Citrus limon

文字数 1,997文字

 料理ならギリシャのモスハリ・レモナト、香港の西檸煎軟雞(シーニンジャオユンガイ)、モロッコのシトロン・コンフィ。お菓子ならスペインのパパラホテス、台湾の愛玉子(オーギョーチー)、フランスのマドレーヌ。十年に満たない、でも子供の私には長いその期間に彼女と食べたものを思い出すたび、どこからかレモンの香りが漂ってくる気がする。

 私の実の母はエキセントリックな人だった。

 そこに惚れ込んで結婚した父さんは、私が産まれたあと、妻と娘の両方の面倒を看るのに限界を感じ、男手一人で私を育てることに専念し、そうする間に妻への愛が冷め、そして別の女性と恋に落ちたので、妻に離婚を願い出たらあっさり許諾され、めでたく円満離婚の末、私を連れて再婚をした。
 そうしてできた「母さん」は非常に家庭的かつ器の大きな女性だったので、私はおいしく栄養のあるものを食べ、手入れの行き届いた家で生活し、幼児期の癇癪と思春期における両親との軽い諍いを挟みながら、成長し、大人になった。
 近所の人も友達も、誰一人、私と母さんに血の繋がりがないとは気づかなかった。

 むしろ私と実母の「チサトさん」の組み合わせの方が、よっぽど他人に見えたと思う。
 すらりと背が高く仏頂面で早口のチサトさんと、ぽっちゃりで考えていることがすぐ顔に出る、口のとろい私。

 そんな私たちの唯一の共通点は「レモン好き」であることだった。

 小学一年生の春、初めてチサトさんと会った時、好きなお菓子はあるか、と尋ねられた私は小さな声で「レモンタルト」と答えた。母さんの作る、搾りたてのレモンを卵黄とバターにたっぷり混ぜたものをタルト生地に流し込んだその焼き菓子が私は大好きだった。

 「ませてんな」という低い呟きに、怒られるかも、と私は焦った。「レモンが好きか」と続いて問われて、無言でコクコクと頷いた。

「あたしも好きだよ」

 に、と笑ったチサトさんは私をギリシャ料理屋に連れて行った。赤身の牛肉をホロホロになるまでじっくり煮込んで、仕上げにレモンを効かせたモスハリ・レモナトは、ほっぺが落ちるかと思うくらいおいしかった。それ以来、二人で会う時はレモン料理やレモン菓子を食べるのがお決まりになった。



「レモンは『速い』と思う? それとも『遅い』?」

 チサトさんがこうやって唐突に質問をすることは珍しくない。彼女はもう色んな事を知っているのに、知らないことは何でも知りたがった。私の普段の生活や、学校でのことも根掘り葉掘り聞いてきたけれど、それは親心ではなく、単にひとつ世代の違う人間が何を見聞きし、考えるのかを知りたかったのだと思う。
 それを苦々しいと思ったことはなかった。
 話下手で、家でも学校でも聞き役ばかりしていた私に、チサトさんは色々な質問をした。そして、要領を得ない私の話に余分な口をはさまず、短い相づちや、途切れた言葉をつなぐために必要な合いの手を入れてくれた。

「……レモンが徒競走とかするの?」
「ううん。『レモン』って言葉の

が『速そう』か『遅そうか』」

 私はレモンシャーベットにスプーンを差し入れた。澄んだ匂いが立ちのぼった。

「……速いと思う」
「なんでそう思った?」
「えっと、匂いとか、すっぱいのが、スッって感じだから?」

 なるほど、とチサトさんはリモンチェッロの入ったグラスを傾けた。

「なんでかはね、実は分かんないんだ」
「チサトさんでも?」
「そ。でも世界中の人──レモンって果物を知らない人でもこの言葉を『速い』と思う、とは分かってる」
「なんで?」
「一種のブーバ・キキ効果だね」
「ぶ……?」

 チサトさんは紙ナプキンにさらさらと何かを書いて差し出した。私はそれを折りたたんでポケットにしまった。こうした油染みや粉砂糖のついたメモはA4 のノートに張り付けて、後から調べたことを書き込んだ。年を追うごとにノートの冊数は増えた。それによって私はさまざまな物事について、そしてチサトさんがいかに博識かを知った。

「どこに行ってもレモンはすっぱくて、いい匂いで、速いんだ」

 それはきっと餞別の言葉だった。この日のすぐあと、仕事を理由にチサトさんは渡米した。それから一度も顔を合わせていない。

 私という人間の土台を作ってくれたのは父さんと母さんだけれど、あと少し、を補うための知恵と知識をくれたのはチサトさんだ。どこに行ってもレモンはすっぱくて、いい匂いで、食欲をそそり、気持ちを落ち着かせる。そして速い。嫌なことを彼方に置き去ってゆけるくらい。

 でも、それだけじゃなかった。

『香りでスピード感が変わることを発見 〜レモンは遅い、バニラは速い〜』

 科学ニュースサイトの新着欄にあったその見出しをタップして、中身を読んだ。レモンの香りは体感時間を遅くさせるのだという。私はあの食事のひと時の集積に足されたかもしれない時間を思う。
 それはレモン一滴分程度のものかもしれない。でも、私にとっては大事なものなのだ。
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