第1話

文字数 2,000文字

 今気が付いたのだが、どうやら私は俯せに寝かされているようだ。
 一体此処は何処なのか。
 ふと見ると傍らに立つ者の長靴が在った。
 御附武官の吉成の長靴か。
 朦朧とする意識の中で記憶を辿ってみる。

 そう言えば朝方仮御殿を出て吉成に車を譲った私は、騎馬で司令部へと向かう前二人で話した事を思い出した。
 私を座らせた吉成は我が第二総軍の今後の趨勢に付いて、応接室を締め切った上で切り出して来た。
「殿下も真田参謀副長が参謀本部の第一部長から我が軍に転属していらした事は、既にご存知の事と思います
 実の処この転属は梅津参謀総長閣下の御意向だそうです。
 参謀本部に居る知己から聴いたのですが、自他共に認める東條閣下腹心の真田閣下は中央でも名の知れた主戦派で、梅津閣下はその事が御気に召さなかったのだとか」
 私は肯きながら吉成に応じた。
「その話はそれとなく聴いていた。
 然しそれとは逆の話も然りだ。
 今は鈴木総理の処に居る松谷秘書官なんだが、彼は戦争指導課長だった時代当時の参謀総長からの命を受け、早期和平の研究をしていたらしい。
 その当時の参謀総長こそ、誰あろう第一総軍司令官の杉山閣下だ。
 何でも日独敗勢を前提にした蘇聯邦の介入に拠る終戦工作らしく、その工作案を後任の参謀総長だった東條閣下に意見具申した。
 当然の事主戦を第一義とする東條閣下に激怒され、松谷秘書官は支那派遣軍に飛ばされたんだが、昨年の秋当時陸相だった杉山閣下に秘書官として呼び戻されたと言う。
 つまり梅津閣下も杉山閣下も、東條閣下とは逆の御立場なのだ。
 軍の中枢は最早、主戦派の一枚岩ではないのだよ」
 吉成は小さく肯きながら返した。
「それに何より我が軍の畑司令官も、梅津閣下や杉山閣下と意を同じくされている由。
 阿南陸相も然り。
 今や上層部で主戦一辺倒なのは、東條閣下御独りなのだそうで」
 吉成の言葉に私は溜息混じりで返した。
「然もあらん。
 我が軍に於いても真田閣下を始め主戦派の参謀と、岡崎参謀長や畑司令官との折合が悪い。
 あれ程ギクシャクされては、部下の統率が取れんと言うものだ」
 吉成は声を潜めた。
「此処だけの話殿下に於かせられては、この戦争が終結の後京城の雲峴宮に御戻りあそばし、穏やかに御過ごしあらん事をわたくしとしては願うばかりであります」
 私も声を落としたが頬は緩んでいた。
「うん。
 そう言えば吉成は京城の雲峴宮に行った事が無かったか。
 雲峴宮には大きな桜の木があってな。
 毎年春になると花を咲かす。
 もし本土決戦が無くなって二人命拾いした時には、雲峴宮で花見でもするか」
 声を潜めながらも吉成は顔を綻ばせた。
「その節は是非お供させて下さい。
 然し殿下その時の為にも、くれぐれも危険な任務を進んで御引受けなさいませんよう。
 もし和平ともなれば本土決戦は疎か、殿下がこの広島にいらっしゃる意味とてありません。
 今死ねば全くの犬死であります」
 私は吉成の言葉に押し被せるように言った。
「その言葉心に留め置こう」

 と、そこ迄話した事を思い出し、次の刹那背中に走る激痛に声を出して呻いた。
 私の声に気付いた吉成が、眼前に顔を寄せて来た。
 此処は何処かと問えば、似島(にのしま)の海軍病院だと言う。
 と、漸く仮御殿を出てからの記憶が蘇った。

 あれは福屋百貨店の辺りだったか凄まじい閃光に周囲が覆れ、跨っていた馬と従う護衛憲兵諸共車道の真ん中に弾き飛ばされた。
 黒煙の中軍刀を杖に立ち上がると、屹立する巨大で真っ黒な茸雲が見えた。
 
 これが噂に聞く連合軍の新型爆弾か。

 そう胸中に呟いた後何としても司令部迄行かねば、と、唇を噛み締めたのだ。
 ふと腕時計を見ると、八時十五分丁度で針が止まっていた。
 その後どうにか本川橋の橋脚の下迄辿り着いた事は覚えているが、其処から此処迄どうやって辿り着いたのかは記憶に無い。

 次の刹那泣きじゃくる吉成の声が聴こえた。
「殿下、殿下、殿下ーっ」
 そう叫ぶ吉成の声を聴いて私は悟った。
 自身の命の灯火の消え逝く事を。
 然し喜ぶべきは、漸くこれで故郷の朝鮮に帰れると言う事だ。
 心残りなのは吉成を置いて一人で帰る事だが、然しこれで第二総軍教育参謀の雲峴宮李公鍝(うんけんきゅうりこうぐう)としてではなく、雲峴宮(ウニョングン)の主李鍝(イ・ウ)として故郷に帰れる。
 今思えば妻の賛株(チャンジュ)と、清(チョン)や淙(ヂョン)の子等を京城に帰らせておいて良かった。
 何となれば雲峴宮に桜の咲く頃を待たずとも、この八月の夏家族三人に会えるのだから。

 やがて現し世から離れた私が京城への一人旅を覚悟した時の事、吉成がこちらに対し挙手の敬礼を尽くしていた。
 私は問うた。
「どうした吉成、何故お前迄?」
 微笑む吉成。
「殿下と雲峴宮で花見をする約束であります」
 私も笑顔で応じた。
「花見には早いが、二人で行くか京城に」、と。
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