第3話

文字数 4,665文字

「おはよう、松本君」
「お、おう」
 朝、坂の途中にて。今度は図書さんの方から俺に話しかけてきた。
「数学の宿題、全部できた?」
「ん、まあ一応は」
「では、わかりやすい解説をお願いしよう」
「英語と引き替えだ」
「むう。まあいいでしょう」
 このとき俺は平凡な日常会話をしながらも、内心非常にうずうずしていた。
 トモちゃんと図書さんが親類関係にあるなどという話は聞いたことがない。どうして、クラスのみんなが知らなかった事実を図書さんだけが知っていたのか? いくら考えてもわからなかった。それこそ予知ではないか。
 でも訊ねられるわけがなかった。トショは未来を予知できるのか、などと。だってそうだろう。図書さんが聞いてきたとき、俺は自分のカンについて、こんなものはただの経験の積み重ねだって答えてる。そんな俺に質問する権利はない。
 仕方なく俺はすでにカバンから数学のノートを取り出してる図書さんの質問に答えることに専念した。
「ありがと、教えてくれて。はい、英語のノート。写し終わったら返してね」
 下駄箱のところで、図書さんはカバンの中をごそごそとやってから、ノートを俺に渡してくれる。
「写すのは得意だからな。すぐに返してやろう」
「それ、自慢にならないよ」
「では、先に行く」
 俺は図書さんをほったらかしにして、教室にダッシュする。英語は一限目なのだ。加えて、教授しながら歩いていたのでいつもより到着が遅い。急がなければ。
「ハロハロー」「おーす」「おはよー」
 俺は自分の席に座ると、あくせくと二冊のノートを机に置いた。薄ピンクの方は図書さんのだ。紙切れがちらりと覗いている。
 宿題はそこか! ナイスだ、図書さんと俺は高速でノートを開き――、
 硬直する。
『今日の昼休み、震度3の地震。斉藤さんが苺牛乳を頭にひっかぶる被害あり』
 紙切れには短くそう記してあった。

 四時間目終了十分前、俺の心臓はバクバクと高鳴っている。
 地震は本当に起きるのか?
 俺は一人悩んでいた。紙切れの内容は誰にも教えていない。言ったところで、電波扱いされるだけだ。
 図書さんの英語ノートと紙切れの文字はよく似ていた。聞いちゃいないが、あれを書いたのは間違いなく図書さんだ。
 よし、ともかくできることをしよう。
 終了一分前、俺はようやく決心する。図書さんからの伝言が事実だと想定し、行動計画を練る。例え地震が起きなくても、俺がカロリーを余分に消費するだけの話だ。
 被害に遭うのは、斉藤さんか……。時間があとどれぐらいあるのかはわからない。俺は緊急に斉藤さんを観察しだした。
 机の上に現時点で苺牛乳はない。まあ授業中だしな。もう持ってるのか、それとも昼休みに自販機に買いに行くのか。どっちだろう。そもそもどこで何を要因として、苺牛乳をひっかぶるんだ。斉藤さんは活発な女の子で、一年ながらソフトボール部のエースだ。そんな子が震度3の地震で転けるのか?
 ……まるでわからねえ。
 歯がゆすぎる。
 ついにチャイムが鳴った。
 クラスメートたちがわらわらと動き始める。斉藤さんもその一人だ。俺は激安焼きそばパンを三本机の上に置きながら、彼女をしっかりと観察する。まるでストーカーだ。周りの野郎どもに気づかれないようにしなければ。誤解されるとややこしい。
 斉藤さんは教壇近くで級友たちと群れを作り、食事を始めた。イスを持ってくるのがめんどくさいのか、立ったままだ。手には紙パックのジュースを持っている。
 苺牛乳だ。ビンゴだが、全く嬉しくない。
 どうする? 俺は懸命に思考する。
 その一、ジュースを強奪。うん、速攻で却下だ。斉藤さんはエースだけあって、俺より膂力があるだろう。無理だ。つーか、女子から飲みかけのジュースを奪い取るという行為自体がまずい。リアルに変態扱いされそうだ。
 その二、えーと……えーと、ああ、もうなにも思いつかねえ。
 ――どうする、どうする、どうするよ?
 諦めるか。いやいやいや、それは仁義に廃るだろうって、俺は任侠者ですか。背後で波飛沫が散ってそうだぜ。
 ん?
 半ばパニックになりかけたとき、俺は原因を唐突に見つけてしまう。
 あれだ。確信する。
 机上にある一枚の光沢紙が原因だ。その机と斉藤さんとの距離はおよそ二メートルほど。紙は机からはみ出している。
 俺はさりげなく接近し、紙を机中央に置き直す。キュッキュッとした質感だが、床や机の上では良く滑りそうだ。ついでにその正体を確認する。有名なアニメキャラが描かれたパチンコ屋のチラシだった。席の主は山田。紛う方なきオタクで、パソコン部所属だったはず。……ええい、こんなものは、ちゃんとしまっときなさい。
 念のため、チラシの上にヤツの筆箱を置く。文鎮代わりだ。
 これでよし。
 俺は席に戻り、焼きそばパンを急ぎ気味に食べ始める。
 二本目に突入したときに、揺れを感じた。俺は自分でも上手く説明できない奇妙な心境になる。強いて言えば、喜怒哀楽をなくした人間がなぜか驚きを感じてしまっているような気持ちだろうか……。
 教室に残ったクラスメートたちは天井を見上げたり、イスから立ち上がって中腰になったりしている。
 斉藤さんはそんな中をトコトコトコと早足で歩き、教室のドアをガラガラと開けた。
 避難路の確保だろう。見事な判断だ。
 程なくして揺れが止むと、斉藤さんはドアを閉め、仲間の元に戻ってゆく。スタンディングオベーションで迎えられた彼女の手には原形をきちんととどめた苺牛乳のパックがあった。
 山田のチラシも机に載ったままだ。
 地震の揺れで落ちたチラシに足をのせた斉藤さんが滑って転けて、苺牛乳を頭からひっかぶるという事態は避けられたのだ。
 万々歳だ。俺は二本目の焼きそばパンを胃に収め、今度はゆっくり噛みしめながら食べようと三本目に手を伸ばすが――、
「!」
 その三本目が唐突に消え失せる。
「話があります。付いてきて」
 焼きそばパンを人質に取った図書さんが俺の背後に立っていた。
 俺と図書さんは「裏切り者ー」と叫びながら、追いすがってくる野郎どもをなんとか撒き、図書館の裏に逃げ込んだ。まったく違うっての。勝手に誤解しないでほしいもんだ。
「それで話ってなんだ?」
 「よ」で始まる話題なのはわかっていたが、一応そう訊ねてみる。
 走った直後の図書さんはまだ息が荒かったが、頑張って口を開こうとしていた。
「す、す、す、す――」
 その顔は紅潮している。
「へっ!?
 え、え、まさかと予想と違う展開に俺はたじろぐ。人気のいない場所で「す」から始まるセリフと言えば、あ、あれなのか。つ、次はもしかして「き」なのか。もしかして図書さんは俺にそういう感情を抱いていたのか。
「――す、す、すごいね、松本君」
 俺は盛大に崩れ落ちた。ええ、俺がバカでした。
「すごいのはそっちだろう」
 脱力してどうでもよくなった俺はすべてぶちまけることにした。
「お前の方がよっぽど予知してるじゃないか。違うなんて言うなよ」
「うん。正確には予知夢だけどね」
 図書さんは俺の指摘をあっさりと受け入れ、話し始める。
「小さい頃から、私はいっつも予知夢ばかりを見てた。たぶんみんなが見てるような夢は一度も見たことがない。空を飛んだり、お姫様になったりするような夢は見たくても見られなかった。想いを描けるのは起きているときだけ。……だから、自然と本を読むのが好きになった。この前はからかってごめん」
「いや、別に大して気にしてもいないぞ。本当だ」
 ずいぶんと重たい話だ。故に俺は努めて明るい口調でそう言い返した。
「もうちょっと幼いときは、予知夢の内容を周りの人に話してた。友達はすごいって言ってくれた。大人は変な顔をしてたけど。決定的なことが起こったのは小学三年生の時。私は近所の家が燃える夢を見た。原因は放火。だから私は近所の人全員に火事のことを教えてあげた。……でも、防げなかった。逆に犯人扱いされた」
 ……まあ、当然だろう。誰もまだ知らない、起こってもない結果の原因を言っても、良くて戯れ言、悪けりゃ電波な人だ。ご近所の反応は理解できる。普通は予知なんか誰も信じない。
「しばらくして真犯人が見つかって、疑いは晴れたけど。私は引っ越すことになった。私は他人に夢のことを話すのをやめた」
「う、ん?」
 でも、俺には話したよな。
「私の夢は百発百中。現実への転換率は十割。起きている私がどんなにあがいても変わらない。それが苦しい。平凡な夢は現実が退屈になるだけだから、我慢できる。でも、酷い夢はそうじゃない」
「――」
 俺は想像してみた。例えばさっきの地震がもし震度7だったとしたら、その被害を事前に知っていても何もできることがないとしたら……。寒気がした。俺はその嫌な想像を打ち消すために頭を振る。
「でも――」図書さんの声のトーンが急に明るくなった。眩しいほどの笑顔を俺に見せてくる。「すごい人が現れたの。二台のスクーターに衝突される危機を見事に回避し、私の予知夢を破ってくれる人が現れたの」
「俺? 俺なのか?」
 俺は唖然として自分を指さした。
「そう、松本君! 私の夢では、松本君は事故で頸椎を損傷して暗い人生を送ることになってた。でも、違った。松本君が変えてくれたの! とても嬉しかった。でも、やっぱりなかなか信じられなくて私は松本君をテストにかけることにした」
「……テスト?」
「試すようなことをしてごめんなさい」
 俺の問いかけに図書さんは深々と頭を下げた。
「じゃあ、もしかして俺にトモちゃんのインフルエンザやら地震のことを教えたのは」
「そう。私の予知夢を破ってくれるところをもう一度見たかったから。そして、松本君は私の予知夢を今日また破ってくれた。斉藤さんは苺牛乳をひっかぶらなかった。松本君はすごい人なの!」
「……うーん。すまんが、まったく実感できん」
 たかだか苺牛乳ですごい人と言われても正直反応に困ってしまう。
「……それと、もう一つ言わなくちゃいけないことがあります」
 図書さんの態度が急にひどくおずおずとしたものになる。非常に気になった。
「言ってみ」
「はい、ドッジボールの時。鼻血が出ることを知っていました」
 赤色に染まった体育館の床が俺の脳裏に浮かび上がってくる。ついでに情けなさも。
「……俺はモルモットじゃないんだが」
 唐突に感情が負に反転する。ブチンと血管が切れたような気がした。俺は一人で教室に戻る。席に座るやいなや、野郎どもが色々と聞いてくるが、頬杖をついたまま無言を貫く。
「あの、これ――」
 遅れて戻ってきた図書さんが恐る恐る焼きそばパンを差し出してくる。
「いらねえ。てめえが食っとけ」
 素っ気なく言う。
「ご、ごめんなさい」
「俺、忙しいんだけど」
 頬杖をつくのにな。
「うん、邪魔してごめんね」
 たぶんクラス内での俺の評価は急降下中だろうが、それでも怒りは静まらない。
 家に戻っても、気分は悪いままだった。
 利用された、信じてたのに裏切られたという想いが腹の底に根付いてしまっている。おそらくドッジボールの件もテストの一環なのだろうが、俺をすごい人だと感じているのなら、なぜ教えてくれなかったのだ。ひょっとしたら避けられたかもしれないのに。
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