第1話

文字数 1,296文字

 午後3時の学食の日差しはぬるい。
 サトが、空になったラーメンの器の前で、スマホから目を離さないまま怠そうに俺に尋ねた。
「なぁ、コタ。インターネットコオロギって知ってる?」
「は? 知らね」
 俺は、一瞬サトの声に反応したけれど、すぐにまた、スマホに目を戻した。
「あのさ、どっかの大学の何とかって教授の実験なんだけどさ、コオロギを、ふたつのガラスの箱に入れて飼育すんの。ひとつの箱は集団で、もうひとつの箱は一匹だけ」
「うん」
「この一匹だけ隔離されたコオロギは、集団コオロギの情報が視覚や聴覚からは得られるんだけど、同じ空間にいないから、他のコオロギに触ることは出来ないんだ。でな、ある日、隔離コオロギを集団コオロギの箱に入れるの」
「うん」
「普通さ、コオロギ同士の闘いは、にらみ合って、相手が逃げたら終わりなんだって。時間にすると、二分か三分くらい。でもさ、隔離コオロギは、有り得ないくらいに凶暴化するらしいよ。相手が逃げても執拗に追いかけて、なんと一時間近くも攻撃を続けて惨殺するんだと。で、教授はこのコオロギを『インターネットコオロギ』って命名したそうな。怖くね?」

 俺は、サトを見た。サトは、ラーメンの器の横にスマホを置き、頬杖をついて目の前の大きなガラス窓の外をぼんやりと眺めている。そこには、俺たちと空間を共有しないたくさんの学生が、うつむいたり誰かと笑いあったりしながら、キャンパスの中庭をゆらゆらと動きまわっている。俺は、情報だけは潤沢に与えられているのに、触れ合うことのできないコオロギのことを思った。コオロギと俺。それほど差はねえよなと思う。

「それ、何の実験?」
 俺は、サトに尋ねた。
「人間の心。情動を理解するための実験」
「人間の心……」

 一瞬、中庭を走っている俺が見えた。ナイフをかざし、逃げ惑う学生たちを執拗に追いかけ、誰彼構わず切り付けている俺。心を失い凶暴化して殺して殺して殺しまくる俺。
「サト、心って、俺たちまだ大丈夫なのかな? 集団飼育のコオロギみたいに、生きるための暗黙のルールは、ちゃんと心で了解してんのかな?」
「そりゃ、そうだろ」
 サトは、自分でこの話を振っておきながら、もうすでに興味を失っているようだ。スマホを拾い、また指先を動かしている。

「自信、ねぇな。同じ空間で、誰かと触れ合えている実感なんて、俺、何ひとつないし」
 独り言みたいに俺が呟くと、サトは今日初めて俺の顔を真っ直ぐに見た。

「コタ、何マジになってんの?」
 サトの眼には、何の感情も映し出されてはいない。ただの黒い空洞。笑っちゃうほど無機質な黒。
「サト、俺たちは、インターネットコオロギなのかもしれない……」
「は? 一緒にすんなよ」
 サトは、面倒臭そうにそう言うと、席を立ち宙に浮いたような足取りで学食から出て行ってしまった。

 インターネットコオロギは、きっと怖かったんだろうな。自分以外の存在がリアルに生きている感触が。だから、命の気配を、相手の心を、執拗に消そうとしたんだ。俺にはわかる。その恐怖が。

 俺は、床に置いた自分のバックを開き、鈍い光を放って横たわる登山ナイフに手を伸ばした。

(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み