第4話 「サル化」する場所

文字数 1,739文字

 
 山極先生の『「サル化」する人間社会』というタイトルを勝手に借用して、このエッセイをあえて「「サル化」する場所」とさせていただいたのは、社会ではなく一人ひとりのあり方に視点を当てて考えていきたいと思うからです。
 そして、私が「サル化」というのは、人間だけが成長過程に応じて場所を開いていく仕組みのなかで発達してきたのに、その仕組みが機能不全を起こし始めているか、機能そのものを失くしつつあるために、本来人間が持つべきつながりと関係性による相互作用――他者と共感したり、他者との相違を理解し、寛容さを持つことなど――が退化してきていると感ずるからです。

 「場所」というのは、ご存知の方も多いと思いますが、日本を代表する哲学者・西田幾多郎先生の「場所の論理」にヒントを得た考えです。ただし、西田先生の難解な哲学を私ごときが理解できる訳もなく、自分なりに勉強したつもりですが、学者先生方のような理解に到達することはできません。私なりの考えとしてまとめていく以外にないと思っている次第です。
 私の言う場所は物理的な空間ではなく、心に蓄積されていくもので、心そのもの、もっと言えば、(からだ)も細胞と遺伝子によるつながりと関係性の相互作用によって形を成しているもので、これも一つの場所なので、いわば私という存在そのものが場所だと考えています。哲学ほどの考察はできませんが、一つの思想にはならないかと思っています。

 東山動植物園のシャバーニは、「イケメン」とツイッターに投稿した人とのつながりによって、人々の一つの場所に発展しました。大勢の見物客を呼び込んで、人々の心にそれぞれのシャバーニという場所を植えつけたのです。
 親子で見にきたお子さんのなかには、お父さん、お母さんが「なるほどイケメンね」と言ったのを聞いて、(ああいうのをイケメンというんだ)と心に刻んだ子がいるかも知れません。あるいは「お父さんだけが離れているなんてまるで我が家みたいね」と言ったお母さんの言葉に共感した子がいたかも知れません。そうした子たちにとっては、シャバーニの場所は親子という場所と密接に関連して位置づけられたことでしょう。
 友達同士で見にきたお子さんなら、イケメンかイケメンでないかで互いに意見を戦わす子がいたか知れません。異なる意見に苛立ったり、笑い合ったりしながら、互いの理解が深まり友情がさらに強くなったかも知れません。
 シャバーニという場所は、ある人の心のなかでは他の場所と密接につながりながら独自の広がりや変化を続けるでしょうし、また、ある人の心のなかでは何かのきっかけで変化していくのを待っている場所として蓄積されているのだろうと思います。
 「なんで「シャバーニ」でなく「シャバーニという場所」なの?」と疑問に思われる方もいるかも知れませんね。
 確かに、社会現象として捉えたときには、シャバーニという名のゴリラが存在していて、その存在が大勢の人に影響を与えているのでしょうね。
 しかし、私という存在からシャバーニを捉えると、私は何らかのきっかけがあってシャバーニを見にいき、そこで彼と対面することによって、何かを思います。その思いは、他の動物との比較や人間との比較でもたらされたものであったり、シャバーニを巡る評判との比較であったり、あるいは誰かと一緒に行けば、互いの思いを伝え合うことで、共感したり、触発し合って何となく言葉が湧いてきたりと、自らの心に蓄積された何かとのつながりと関係性の相互作用(具体的には場所のごとく蓄積された脳の神経細胞のつながりと関係性の働きなのでしょうが)を起こすことで生まれているのではないでしょうか。
 私はそのつながりと関係性の相互作用に根差す私という存在にこだわりがあります。存在の本質は場所だと思っているのです。
 かっこつけて言えば、「我、場所ゆえに、我あり」というところでしょうか。
 学者先生方からすれば、「いいよなあ、言い放しの素人は」と言いたくなるでしょうね。私もこの漠然とした考えをどう説得力のある話にしていけるのか、はたと困っています。それこそこの「私地公景」という場所をどう広げていけるのか、それが残りの人生をかけた課題になるのだろうと思っています。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み