春は答えを知らない

文字数 2,000文字

 寒い。眠りにつく前、私を包んでいた春の陽気はどこに消えたのだろう。眠気に抗って上げた瞼に光が射して目が痛い。掌で視界を遮る。ここはどこ。
「ハル、目ぇ覚めた? もうすぐ宿泊所に着くよ」
 タマキの声が私の寝ぼけた頭をはたいた。バスケットシューズと床が立てる摩擦音にも声援にも負けない、芯の通った声。
 九割がた枯れ木でできた景色が窓の外を流れていく。四月の浮ついた空気がまだ辿り着いていない山の中は確かに「思考・対話の春合宿」に向いている。



 高校デビューという言葉は知っているけれど、中学校の卒業式で着ていたのと同じセーラー服、ほぼ同じ面子で高校の入学式を迎えた私にはそれがどういうものか分からない。同じ校舎、見覚えのある担任の先生。中高一貫女子校の新高一生の四月は慣れによって緩み切っている。
 けれど「二十年後の先頭に立つ女性を」と掲げる学校にとって、高一は受験とその後を見据えて動き始めるべき時、らしい。だから一学期の早々に生徒をバスに乗せ、山中で二泊三日の合宿をする。このくだらない精神涵養ごっこに親はいくら払わされたのだろう、と奨学金をもらいながら学費を払う生徒として考える。
 合宿に向けて配布された「思考と対話ノート」には「将来」「なりたい姿」「目標」という語が散りばめられている。馬鹿の一つ覚え、と思いながら指示された箇所を適当に埋めた。「外交官」「家庭との両立」「東大」。学校の望みは、生徒が自分の現在地と目標を確認し、そこから最良のルートと通過すべきチェックポイントを設定すること。だからこの合宿に「優秀な先輩」を呼びつけて話をさせる。今、私の目の前で話をしている女性(ひと)はアメリカの大学病院で外科医をやっていて、現地で知り合った人と結婚し、二人で協力して子育てもしているといった。嘘みたいな本当の話。無性にイライラした。
 話が終わり、部屋を出ていこうとする彼女を私は呼び止めた。自分の意志とは別の場所から湧いた衝動のせいだった。声をかけてしまった以上、何かを言わなければとお礼と話の感想を口にする。違う。嫌悪感が喉元からせり上がる。
「人生の成功に大事なことは何だと思いますか」
 少しの間を置いて、彼女はこう問い返してきた。
「あなたにとって人生の成功って何?」
「社会的地位があって、お金が稼げて、自分を理解してくれる人と結婚すること、でしょう」
 あなたみたいに。そうあれという親や学校の期待に心底うんざりしている。でも反論の余地なんてない。私はぐ、と床を踏みしめた。
 「それじゃだめ」と静かに彼女は告げた。
「持ってる疑問全部に

答えて。そうしないと答えは得られないの」
 彼女の微笑はあまりにフラットだったから、私は憤ることも恥じることもできなかった。



 合宿所の入り口で手を振る教員の下へ、タマキが駆け寄っていく。およそ十六年前、ここに滞在していた私に「在学中は接点のなかったバスケ部エースのタマキカズコと大学で友人になり、彼女に誘われここに戻ってくる」と教えたらどんな表情をするだろう。
 私とタマキは案内された談話室で準備をしながら生徒たちを待つ。そういえば、とタマキが言う。
「ハルは『思考と対話ノート』の『十六年後の私』になんて書いたの」
 さあ、と答えるとそれはないでしょ、と小突かれた。
「なんにせよこのあとの話はしっかりしなよ、


 准教授だよと訂正をしようとしたタイミングで、扉の向こうからセーラー服の群れがやって来た。同年生まれの中で、おそらく成績上位一パーセント以内の女の子たち。大人が本気で相手にしないから自分たちは無敵だと思い込めている子供。
 私もこういう顔をしていたのか。
 十六の春から三十二の春までに私が得たもの、それは無駄と遠回りと成功と失敗と行き詰まりの積み重ねで、どれが功でどれが枷なのか分からない。研究者という高尚そうな肩書の反面が何でできているのか、二十歳を越えるまで私は知らなかった。でも、用意した話のトピックにそれらは含まれていない。学校が求めているのは彼女たちにとって

のある話だから。それは少なくとも間違いじゃない、と三十二の私は素直に認められる。
 私を囲んで座る少女たちの中の一人と目が合った。けれどすぐに逸らされてしまった。私がしようとしている話は間違いじゃない。でもそれだけだ。私はノートPCに映していたスライド画面を閉じた。
「大学で哲学を教えている春田といいます。私のこれまでの話をする前にまず、十六年後に私がなりたい姿、その時世界がどうなっていると思うか、お話します」
 話し終わって「今度は皆さんの考えを教えてください」と続けた後の反応はさまざまだった。思案する子、狼狽える子、顔をしかめる子。
 ――そうしないと答えは得られないの。
 そう、その意見に賛成。でも私はあなたとは別の方法で、答えのない春を後輩に渡す。それが今の私の答えだ。
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