第五話 順調なのはリハビリだけ

文字数 2,731文字


 この日は定時で仕事を切り上げた。リハビリの予約を入れていたからだ。

 署から十五分ほど歩いたところに、骨折で手術を受けた病院が運営するリハビリ専用の施設があった。
 六時を回ってあたりはすっかり暗く、冷え込みはさらに厳しくなっていた。そんな中を歩くのは辛かったが、仕事から解放されてあらためて考えごとをしたいと言う思いもあり、家路を急ぐ人々に混じって、大通りをゆっくりと歩いた。

 考えごとというのはもちろん、チョコレートをくれたマロンちゃんの件だった。
 警部の言うようなことが本当だとは、どうしても思えない。彼女とはほんの数回、

として

会話を交わしただけだ。そんな彼女が本気で想いを寄せてくれるなんて、さすがに考えにくかった。確かに、今朝の彼女の態度からはある程度一途さは伝わって来たし、勧誘の仕事をしているというような事務的な空気も感じなかった。けれど、だからと言ってはいそうですか、ボクのこと好きなんですねありがとうとはならないし、そこまで能天気じゃない。
 もう、めんどくさいからこのまま放っておこうかとの考えも頭を過るが、悲しいかな、そうあっさりと切り捨てるほど潔くもない。なにしろ、あんな可愛いコに告白されるなんて初めてだから。

 さて。どうしたものか。

 真相が知りたければ店に会いに行けと警部は言った。
 それしか方法はないのは分かっているし、先方もそれを望んでいるのだから、迷う理由はないはずだと。
 けど、どうにも躊躇してしまう。
 のこのこと会いに行って、案の定、ただの勧誘だったと分かるのが嫌だから。店中、チョコをもらったマヌケなモテない男子でいっぱいだったら――
 受けるダメージは計り知れない。考えただけでぞっとする。
 警部は、自分なんかとは違う。あの人は、育ってきた環境と着実に掴んできた経歴のおかげで自分に圧倒的な自信があって、向かってくる困難にも立ちはだかれる勇気と打たれ強さがあって――
 そう言えば最近、そこに何か、強い覚悟のようなものが加わったようにも感じる。
 それが恋人からの影響であることは一目瞭然で、だからますます、こっちが落ち込んでしまうのだ。

 ああ、チョコなんかもらわなければよかった――

 は、相変わらず思考が卑屈だなと自分で自分を嗤っているうちに、リハビリ施設に着いた。


 リハビリは順調に進んでいた。と言っても手術後の傷が治るまで約三週間かかり、それから始めたから今日でちょうど四週間だ。完治にはもうしばらく、春先になるだろうとのことだった。だが大きな事件が起きるときっとリハビリどころではなくなるし、そうではない今のうちに出来るだけ進めておこうと、せっせと通っているおかげで成果が上がっていたのだ。
 リハビリとは言えそれなりに汗をかくので、意外といい気分転換になった。担当の理学療法士は見るからに健康的な爽やかイケメンで、見た感じ同年代か、ちょっと上のようだった。こちらが警察官だと知っているので、「あなたも体育会系でしょ」的な空気を出してくるのが少し面倒だったが、肩の状態を的確に把握してくれて、説明は分かりやすくて丁寧、つまりは仕事のできる人物だったので、ストレスフリーでメニューをこなし、終わる頃にはいつも心身ともにすっかりリフレッシュ出来ていた。

 ところが今夜は、最後の最後、挨拶を済ませてリハビリ室を出ようというときになって、その担当は余計なことを訊いてきた。

「――二宮さん、今日は成果ありましたか」
「は?」
 リハビリのことだと思ったので(だってそうだろう? リハビリしに来てるんだから!)、今さら何を訊いてるんだろうと思った。
 すると彼は言った。
「成果ですよ。バレンタインの。チョコレートもらいましたか?」
 まずは唖然とした。今どき、友達でもないのにこんなこと訊いてくるヤツがいるんだと呆れ返った。中学生かよあんた。いや、小学生でももっとクールだろ。
 それから次に――また思い出して気が重くなった。
「ノーコメントで」つっけんどんに言ってドアを開けた。
「またまたぁ! 二宮さんならモテるでしょう? 教えてくださいよぉ!」
 白い歯を輝かせ、小躍りするようにこちらに近づいてくる。は? 俺のどこを見てモテると言ってるのか。思ってもいないことを適当に並べやがって。勤務中なら射殺してやるところだ。罪名は――重過失無神経罪。
「すいません、急ぎますので」
 構わずに背を向けようとすると、なおも食い下がってきた。
「さてはデートですか? 隅に置けないなぁ」
 骨折して手術を受けて、リハビリ始めてようやく痛みが緩和されてきた患者に対して、何をどう考えたらそういう発想になるんだろうと思った。
 なるほど、こういうヤツにはきっと、適当にはぐらかすという極めて当たり前の対応は通用しない。明快な答えを与えてやらないと納得しないのだろう。面倒な上に腹立たしかったが、ドアを閉めるとあらためてきちんと向き直って言った。
「あいにくウチの職場は、こんな状態のボクですらなかなか甘やかしてはくれません。悪人を捕まえるために寒空の下を駆けずり回って、上司を納得させるだけの一定の成果を上げ、何とかこの時間に間に合わせて来たというのが現状です。バレンタインだのチョコレートだの、そんな甘いものとは無縁な一日を過ごしてましたよ」
 大きな嘘が混じっていたが、真実を話す気など毛頭なかったからこれでいい。担当はまだ何か言いたそうな表情をしていたが、ではまた次回、と頭を下げ、わざと大きな音を立てて部屋を出た。

 ――何なんだよまったく。患者をからかって面白がるとは悪趣味な。

 廊下をエレベーターホールまで戻ってきたところのそばに自販機コーナーがあり、そこで水分補給のスポーツドリンクを買ってベンチに腰掛けた。
 一口飲んでふうっと息を吐き、壁に背を預けた。
 何だか疲れたなと思った。リハビリのせいではないのは言うまでもない。
 そしてまたマロンちゃんのことが頭を過るのだが、さすがにもういい加減にしろよと自分に嫌気がさした。考えたって仕方がない。結局のところ方法は一つなんだ。無論、結果次第では傷つくことは逃れられないが、それが嫌だからと言って他の策など、こんな自分に浮かぶはずもない。

 そこでまたハッと気づく。クソみたいな堂々巡りに。
 やめだやめだ。二十八歳の男が、チョコレート一つで馬鹿じゃないか。

「――あの、すいません」

 声を掛けられて顔を上げた。
 なんとなくだが、見覚えのある女性が立っていた。


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