第2話 公演初日

文字数 1,927文字

 今日は歌劇『マリー・アントワネット』の初日。サミアは幕間からのぞくと多くのお客様がつめかけているのを見て、興奮を抑えきれずにいた。サミアにとって主役であるマリー・アントワネットを射止めるのに、血の滲むような努力をどれほどしたことか。
 オーディションには二千人の応募があり、演技や歌唱力はもちろんのこと、社交性、家柄、学歴、容姿などあらゆるものが対象で、審査が進んでいくうちに、何人もの女優の卵がここから去っていった。
 
 マリー・アントワネットは自由奔放なだけでは表現しきれない複雑な心情の持ち主だ。無邪気さのなかに憂いが同居していて、破天荒のなかに緻密な計算がある。フランス絶対王政の最期を告げる大輪の華は、感情を爆発させて相手を跪かせ、母親のように諭し、服従を誓わせ、死の恐怖を取り払う強靭な精神を持ち合わせなければ、演じ切ることはできない。
 そう思うと、サミアはさほどの緊張もなく、すべて自分の思い通りの演技ができた。

 実際のサミアは貧しい家庭に生まれで、母親は男をつくっては何人も帰ってこない、父親は仕事もせずに朝から酒に浸っているような典型的な崩壊した家庭だったが、とくに哀しいとは思わなかった。
 この世界は鋼にも似た強い意志さえ持ち合わせていれば、ほとんどの困難は乗り越えられる。サミアはこのオーディションに臨むにあたって、裕福な家庭で育ったという履歴を買った。お金さえ払えば家族は買えるし、自分の人生にとって疫病神でしかない人々をこの世から消すことができる。
 お金は無口だけれども誠実だ。だから現在のサミアは財産家の娘という経歴に変わり、両親がどこに身を堕としたのかは知る由もない。

 時計を見ると、開園まで三十分ある。
 サミアは最後のオーディションの日を思い出していた。最後はミリィという女の子と二人だけになった。ミリィは一次審査にいるような純真な娘たちにはない個性があり、まだデビュー前というのに近寄りがたいオーラが漂っていた。
 きりっとした眼差しには強い意志と情熱が同居していて、一瞬にして審査員を呑み込んでいた。
 サミアはミリィの完璧な演技に打ちのめされた。このオーディションで初めて負けを認めた。サミアにはマリー・アントワネットの姉妹カロリーナに抜擢されたが、それは奨励賞みたいなものだ。その夜、サミアは眼が腫れるほど泣きながらも、ある計画を思い立った。

 今回、マリー・アントワネット役を射止めた女優は何人もの男を弄ぶふしだらな女という噂を広めればいい。あの端麗な顔立ちを思えば、格好のスキャンダルになるはずだ。
 もちろんサミアが噂の発信源になってはいけない。そういう時にこそお金はある。サミアの依頼者はネット世界に精通していて、半月もしないうちにSNSで拡散させ、やがてタブロイド紙が嗅ぎつけて事実無根の記事に仕上げた。
 公演二か月前にミリィは舞台監督に呼ばれて、その日を境に稽古場に現れなくなった。そしてサミアに主役の座が舞い降りた。

 開幕ベルが鳴った。華やかで切ないマリー・アントワネットの半生が始まった。サミアの陽の当たらなかった人生に光が射しこむ記念すべき舞台。サミアは舞台狭しというように朗々と歌い、舞い踊り、そして観客の涙を誘った。
 サミアを中心に世界は廻っていた。待ち望んでいた幸せがその手に入った瞬間だった。

 ふと観客席を見ると、最前列にミリィが座っていた。
 ミリィは黒い服を着て、しっとりと輝く瞳でサミアを見ている。サミアの心臓が激しく高鳴った。たとえ陰謀に敗れたのだとしても、敗者がこの舞台と同じ空間にいる必要はない。
 しかも葬儀に出席する時のように全身黒い衣装をまとって来るなんて。公演初日をミリィは自分が死んだ日と思っているのだろうか。

 舞台はクライマックスを迎えた。
 中央にはギロチン台が備えつけられて、後ろ手に縛られ、両脇を死刑官吏人に抱えられたマリー・アントワネットが現れた。諦観した眼のサミアは美しくもあり、儚げでもあった。会場は水の底のように静まり返っていた。
 マリー・アントワネットの首がギロチン台に置かれた。視線の先にはミリィの顔があった。サミアは運命的なものを感じた。物語なかでは私が敗者になるけれども、この舞台のうえでは私が勝者。ミリィは涙を流すどころか瞬きもせずに、サミアを凝視していた。

「もう思い残すことがないか」その大審官が告げたとき、ミリィは胸元からピストルを取り出して、サミアの額に照準を合わせた。
 サミアの顔から血の気が引き、みるみるうちに蒼ざめていった。
「お願いだから!許して!」サミアが絶叫したと同時に、ピストルの乾いた音が響いた。
  公演初日。サミアの人生の幕が閉じた。

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