一日目 

文字数 8,009文字

小樽への入港が近づき、船内が慌ただしくなった。
僕は、喧騒に抗うことをやめ、ずっと閉じていただけにしていた瞼を開いて、五年前に奈良の叔父から中学の入学祝いに貰った腕時計を覗きこんだ。
予定通りの時間を告げるデジタル数字に初めて訪れる北の大地への憧憬よりも先に、疲労感を覚えた。
午後九時。
舞鶴港を発してから、二十時間になる。
出港の際に、性別だけで仕分けて入れられた三等寝台と呼ばれる二十畳ほどの雑魚寝部屋は、芋虫のように転がる中年男たちの巣窟だった。
だから、共通言語の乏しい相手との会話はそうそうと諦め、同じように寝床を作って転がり、惰眠を貪っていたのだが、もう寝てはいられなかった。
波の揺れが無くなってからも、エンジンの鼓動を背中で感じながら、一時間近く待たされた。船長が、先程の船内アナウンスで定刻着だ、と自画自賛していた通り、フェリーはご丁寧にきっちり時間一杯、日本海に浮かび続けたのだ。
叔父…とは言っても母の一番下の弟で、歳は十幾つしか違わないので、従兄弟の兄ちゃんのようなものだったが…が若い頃は船中で二泊して三十時間、この日の僕と同じように夜中に舞鶴を発するまでは同じだが、二日目はずっと船内で過ごし、出港翌々日の朝一番に這々の体で辿り着いたのだそうな。それから比べれば前日の夜中に出て、中年男たちの寝息を子守唄に一泊。
朝起きた時は、もう能登半島のあたりだったので、日中を有閑するだけで済んだのは、隔世の感とも言うべき進歩を遂げた、と評価すべきか。
 否、やはり長い。映写室での数年落ちの面白くもない映画に、ロビーでの海上まで届かぬ電波が齎す無鮮明な国営衛星放送鑑賞の梯子と、無為とも言うべき一日だった。
夕方からは大して眠くもないのに、雑魚寝部屋で横になって時間を潰して、やっと手にした午後九時だった。
僕はむくりと体を起こして、敷布団と掛け布団として、二枚使いしていたフェルトに毛が生えたような代物の備品の防炎毛布を適当に畳んで、枕元の備え付けの棚に片付けた。
替わりに、空き棚に突っ込んでいた結局入らなかった入浴セットの入る巾着を指で引っ掛けて、誰へのアピールなのか空欠伸一つの後、よいしょ、と立ち上がった。
グラリと体が揺れた。波の所為か。否、船酔いの所為だ。
そりゃあ、二十時間も乗っていれば罹患もする。ただ頭痛や吐き気はなかった。三半規管がどうのこうのって次元で済んだようだ。
三等寝台の上がり框に向かい、叔父の教え通りに船内履きに用意して揃えておいた百均スリッパを取り出したレジ袋でクルリと巻いて巾着に突っ込んで仕舞い、エンジニアブーツを履きにかかった。
まだ新しく革が硬いので思いのほか履くのに手こずり、結局両足履くのに四五分は掛かってしまった。
叔父の教えが無ければ、トイレに行く度、テレビを見に行く度に、この作業をしなくてはならなかったので、経験者の言には傾聴しておくべきだ、と思うほかない。
 接岸まではまだ時間はあったが、僕は巾着一つを肩に引っ掛け、入港の瞬間を大きな窓から見ようと、ロビーに出た。
広い吹き抜けのロビーには、気の早い単車乗り達が、もう集結し始めていた。皆、自分よりは、一回りは年上だろう。ここでも最年少だった。
叔父の若い頃とは違い、十代の単車乗りは希少だ。
学校でも啓蒙活動を行ったが、誰も乗っては来なかった。もう滅ぶべき人種なのかもしれない。自分が最後の一人になるのだ。そんな感慨さえ持たせる風景だった。
早くから待つ単車乗りたちの中には、ヘルメット片手の者やバイクの後ろに括りつける数十キロはあろうかというバック本体を抱えている者達が散見できた。
もぐりたちだ。
ヘルメットもツーリングバックも船室には必要ない。
だが彼らは階下の駐車デッキは航行時には封鎖される、と聞き、不安で全てを船室に持って上がってしまったのだ。
叔父がいなければ、自分も確実にああなっていた。
船内で必要なのは財布、風呂に入るなら入浴道具に洗面道具。あとはスリッパがあれば事足る。それ以外は駐車デッキに置いたままで良かった。
僕は、というと本来、下ろして駐車デッキの棚に安置しておかなければならないボストンバックですら、また括りなおすのは面倒だ、と単車の後ろに乗せたままにしていたくらいだ。
 だから旅慣れない彼らから、革ジャンにジーンズという一見して単車乗りな格好をしているにも関わらず、身軽な様の僕は、彼らに羨望の眼差しを浴びせられてしまった。
行動規範ってやつ。新兵でありながらベテラン兵の扱いを受けたようなものだ。
きっと彼らも、この次からは僕と同じようにするだろう。
 その後も数は増え、接岸の間際には、ロビーは九月だというのに単車乗り達で溢れた。
ザッと見て四十人ほどは居ようか。
船内の何処にいたのか、と思うほど湧いて出た。
単車乗りは車や徒歩客に比べて荷物が多いだけに場所を食う。だから往来の邪魔になる前に、と係員から他の客に先んじて駐車デッキへ案内され、バリケットを解放された。
 一人ずつ。ゆっくり。走るな。と注意を背中に受け、他の単車乗り達と共に駐車デッキへと続く、細い九十九折のタラップを降りた。
 急ぎたくとも、前の男が大きなバッグを、踊り場で方向転換するたびに手摺に引っ掛けるので、行き様がない。
単車乗りといっても千差万別で、格好でどんな車種に乗っているのか大体分かった。
大きなアメリカンバイクに乗っている者。
スピードや性能が全てのフルカウル車乗り。
わざわざ転がり易い砂利道を好んで走るオフロード車乗り等等。
着ている上着とブーツで見当が付く。前の男は、革ジャンの背中に型押しされたロゴから察するに、アメリカ製バイク乗りだ。
髪にも白い物が出始めているので、定年後の余暇を若い時に出来なかった事で埋めようとしているのだろう。こういう人は過度にのんびり走るので山道で引っかかると、ヘアピンカーブの度に尻を突っつく様な塩梅になる。
今もそんな感じだ。
単車で走っている時と同様、急ぐ旅でもないので気長に合わせてやる事にした。
前の男の三度目のヘアピン事故を見守り、駐車デッキへと降り立った。
 駐車デッキは大型フェリーの腹をぶち抜いた巨大な伽藍堂だ。
高い天井。幾重にも錆の上からペンキで塗り固められた鉄の肋骨が、列を作って天を突く。
低く響く機関音も船室ほど気にならず、なんだか巨鯨の鼓動のようだ。後は、しんとしていて、後から続く男たちの踵が鉄階段を叩く音が、庫内に木霊した。
 前をゆく者たちの背中に付いて行き、何台も規則正しく並ぶ大型トラックの脇をすり抜け、舳先に進んでいるのか、船尾に進んでいるのか分からなかったが、兎に角、船の先端の方へと進んだ。
 きっと船体のバランスを考えての配置なのだろう。庫内の中央には縦に一列。一見では見渡せないが舳先から尻まで竜骨のごとくトラックが並び、その左右に一般乗用車が幾重にも並ぶ。単車はそのもう一つ奥の隙間に押し込められ、舳先か尻かどっちかのドンつき(京言葉。突き当たり、一番奥の意)の壁際にズラリと並べて固められていた。
だから階段を下りてからも、愛車まではまだ遠い。
 そういえばトラック運転手たちとは船内では一人も会わなかった。
きっと普段の生活の一部として長距離フェリーに乗っている彼らからすれば、観光や単車旅の客は邪魔な存在でしかないだろう。
だから船室に引っ込んでいるのだろうかとも思ったが、乗船直後に船内探検を敢行した際、どの部屋にもその影は見られなかった。どこか専用の秘密の船室があるのであろうか。
もっと推理すれば乗っていないのかもしれない。本州の運転手は舞鶴でフェリーに載せるまでが仕事で、小樽には北海道の運転手が待ち構えていれば、恙無く運搬作業はできるわけで、わざわざ二十時間も惰眠を貪る必要もないわけだし。運送会社もこの間の一日分の日給を支払わずに済む。
 僕と同じ時給730円と考えても14600円の節約となる。同じ職場のバカ大学生の子安君の時給ですら760円なのだから当然、高校生の時給と大型免許持ちの運転手の時給が同じはずはなく、定刻通りフェリーが着く事を考えれば、港近くに事務所でも構えておいて、歩いてトラックを取りに来て、そのまま街まで運転してゆく方が経済的だ。
 これが思いつくとは。これで子安君に任せず、いつでもバイトのシフト組みはできるな、と僕はほくそ笑んだ。
 自身の低く長いハーレーの後部座席に、醍醐寺の祭りの餅のように重々しげにツーリングバッグを供えた旅の始まりを前に疲労困憊の白髪男を余所に、僕は自分の愛車にたどり着いた。
真っ赤なカワサキKH400。
70年代産の空冷2ストローク三気筒だ。マッハⅢなるカミナリ族時代の遺産から連なるカワサキトリプルと称する車群に属する逸品で、タンクとテールカウルには黄色、白、紺色の三色しか使われていないが、名義上何故かそう呼ぶレインボーラインが左右に施され、KAWASAKIのロゴも現行車と違い大文字でしたためてあった。
タンク下のエンジンからはマフラーが右に二本。左に一本の計三本出ている。だから三気筒(トリプル)。この左右アンバランスな様も気に入っていた。
 暴走族漫画でも主役機にはなれないが、主人公の仲間の誰かが、乗っているような兎に角、名車といっていい一台だった。だから目立ったし、よく覗かれた。
 勿論、自分のバイト代で買えるような代物ではなく、暴走族に属しているわけでもないので、おっかない先輩に無理に押し付けられたわけでもない。
奈良の叔父がもう乗らないから、と譲ってくれたものだ。
だから、カラーリングから小物まで全て叔父の趣味と言えた。
自分の意見は基本採用されていない。叔父から貰ったままの姿で乗っていた。
だから詳しい事は丸で分からず、キャブレターにパワーフィルターが装着されている、と言われても何処の事を言っているのかすら、分からなかったくらいだ。
空気をたくさん吸い込んでエンジン性能を上げる為の物だと聞かされたのだが、デメリットについては聞かされなかった。雨の日に峠道で急にエンジンが止まった時、身を持って教えられた。この改造は雨にはすこぶる弱いのだ、と。
 だから長距離ツーリングには不向きだ、とこのバイクを知る皆に言われたのだが、今もうフェリーは、小樽港に接岸した。手遅れだ。
ボストンバッグは単車の後ろに括りつけて、網目ネットも張ったままにしておいたので、他の単車乗り達と違いカバンを搭載しなおす手間もいらなかったから、手持ち無沙汰もあったし、船員たちの手間を減らすべく、愛車を船に縛り付けていたロープを外しにかかった。
シートの上に寝台で使われていた物のお古であろう、50cm角くらいの防炎毛布の切れ端が敷かれていて、その上からデッキの床から伸びてきた太いロープがシートをガシリと食い込むように跨いでいた。
係員の仕事を見ているとストッパーを外すと容易にロープは解けるようだ。真似して外し、ハンドルを固定していたロープも同様に外して、毛布を丁寧に畳み、左手に掛けてギャルソンの様に係員を待った。
すると目の前の壁が、須磨の伯母の家の勝手口よりも静かに引き開かれた。
現れた矩形の闇の中、小樽の港の灯りと北の大地の冷気が、伯母のくれる小遣いの様に侵入した。財布をわずかに満たしたという意味だ。
毛布を手渡した僕に係員は、外は小雨だから注意してスロープを降りてくれ、と注意喚起を促した。周りを見ていると、そう言われたのは僕だけだった。
一人だけ上陸前に、すっ転ぶ下手くそ認定されたようで胸くそが悪い。
ただ何週間に一回はいるのだそうだ。すっ転ぶ輩が。
そして船体と港を繋ぐスロープの途中で転ばれると、本人の怪我はもとより、その後の搬出搬入作業が滞ってしまう。
この船は今の積荷を下ろし、返す刀で北海道の積荷を抱えなおし、この夜のうちに舞鶴へと引き返すのだ。
定刻厳守。
船員の仕事を増やすな、ということか。
今も余計な事をして船員の仕事を増やしたのかもしれないな、などと思いつつ、船室に持ち込んだ巾着袋をツーリングネットの内側に潜り込ませ、愛車に跨った。
キーを差し込み、ペダルを蹴出して、キックスタートを掛ける。
途端バランスを崩した。力一杯蹴り落としたのにキックペダルが重く、てんで下がらず、空足の反対を踏んだからだ。
そうだ、思い出した。船員の指示でギアをローに入れたままだ。
バイクが動かぬようギアを噛み合わせる為に、乗船した時にニュートラルからローへと入れ替えたのであった。
ここで転んでいたら、いい恥だった。
そうならなかったのは旅のはじめの僥倖であったのであろうか。
いつもの様にニュートラルに入れ直し、チョークレバーを引いてキック。
三発目で辛い三気筒の爆音が庫内に響いた。
皆がこちらを見やる。
ちょっと鳴らしすぎた。エンジン始動に少しアクセルを足しただけのつもりであったが、回しすぎた。
マフラーは改造をしてはいなかったが、70年代の規制のままの物だ。だから文字通りバリバリと唸ってしまった。
「KH(ケッチ)ですか? いい音くれますね」
 隣でツーリングバックを設置し終わった中年男に声をかけられてしまった。
この単車の場合、ここからが長い。値段の話に始まり、乗り味について。そして昔乗りたかった…から思い出話へと展開する。
 此方としても、無愛想なわけでもないので話に乗ってやりたくもあったが、数ヶ月、原付を乗ったあとの実質一代目の愛車であったが為、他車との乗り味の違いなど評論もできなかったし、叔父から譲ってもらったものなので値段もない。
その事を告げると、恵まれた境遇への批判を聞かされるだけで、邪魔くさいだけだったし、中年単車乗りの思い出話など結局、最後は事故自慢になるのがオチだと分かっていたので、あまり話しかけられたくはなかったのだ。
 この瞬間も、北の大地へと走り出す寸前というのに、大腿骨に突き刺さるボルトの話を聞かされてしまった。
 TPO。これが分かっていないのも単車乗りだ。
 係員から下船の順番を告げられ、強制的に終了と話を打ち切り、会釈もそこそこにギアをローに入れ、矩形の闇の中に続く搭乗口のスロープへ向かった。
出口に近づくにつれ、冷気が頬を舐め回しにかかった。
これが北の大地の空気。本州ほど重くはないが、冷たい。
 愛車を足で掻いて進ませ、列の後ろに並んで待つ。
 前の者が下りきり、自分の番、と船体の横っ腹から外へと躍り出した。
眼下に小樽の港を見下ろせた。多分、ビルの三階くらいの高さだ。
少しアクセルを足す。スピードは上がったが、ギアは上げなかった。転ぶな、と言われていたからで、無駄なクラッチワークや加速を戒めたからだ。
船体から岸壁へと続く鉄製のスロープを慎重に下った。
それなりの坂で、霧のような小雨が頬を打った。
雨に濡れた鉄は滑る。
確かにすっ転ぶ奴もいそうだ。
 だからローギアのまま、バランスを崩した時、すぐに足を付けるように浅く座りなおし、ゆっくり幾多のトラックに踏みつけられ、緩やかに凹みのついたスロープを味わい、労わるように下りきった。
 そして車体は平行に。愛車は感慨もなく上陸を告げた。
もう足元不如意ではない。
クラッチを切り、ギアを二速にはね上げた。
アクセルを開け、スピードを増す。
いざ北の大地へ。
 否、待て。霧雨は速度を上げると、当然ながらジェットヘル故に何も覆うものもない顔面に、礫とは言わず襲いかかった。
多少痛かったし視界も遮られたが、これは織り込み済みで甘受するしかない。
 ツーリングに行くのにフルフェイスは無い。と叔父は言った。風や匂いを感じに行くのに、肝心の顔を覆ってどうする、と言うのだ。
「雨は?」と訊いた僕に、叔父は「濡れるな」と言った。
答えにはなっていなかった。
ただ愛車のエンジンに付いたパワーフィルターの事を鑑みるに、濡れるとマズイ。
だから他のライダー達のように取り敢えず北海道一走目だ。と夜のうちに小樽、札幌の街中を抜けて、然るべきところで、朝日が上がるまで野営を張る、というツーリングライダーの見本の様な行いは、フェリーから解放された直後なので当然、というよりいつも以上に風になりたいという欲求はあったが、しないでおこうと決めた。
 フェリーのロビーで衛星放送を見ながら聞いた彼らの意見としては、朝起きたら北海道そのものなんだぜ、という事であったが、小樽も札幌も北海道で、そのものだ。と自分を落とし込んだ。
 波止場を抜けると、夜の地方都市である。
午後九時を過ぎれば店など閉まっているので、暗く街灯も少ない、どこにでもある街だった。
闇は全てを隠す。いいものも悪いものも。
今日は風情ある港街を隠していた。取り敢えず宿を探し駅の方へ。
これも叔父の教え。
地方都市は町の名を冠した駅前に行けば、必ず単身用宿舎がある。
 だから小樽駅に向かった。
海岸沿いの大通りから標識に従い何度か折れると、駅へ向かう坂の下に出た。
下からは陰になり駅は見えないが、標識によると、この坂のドンつき、つまり頂上が駅だ。この坂の通りが街のメインストリートと捉え、宿を物色するため減速した。
後ろを走る車もいないので、トロトロと中腹まで来たところで反対車線に宿の看板を見つけた。一晩3000円。安い。部屋のクオリティーはマズイだろうが、値段は一等だ。すぐさまUターンして、ホテルの前庭にKHの前輪を突っ込ませた。
 濡れた革ジャンのまま、伯母の家の玄関くらいの大きさの小ぢんまりとしたロビーに入ると、先客の単車乗りが二人いた。
 当たりだ。彼らの同じフェリーでやってきた客だ。
彼らは出発前にしたリサーチの結果、ハナからここに投宿するつもりでいて、フェリーから迷いもせず直接ここに来たのだ。だから僕より先に着いた。
 現に彼らは予約した者だ、とフロントマンに告げていた。
だから、この宿は当たりだ。ロビーもオフブラウンを基調としていて清潔感がある。あとは部屋が空いているかどうかだ。
 自分の番になり、予約はしていないが、部屋はありますか? とフロントマンに尋ねると、彼は旧館ならご用意できます、と僕に請け合った。
 旧館3200円。200円高い。旧館なのに、だ。予約を入れなかった者が悪いのだが、高校生の身空では200円すらかなりの出費だ。ジュースとパンが買える、などと思ったら出せない金額だ。
だが小樽の宿。五千円くらいは覚悟していたし、これ以上安い宿も今からでは探せないと思ったので、旧館という言葉に些か不安は感じたが、お願いしますと、僕は宿帳に記帳した。
 旧館と言うのは筋を隔てた隣の建物で、夜の帳の中だと粗は見えなかった。一階部分が駐輪場になって折、フロントマンの指示に従って、そこに愛車を停めた。屋根の下は有り難い。他にも十台ほど単車が停まっている事から、単車乗り御用達の宿であることが窺えた。
 単車からバッグを降ろし、上がった部屋は、向かいに比べると築年数は二十年ばかし古く、ベッド、テレビ、洗面付きバス。以上。そんな小部屋だった。
開け放った窓の向こうはビルの壁。
だが十分だ。寝るだけだし、誰かを呼ぶわけでもない。タオルもシーツも新しいものだったので、言うことはなかった。
ただ普段より狭い部屋には、北海道の雄大さが無かっただけだ。
下着一枚になり寝転がると、二十時間感じ続けた揺れの無い寝床の居心地の良さに、僕はすぐに睡魔に誘われた。

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