第2話

文字数 4,637文字

 ウェルギリウスさんの後についてひたすら歩いている内に、気づいたらもう夕方になってた。
 薄っすら漂う霧の向こうにぼんやり夕焼けが見えた時、俺はふとこう思ったんや。今頃、みんな仕事終わって家に帰って、嫁はんの料理食いながら酒でも飲んどるんやろな。犬や猫は何も考えんとのんびりしとんやろ。俺はこれから地獄に行くんや。行くのは別にええんやけど、はたして無事に帰れるんやろか、と。
 え?猛獣達はどこに行ったのかって?ああ、それが俺にもよく分からんねん。多分、ウェルギリウスさんが連中の知らん道を選んでくれたんかな?とにかく、気がついたらおらんなってた。ほんま不思議な話やけどな。
 
 俺は覚悟というか、この旅の事は絶対に忘れんとこうと強い意志を固めてた。せっかくウェルギリウスさんと旅ができるんやから、どんな小さな事も聞き漏らさず見逃さず記憶に刻み込もうと思ったんや。それが俺の詩人としての、いや人生そのもののキャリアに大きな影響を与えるであろう事は分かってたからな。
 
 でも、今こうして話すとなると、色々と記憶が抜け落ちてる所が有るような気がして不安やから、ひとつお祈りをしとくわ。おお女神よ、私の脳よ、どうかあの旅の記憶を蘇らせたまえ〜。さ、続けよか。

 突然、ウェルギリウスさんが立ち止まったから、俺も立ち止まった。
 その時や、俺はなぜか妙に冷静になってな。ノリで地獄でも何でも見に行くって言うたけど、ほんまに大丈夫なんやろかと一気に不安になったんよ。先ほど強い意思を固めたばっかりやのにな、気が変わるん早いやろ。でも無理もないで。よう考えてみて、地獄ってさ、比喩じゃなくてマジモンの地獄やで?見学とか観光みたいな気分で行くとこと絶対ちゃうやん。見てみたいのは山々やけど、ほんまにええんかどうか改めてウェルギリウスさん聞こうと思ったんや。

『あの、ちょっといいですか?』
『ん?どうしたん?』
『ウェルギリウスさんは僕を地獄に案内して下さる言いましたけど、僕、ほんまに行って大丈夫なんでしょうか。というのも、ウェルギリウスさんの書いた本にありましたけど、アエネアスさんの話って有るやないですか。まさに僕みたいに生きた状態で地獄を見に行って、様々な経験を経て叡智を身に付けたというやつです。アエネアスさんは聖地ローマ帝国を築き上げたそれはそれは立派な人やったから、神々に認められて当然やし、神々の管轄下にある以上はそら地獄側も歓迎してくれると思うんですね。あと、聖パウロも地獄を見に行きましたね、あの人も信仰を極める為に行ったと聞いてます。聖パウロはあらゆる行動を信仰に基づいて行う、まさに神の使いですから、もちろん資格があるでしょう。けど、僕はこの人達とは身分も目的もまるで違うと思うんですよね。ハッキリ言って僕みたいな堕落したもんが生きたまま行くと、地獄の人達、怒るんちゃいますかね?もしそうやとしたら、この旅は自殺に等しい行為なんとちゃうかなとか思っちゃって。すいません、急に。でも、僕の気持ち分かってくれますよね?』

 正直、話しながらどんどん不安が増して、言い終わる頃には地獄に行くのはもうやめよかなと思ってた。ヘタレやと思うかもしれへんけど、自分に置き換えて考えてみ?獣に追われて必死になってる時と、そうじゃない時ではまるで価値観が変わるやろ。怖いやん、冷静になって考えたら地獄とか。

 ウェルギリウスさんは黙って聞いてくれて、少し考えてからこう答えた。
『あのな、ちょっと聞き苦しい言葉かもしれへんけど一言で言うわ。お前、何でもかんでもビビり過ぎ。お前というか人間ほぼ全員に言える事やけどな。そんなんやから貴重なチャンスをみすみす逃すんやで。わしおるのに何をビビる事があるん?ほんま、木の影がオバケに見えてビビる子どもと同じや。まぁまぁ、気持ちは分かる。ほな、なんでわしがお前を誘ったか教えとこか。ちゃんとした理由があるんや。これを聞いたらお前も勇気が出ると思うで』

 ウェルギリウスさんは何も思いつきで俺を誘ったわけやなかったんやと、この時に初めて知った。いや、それは先に教えといてよと思ったけど、ウェルギリウスさんの事やからな。あの人の事はほんまに尊敬してるけど、話の展開とか順序が些かトリッキーなんはちょっと困りものやねん。変なとこ出し惜しみするというかね。
 
 ウェルギリウスさんはこう続けた。
『順を追って話そか。少し前の話や。わしも実はあんまり素行の良い人間と違うかってな。悪人でもないけど善人でもないみたいなハンパなやつやってん。そんで、神に天国はあり得んけど地獄に落とすのもなーって判断されてて、とりあえずどっちでもない所に行く事になっとったんや。どっちでもない所って、どこやねんってハナシやけどな。そんな感じで、わしと同じように曖昧な立場の連中と曖昧な場所に何をするでもなく曖昧に留まってたんや。
 そしたらな、その場に不釣り合いな、身なりの良いえらい綺麗なお姉ちゃんが現れてわしに声をかけてきたんや。わしもうテンション上がってもうてな。掃き溜めに鶴とはこの事や!いうて、すかさず髪とヒゲを撫で付けながら、何かご用ですかな?と聞いた。その人は夜空の星々のような輝きを両目にたたえながら、天使のような声でこう言うた、

「やっぱり!マントヴァのウェルギリウスさんですよね?良かった、会えてウチめっちゃ嬉しいわ!ウェルギリウスさんほんますごいのみんな知ってますよ、ほんま世界最後の日まで有名人なんちゃうやろか。あ、申し遅れました、ウチ、天国で働いてるベアトリーチェいいますねん。
 ところで、聞いてくれます?ウチの幼馴染のダンテ君がな、人生に絶望して錯乱してるみたいでな、しかも運の悪い事に山に迷い込んで獣に追われてるらしいねん。それで助けに行こう思って天国から下りてきたんやけど、色々用意してたら遅なってしもて。
 遅なってる間に、ダンテ君、いよいよ本格的に錯乱してしもてるんよ。せっかくこっちに向かって歩いて来てたのに、獣に行手を阻まれて引き換えそうとしてる。それは勿体な過ぎるやん?今すぐ説得しに行かなあかんねんけど、ウチって口下手やからさ、テンパってる人に上手に事情を説明できるか自信ないねんな。そこで、ウェルギリウスさん、どうかウチの代わりにダンテ君のとこ行って説得してくれへんやろか。ウェルギリウスさん、ハナシ上手やと聞いてます。力を貸してもらえへんやろか。ダンテ君はほんまに大事な幼馴染なんです。
 もちろんタダでとは言いませんよ。ウチを喜ばせても損はあらへんで、何を隠そう、このベアトリーチェは天国ではそこそこ名の知れた偉い立場におりますから。主に会う機会も割りかし有るし、その時にはウェルギリウスさんの事を是非とも天国にと推しときます。どないやろか、お願いできませんか?」

 わしはベアトリーチェさんの言葉に深い感銘を受けたから、こう答えたんや。ベアトリーチェさん、あなたみたいに心の清いベッピンさんに頼まれてな、誰がその頼みを断れる言うんや。まさに男名利に尽きるというもんですわ。喜んで引き受けましょう。今すぐ、そのダンテとかいう男の所へ行きます。ただ、その前に一つだけ言わせて下さい。天国でも相当の地位に居るあなたが、どうしてこんな所へ下りて来たんです?ここは曖昧なごろつきもようさんおるし、地獄の炎も時々吹き上がってくる危険な土地ですから、あなたのような美しいご婦人の来る所ではないですよ、と。

 すると、ベアトリーチェさんはこう言うた。
「そりゃ悪人ばっかりやったら危ないやろうけど、みんながそういうわけちゃうやんか?それに、ウチは主がかけてくれたバリアに包まれてるから、悪い人の攻撃も地獄の炎もノーダメージやから安心やねん。わざわざ下りて来た理由はな、実は最初、天国の女衆を纏めてるマリア姉さんがルチア姉さんに、ダンテ君はああ見えて信心深い子やから助けたりて言うたんよ。そしたらルチア姉さんは考えがあって、ウチのとこに来て言うてくれてん。ベアトリーチェ、あんた、なんでダンテ君を助けたらへんの?ダンテ君のこと好きなんちゃうん?そらあんたは先に死んでしもて、今は付き合ってるとは言えへんかもしれんけど、ダンテ君は今でもあんたを想い続けて一人でおるんやし、なんならあんたがおらんなったから錯乱したみたいな所もある思うで。ほら、ダンテ君の気持ちを想像してみ?それでも平気か?指示を受けた私が行ってもええんやけど、ここはあんたが一肌脱ぐべきとことちゃうんか?って。ウチ、それ聞いてソッコーで下りてきたんよ。ウチがアホやった!ダンテ君が困ってんのに、何を見て見ぬフリしとんねん自分!って。
 分かってもらえた?ウチがどれだけ本気でお願いしてるかって事。ウェルギリウスさん、ほんま、どうかダンテ君を頼みます」

 泣ける話や。ベアトリーチェさんは泣いてたんやで、その涙を見て、わしは何としてもお前を地獄に連れて行き、天国に行くチャンスを掴ませてやらねばと思ったわけや。これでお前を旅に誘った理由は分かったやろ。これでもまだ、お前は旅に出えへんと言うんか?あのマリアさんやルチアさんやベアトリーチェさんが必死の思いでお前を助けようとしとるのに?ここでビビったら、マジな話、お前ほんま根性無しで男のクズやで?』

 ウェルギリウスさんの記憶力はほんまに凄まじい、人間離れしてるよな。ようこんな長い会話を全部記憶しとれるわ。しかも、俺に一切の反応の隙を与えず、絶え間のない超ロングブレスで一気に話せる頭の回転と肺活量には感服の一言しかないわ。
 
 話が脱線してもたけど、俺はこの話を聞いてほんま目が覚める思いやった。ああベアトリーチェ、俺の幼馴染であり、彼女でもあったベアトリーチェや。死んでしもたんやけど、天国で役職について頑張ってたんや。しかも、バリア有るとはいえ危険を犯してまで俺の為に地獄の手前まで下りてきて、ウェルギリウスさんを探し出して頭を下げてくれた。そして、ウェルギリウスさんも快くベアトリーチェの願いを聞き入れ、俺の為に来てくれた。俺はその事実を聞いて、そりゃあもう勇気が出たよ。ビビってた自分が恥ずかしいわ。
 
 俺は心の奥底から湧き上がってくる涙を堪えながら、ウェルギリウスさんに言うた。
『ウェルギリウスさん!あなたは僕の恩人です、ベアトリーチェの願いを聞いて、僕を助けに来てくれたあなたは…もう…ほんまに…ううっ…。ありがとうございます!決心がつきました!ここで行くのをビビってたら、僕は男と信仰を廃業せななりませんね。行きます。もう何も怖いもんありません、最初の気持ちに戻りました。僕はウェルギリウスさんに一生付いて行きます!師匠と弟子、一心同体でこの旅を完走しましょう!そして、必ずや天国への切符を手に入れましょう!』

 俺はかつてないほど溢れる情熱をウェルギリウスさんに精一杯伝えた。俺の覚悟と熱意が通じたのか通じてないのか、ウェルギリウスさんはまた何も言わずにすたすたと歩き始めたんや。俺は後ろについて歩いたけど、普通こういう時って何か言うてもええ思うんやけどな。よし!行くぞ!とか、頑張ろー!とかでもええから。ほんまウェルギリウスさんやわ。
 
 何はともあれ、俺とウェルギリウスさんは決意新たに出発したんや。想像を絶する地獄の旅へ、本当のスタートを切ったわけやな。
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