エンドロール、流れるべき瞬間はやってきているのに

文字数 3,249文字

 週に五日、月曜日から金曜日まで。代わり映えしない窓の向こう側を朝と夕、日に二回ずつ、四十五分間じっと睨み続ける。苦行、というにはあまりにも刺激が足りず、けれど口が裂けても「安らげるひと時」などとは言えるはずもなかった。地方都市、限界集落一歩手前の“村”とそれなりに栄えた“街”とを繋ぐこの電車は、いつだってわたしを貨物のようにA地点からB地点へと運ぶ。ただ、それだけだ。


 アルマイトの弁当箱を開ける。白米のしろいろ。その上に載った大ぶりの杏梅のあかいろ。大根とちくわの煮物はちゃいろで、ほうれん草のお浸しは深いみどりいろ。チェック柄の水筒にはとうに温まった緑茶――これは、濁ったみどりいろ。いただきます、の一言も発さずに、漆塗りの箸でお浸しを口に放り込む。咀嚼する。柑橘の香りと濃い醤油の塩味が一気に広がる。
 少し離れた女子グループを盗み見る。かわいらしい、薄ピンク色の小さなお弁当箱の子はカースト最上位。このクラスでは彼女だけがピンク色のカーディガンを羽織っている。ピンクはこの部屋の中、彼女だけに許された崇高な色なのだ。
 その子を囲むようにしてもう三人。一人目はハーバーブルーのお弁当箱、カーディガンは明るめのブラウン。二人目はコンビニのサンドイッチとサラダにパックの牛乳、モスグリーンのカーディガン。三人目は母親が作ったのであろうおにぎりと、半透明の円筒型の容器に大量の葉物野菜、カーディガンはエンジ色だった。
 彼女らはみな鎖骨より少し下程度の黒髪を代わる代わる梳きながら何かをつらつらと喋り、その合間にゆっくりと食事を摂っている。ときどきピンクのカーディガンがくすくす笑うと、ほかの三人は一斉に手を叩き、目尻の涙を必死に拭いながら彼女に同調した。それは傍から見ている限り滑稽なものでしかなかったが、その輪に入ることもできないわたしは、気づけばいつも羨望の眼差しを向けている。
 べつに、彼女らに疎外されているわけではない。虐げられているわけでもない。ときどきはわたしに話しかけてくる生徒は男女関係なく存在するし、そういう子たちとくだらない話でけらけらと声を上げて笑うことだってある。勉強だって、簡単ではないけれどついていけないほどでもなく、何かわからない問題があれば周りの子に訊くこともできたし、またその逆だってあった。
 わたしはちゃんとこの教室で「ふつうの生徒」でいることができている。
 けれど、わたしがピンク色のカーディガンを着ることは許されない。その周辺にまとわりつくことも叶わない。アルマイトの弁当箱を睨む。四隅がいくらかへこんでいる。わたしはうつむいて、黙々とその中身を食べ続けた。真っ黒のカーディガンのポケットにはリップクリームが入っている。色つきではない。

 部活動には参加していなかった。他の生徒たちよりも極端に自宅が遠いからだ。
 終業のベルが鳴ればわたしはいつもそそくさと帰り支度を始める。席を立ち、ドアの方へ歩いていく途中で何人かの女生徒に、「ばいばい」とか「またあしたねー」とか、いつも通りの言葉を投げかけてもらえる。わたしもそれに「うん。ありがとー」とありふれた返事をする。
 下駄箱に上履きをしまい、クタクタだがきちんと手入れを施してある本革のローファーに足を通す。校舎横の道を歩き、門を目指した。もうすぐ学校を脱出する、その瞬間わたしは一度だけ振り向く。
 校庭では、ピンク色のカーディガンの女子が運動着に着替え、一つに結んだ黒髪を揺らしながらただ真直ぐ前を見、誰よりも早く走っていた。陸上部の彼女は、たしかヘアゴムもピンク色だったな。きょうもそうなんだろうか。そんなことを思いながら、わたしは早足で目的の駅へと向かう。徒歩、三十分。


 電車に揺られながら、手持ち無沙汰を誤魔化すため通信料を気にしつつスマートフォンをいじる。かわいい女の子が更にかわいくなるための情報がたくさん載ったキュレーションサイトも、きらきらと華美な装飾にまみれたSNSも、流行りの音楽が高速で流れていく動画アプリも、わたしにはあまりに遠い世界のように思えてならなかった。
 わたしはこれからこの電車で、ひとり自宅に帰る。周りは皺くちゃの年寄りばかりで同年代の子など一人もおらず、コンビニも、レンタルビデオ店も、おしゃれなカフェもセレクトショップもない。そもそも四方を山に囲まれた田畑ばかりのあの村にはまともなスーパーだってなくて、賞味期限切れの袋菓子が平然と定価で並ぶ、雑多な商店が一つあるだけだった。
 母や父はいつもあの村のことを、
「天国のようだ」
 と言う。
 母も父も、幼少から大人になるまでをずっと大都会で過ごしたらしかった。二人はそこで心身ともに疲弊し、大量の人間や鬱陶しいほどの情報に飽き飽きし、最終的にはあの村に辿り着く。そこでわたしは生まれ、日々を過ごし、“田舎者”として健康に育った。
 都会育ちの両親はいつだってわたしを、
「生まれた瞬間から、何もかもが“本物”ばかりの環境で羨ましい」
 と洗脳する。
 わたしは古くさいあけびのかごより、ファストファッション店の安っぽく手触りの悪いフェイクファーのバッグを持ちたかった。近所の老人が持ってくる丁寧にすりつぶした胡桃だれをたっぷりとかけた搗きたての餅よりも、不必要なまでに膨らませたパンケーキに甘ったるい生クリームと季節外れのフルーツを大量に載せてそれっぽく粉糖をまぶしただけの、おいしいのかどうかもよくわからない食べ物を、SNS映えだけを狙った店内で「かわいい、かわいい」と馬鹿みたいに繰り返しながら頬張りたかった。デザインだけが優れたヒールのあるパンプスを履きたかった。週末には薄化粧をして友達と洋服を買いに行たかった。背伸びしすぎた店で限定品だという口紅をタッチアップしてもらいたかった。
 わたしはそれらを何ひとつ経験したことがない。
 父や母がいう“本物”は、わたしにとって何の価値もないのにも関わらず。

 一度、両親に「将来わたしは東京に住みたい」と伝えたことがある。その瞬間二人は血相を変えわたしの考えを否定し、いかにこの土地が素晴らしいか、東京という街がどれほど腐りきっているのか、そうして、
「東京には何ひとつも本物なんてなかった」
 と、生まれてからこの時までずっと本物しか与えてもらえなかった、端から偽物を選ぶ権利すら与えられなかったわたしへ向かって吐き捨てた。


 いつだってわたしはこのまま、この電車に乗ってどこまでも行ってしまいたかった。
 自宅の最寄り駅に着いても席を立たず、窓の向こうだけを睨んでいれば、いつの間にかこの電車はわたしを東京へ、ここじゃないどこかへ強引に連れて行ってくれるのではないだろうか。わたしはその街で本物を偽物だと思ったり、偽物を本物だと思ったりして、酷い目に遭ったり突き抜けた優しさに出会ったりしながら、少しずつわたしじゃない何かに変質していけるのではないか?
 電車がゆっくりとブレーキをかけ、停止する。終点だった。
 わたしは膝の上で暗くなったままのスマートフォンを乱暴に鞄へ放り込み席を立つ。ここから自宅前は徒歩で二十分ほど。街灯なんてほとんどないけれど、見知った顔の人間しか住んでいないこの場所で危険な目に遭うことなんてまずなかった。
 駅を出る。ゆるやかな坂を上っている最中、わたしは誰ともすれ違わない。
 家に帰れば農作業を済ませた父と母がいて、わたしに向かって、おかえり、と笑顔で言うだろう。そして彼らは、街から帰ってきたわたしの話なんか聞こうともせず、きょうこの閉鎖された村でおきた“本物の話”をいつものように延々とわたしに説くのだろう。
 灯りのない、果てのない暗闇に、私の黒いカーディガンが紛れている。二人が言う、本物なんて何ひとつもない“東京”という街にも暗闇はあるのだろうか。あるいはその暗闇すらも、その街では偽物でしかないのだろうか。
 わたしは偽物の暗闇を知りたくてたまらなかった。
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