後、掃除をするときに使う三角巾をたんすから引っ張り出して、髪を覆った。

──文ちゃん、お姉さんになったねぇ。もう、立派な大人やね。
──医者の大学入るのは、辞めたんか?
──そりゃあいい。女の子は、やっぱりね。
──おじいちゃんも、章夫(あきお)くんも、きっと喜んどるよ。

蔵のほこりをはたきで払っていたら、ごとん、と何かを倒した鈍い音がして、文は我に返った。
単調な家事をしていると、雑然とした記憶が止まらなくなって、よくない。文は目を閉じて息を少し吐いた後、音の正体を見た。
倒れたのは、狐の形をした立派な焼き物だった。
稲村家の先祖は無類の狐好きだったようで、蔵には所狭しと狐を模した小さな置物があるが、倒した狐はそのなかでもひと際立派なもので、本物の狐そっくりの大きさになっている。毛並みまで表現されているが、表面には陶器特有のつるりとした光沢がある。
(割れていないよね)
慎重に持ち上げて確認すると、裏に古びたお札が見えた。文はぎくっとして、ひとまずそっと元の場所に戻す。
文は祖母と違って

える訳ではないので、「怪しいものには近寄らない」という稲村家の守り狐の教えを守っている。
「とりあえず、金さんと銀さんを呼んでくるか」
振り向きかけたそのとき、鈴の鳴るような声が蔵に響いた。
『そなた、面白いものを持っておるな』
どこかから風が吹き込み、狐の陶器の毛がそよぎ始めた。薄荷(はっか)色に眩く光り、文は目をつぶったが、すぐに風は吹き止み、狐の毛も元のつるんとした光沢に戻った。声はそれきり聞こえない。
「……うーん、お札は剥がしていないのになぁ」
文はのんびりとした足取りで蔵の戸を閉め、その場を後にする。
しゃべる置物は初めて見たが、稲村家にはもっと変なモノがいるので、今さら文は驚かない。

「金さん、銀さんー、ちょっといい?」
文が呼ぶと、仏間で丸まっていた子狐二匹がぴくりと顔を上げた。
くすんだ金と銀の毛並みをしている二匹は、文の頭の三角巾を眺めた後、しっぽをふるふると振る。
「おお、文。その格好、掃除をしておったのか?」
「感心、感心。近頃の文は休みとあらばごろごろだらだらしておるからのう」
「小言はいいから。蔵に何か変なものがあってさ、ちょっと見てほしいんだけど」
「なんじゃと。よかろう、見てみよう」
「うむうむ、怪しいものは我らにまかせよ」
文に頼られて嬉しいようで、二匹の子狐はご機嫌な足取りで蔵に向かっていく。

金と銀は稲村の先祖に恩があるという、守り神ならぬ守り狐だ。八百万(やおよろず)の神々の末席に名を連ねてはいるそうだが、まだ修行中の身なので、狐と呼ばれる方が気が楽らしい。
「梅はよく()かれて泣きついてきよったが、文が声をかけてくるのは珍しいのう」
「悪いものは無いに越したことはないのじゃが。我らはこういうところでしか力を発揮できんからのう」
尾を下げた二匹の狐を文が慰める。
「うちのお稲荷さんの匂いを風で遠くまで運んでくれてるんでしょ。助かってるよ。おかげで観光客の人まで来てくれるんだからさ」
金と銀は商売の神を目指しているのだが、現在の稲荷屋はなんとか生活していけるぐらいの細々とした売り上げしか出していない。
「過疎化がねぇ。すごい神様にだって、きっと、こればっかりはどうしようもないよ」
日本の総人口が1億人を切るのは、そう遠い未来ではないらしい。

行政は「コンパクトシティ」と言うけれど、ここはその流れから外れた地域だ。
参勤交代に使われた街道があった影響で、民家は多く、歴史ある商店街も存在してはいるが、倒壊しそうな空き家が目立ち始めているし、商店街に並ぶ店もひとつまたひとつとシャッターを下ろしている。
おまけに、最寄りの市街地まではバスで片道1時間かかるというアクセスの悪さで、当然、電車も無い。
今後、タムパ重視の若い世代の流入はほとんど期待できないだろう、と文は考えている。
既存の住人は、ばかにならない車の維持費と年々高騰するガソリン代に頭を悩ませているし、高齢になると免許の返納が迫ってくる。田舎で車は生活必需品だ。手放してしまえば生活が立ち行かない人も多い。ということで、生活に余裕のある世帯から一人また一人と減っていく。
老いも若きも住みづらい。
ここにあるのは豊かな自然と、県の文化財に指定されている古いお寺と、受験生に有難がられる「押しても落ちない岩」という観光資源くらい。
(これからわたしはどうなって行くのだろう)
過疎化の進む土地に引っ越して。浪人生という肩書を手放して。
宙ぶらりんの気持ちのまま、祖母の店を手伝っている。
いずれここにも限界集落の名が付くのだろう。そうなったら、祖母は、金と銀は、文は、どうなるのだろう。
いったい、どうやって。何のために、生きていくのだろう。

がらりと蔵の戸を開けると、蔵の中で冷やされた空気がひんやりと文たちの身体を包んだ。
「これだよ」
と文が指さした薄荷色の狐の置物は、澄ました顔でつやつやと光沢を放っている。
「美しい焼き物じゃのう、悪い気は感じぬが」
「封印がされておるようじゃの」
狐の置物の周りを、二匹の子狐がくるくると回る。
「さっきは声が聞こえたんだけど」
「封がされたままか?それは妙な……」
「封印が弱まっている様子もないしなぁ、気のせいではないか?」
「そうかなぁ、おばあちゃんにも一応聞いてみようか。何か知っているかもしれないし」
「梅は畑に出ておるぞ」
「わかった」
文が三角巾をほどいていると、「ふわぁ」とあくびをする声が聞こえた。
一人と二匹が顔を見合わせる。声はたしかにあの置物から聞こえたようだ。
「すまぬ、二度寝をしておった。しばし待てよ……よっと」
声とともに、ぺらりぺらりと少しずつ、お札が剥がれていく。すべてが剥がれ切った次の瞬間、眩しい光に思わず文は目を覆った。
「あ、貴方様は──!?」
隣で金と銀の叫び声が聞こえた。初めて聞く金と銀の声に驚きながら、おそるおそる目を開けると、そこには美丈夫がいた。
透き通るような薄荷色の長い髪と陶器のような滑らかな肌が、この世のものではない美しさを放っている──裸で。
「ふ、服は──!?」
文が目を覆いながら叫ぶと、美丈夫は「おお、すまぬ」と言ったあと、狐の姿に戻った。
陶器ではなく、本物の狐だ。ただしその毛並みはおよそ自然界には存在しない色で、きらきらと輝いている。
「久しぶりに起きたもので、細かいところを忘れておった。若い娘には刺激が強かったかのう」
からりと笑う美しい狐に、金と銀は呆然としている。
「金さん、銀さん……、お知り合い?」
「ふむ、どこかで会ったか?」
薄荷色の狐がじっと見つめると、金と銀はぶるぶると首を振る。
「めめめ、滅相もない!我らが一方的に存じておるだけで!」
「我ら妖怪(あやかし)あがりの気狐(きこ)にございます!ア〇※□メツチノ※△様のことは畏れ多くも神議(かむはか)りの際、出雲の地で遠くからお姿を拝謁して──」
「おお、そうであったか。若い者は知らぬかもしれぬが、わしも元は妖怪だ。そうかしこまらずともよい」
薄荷色の狐の言葉に、金と銀の緊張がゆるむ。
「しかし、よもやこのようなところにおられたとは……出雲の地はア〇※□メツチノ※△様がお隠れになってしばらく騒ぎになっておりましたよ」
「いったい、どうしてこのような封印を?」
滑り落ちたお札をすんと嗅いで、金と銀が首をかしげる。
「すまぬが、その前に茶を淹れてくれぬか。久しぶりに起きたものでの。喉を潤わさせてくれ」
(神さまも寝起きは喉が渇くんだ)
薄荷色の狐の言葉に頷きながら、文はのん気にそう思った。

文が緑茶のティーパックを急須に放り込んだところで、台所の勝手口から祖母の梅が帰って来た。冷蔵庫から麦茶を取り出してごくごくと飲み干す。
「ぷはーっ、今日はえらい暑いわぁ」
空になったコップを威勢よく置いたところで、居間にいる薄荷色の狐に気付いた。
「あら、珍しい。狐のお友達?」
耳としっぽが出た子どもの姿で、食器棚の奥から客用の良質な茶器を引っ張り出していた金に聞く。
「梅や、あちらの御方はお客様じゃ」
「貴い神様なのだぞ」
同じく客用のおぼんを引っ張り出していた銀が言う。
居間の中を物珍しそうに見ていた薄荷色の狐神がお辞儀をすると、
「まあ、それは、ようこそいらっしゃいました」
と梅は上品に会釈をしたが、文の手元を見て、慌てて止めた。
「文ちゃん、もっと良いお茶をお出しせんと!」
梅は台所の吊り棚から何やら高級そうな茶筒を取り出して、茶器にお湯を入れて急須に戻し、手際よく淹れていく。そのまま慣れた手つきでおぼんに載せて、隣の居間へと運んだ。
「粗茶でございますが、どうぞ」
「かたじけない」
差し出された湯呑みの前で、狐はくるんと回って、蔵で見た美丈夫の姿になった。今度は、質のよさそうな白い浴衣に紺の帯を締めている。
文は改めて、その神々しい容貌に息を呑んだ。人の容姿に頓着しないようにしている文だが、テレビや雑誌で見る芸能人よりも遥かにきれいだ、と思った。
どこをとっても非の打ちどころがない造形。清涼さを感じさせる一重瞼と少し吊り上がった目に、柔和な印象を与える唇が、この上なく優美な雰囲気を醸し出している。一級の美術品のようだ。
梅は美丈夫の姿に少し目を丸くしたが、すぐに何事もなかったかのように、
「大したお構いもできずすみませんが、どうぞごゆっくり」
と微笑み、文にお茶請けの用意を頼んで、忙しそうに畑仕事に戻っていった。


「徳川の世になった後、あまりにも退屈だから散歩しておったら、妖と見紛えたらしい法師に封印されてしもうてな。無礼な奴と思うたが、これが存外、心地良いものでのう。ついそのまま眠っておったというわけだ」
お茶をすする美丈夫の斜向かいで、金と銀が目を輝かせながらふんふんと話を聞いている。
文は、台所で目についたお菓子を載せるだけ載せた菓子盆を持ってきて、ちゃぶ台に置いた。
「どうぞ」
「おや、これはかたじけない」
上座や下座のマナーをこの神様は気にしない気がしたので、文も気にせず美丈夫の真正面に座った。
「どうやら、時代はすっかり変わったようだな」
目の前の個包装のドーナツを手に取って、まじまじ見ながら美丈夫が言う。
「なにしろ、家康様の時代から四百年は経っておりますので……」
「何と。そんなに経っていたか」
文は菓子盆の上からせんべいを取った。ぱりぱり、と小気味のよい音を立てて細かく割り、封を開けると香ばしい醤油の香りがする。視線を感じて顔を上げると、美丈夫が文の方ををまじまじと見ていた。文は物怖じしない性格を自認していたが、自分は美しい人に見つめるとどぎまぎするのだと知った。
気まずさに耐えかねて、文は一先ずせんべいを置いて話題を振った。
「金さん銀さん、こちらの何とか様はどういった神様?」
「文よ、こちらのお方はア〇※□メツチノ※△様という高貴な御方であるぞ」
「緊張感が足りぬ」
そう言われても、目の前の狐神は少々人型が美しいだけで、長い付き合いの狐たちとそう変わらない存在に文には思えた。
「古い言葉だからか、わたしには聞き取れないな。簡単な呼び名はないの?あだ名とか」
「文!」
たしなめる金と銀をよそに、薄荷色の狐神がさも愉快気な顔をして言う。
「それでは、そなたが良い名を付けてくれるか?」
その提案に、金と銀があんぐりと口を開けた。
「ええ?」
文はまんざらでもなく視線をさまよわせ、部屋の片隅にあるガス会社のロゴが入った月めくりカレンダーに目を止めた。今月は海水浴のイラストが描かれている。海、砂、水着、ビーチパラソル……神様の名前にはいまいちか。
「それじゃ、夏様でどう?」
あのイラストからよくこんなに良い名前を思いついた、と文が心の中で自画自賛していると、金と銀が呆れた様子で互いに顔を見合わせた。
安直(あんちょく)じゃのう」
「……血は争えぬものじゃ」
「な、何さ」
文が金と銀に目を向けると、美丈夫がくすりと笑った。その様子を見て、金がしずしずと進言する。
「このような小娘ゆえ、御名の件はどうぞお考え直しに」
その言葉に美丈夫がとんでもない、という調子で首を振る。
「──文、気に入ったぞ。『夏』の名、受け入れよう!」
その瞬間、ぶわりと突風が巻き起こった。続けて青白い光が美丈夫と文を覆う。文は恐怖を感じながらも、眩しさに堪らず目を閉じた。

風が止み、おそるおそる目を開けると、
「うわ!なにこれ!?」
文は自分の左手首を見て叫んだ。旧字体の夏の字が入れ墨のように刻まれている。美丈夫の腕にも同様の模様が入っていた。
ぽかんとした文と、したり顔の美丈夫の間に、青ざめた表情の金と銀がすべりこむ。
「ア〇□メツチノ※△様!どうかお考え直しを!文はとてもそんな──」
同時に吠えた二匹の子狐を、美丈夫が不機嫌そうに一瞥した。
「金銀とやら、わしの名はたった今『夏』となったぞ」
気圧された金と銀がしゅんと縮こまった。
(これ、もう取れないのかな)
金と銀の様子を横目に、文が手首をさすっていると、美丈夫が目を細めて文を見た。
「文、お主はいまわしと(ちぎ)りを交わした。それが契約の証だ。人の目には見えぬから心配せずともよい」
「ち、契り?」
「そうだ。わしが力を貸す。ともに天下を取りにいこうではないか!」
「え?なに、天下?」
ぽかんとする文に、金と銀が口を挟む。
「……『夏』様。文は戦など知らぬ子どもです」
「とても天下取りの器ではありません……」
「ちょっと待って、金さん、銀さん、説明してくれる?いま何が起こっているの?」
文が金と銀の方に向き直ると、二匹の尾はしなだれていた。
「文よ、この御方は天下を取らんとする者の前に現れる戦神(いくさがみ)じゃ」
「お前はたった今、畏れ多くもその神に縛りの名を授けてしまった」
言っている意味がよくわからずに、文は目をしばたたかせた。
「て、天下って?冗談でしょ、このご時世に。それに、神様って人間には何もできないんじゃ──」
文は、しまった、と思い途中で口を閉じたが、金と銀のショックを受けた様子に、それが伝わってしまったとわかった。
10年前、信号の無い見通しの悪い交差点で、兄の章夫が車に跳ねられて亡くなった。あの当時、金と銀をひどく責めてしまったことを、文は今でもずっと後悔している。
神は人には干渉できない。
そう思い知った文は、あの日から神頼みをしなくなった。それなのに。
(戦神って、どういうこと?)
気まずい沈黙のなか、一人、あっけらかんとした顔つきで、
「どうも、わしの知っておる世とは違うようじゃのう」
形のいい顎に手を当てながら『夏』様は、興味そうに呟いた。
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