第3話

文字数 2,945文字

  心療内科医の言うところの『男性であることに開放的な場所』は、自らの精神衛生にとって必要な場所なのだとアドバイスされたこともあって、無駄遣いをしている罪悪感は薄らいで行った。自分なりには戒めをもって、マッサージを受けることのみを目的に通うのだと言い聞かせた。決して彼女たちを求めに行く訳ではないのだからと言い訳を探している。もっとも日々の生活で、まだ若い彼にとって、爪に火をともすような薄給での日常では、そう開放的な場所に何度も行くということ自体、彼には簡単ではなかった。何かしら仕事において成果が上がり一息つきたいときに、アルコールの力を借りて憂さ晴らしをするのが一般的に許されるのならば、そうした日が最低でも複数回以上は積み上がったコストが嵩むことにはなる。もともと彼は、業務上どうしても必要なお付き合い以外のアルコールは絶っていた。もともとアルコールの分解酵素を、そう多くは持っていない遺伝子なので、安上がりに酔っ払えるのだが、陽気に酔えれば良いのだけれども、どちらかといえば、独りの孤独な瞑想に内向的に落ちて行くような酔い方をする。学生の頃はよく、トイレで独りうなっているうちに宴が終わっていたりもした。そんなわけで、アルコールを求めるときは大抵、カウンター・バーにする。物静かなバーテンが、黙って何も聞かずに佇んでいるような場所で、ちょっと水割りをひっかける程度が彼の好みだった。ウイスキーの水割りを1、2杯、カラカラと鳴る氷の音に耳を澄ませ、ぼんやりと煙草の煙に目を細めながら、喉の奥に流し込む程度が好きだった。
  学生の頃、彼が気に入って通ったバーは、奥まった路地に忽然とドアだけが埋め込まれ、そのドアを開けると階段が地下へと伸びて行くような一等地にあった。作品自体好みではなかったし、余り多くを読み進めた記憶はないが、往年の有名な文豪が通い倒した場所である証拠に、モノクロの文豪の写真が飾られている。そんなバーだった。お付き合いをした女性は、最低でも一度は、そのバーに連れて行った。どの女性と一緒に居ても、バーテンダーや店員からは優しい眼差しをもらえていた。ところが、ある女性を連れて行ったときだけは、明らかに、その店にいる初老の女性陣は悪意ある鋭い視線を不躾に投げて来て、トイレに立った彼の耳元にわざわざ近づいて来て、できるなら他の娘にしなさいと告げたのだった。理由は聞かなかった。聞いても教えて貰えるとも思えなかった。ただ、初老の女性陣たちが毛嫌いするような雰囲気が、その女性には何かしらあったのだろう。うがった見方をすれば、それはある種の嫉妬に近いものだろうと彼は推測した。他に何か理由があったのだろうか。女性の第六感なのだろうから、聞いてみたところで答えは変わらないのだろうと諦めていた。
  彼は、彼女を、そのバーにいつか連れて行ってみたいと、夢想してみることが多くなっていた。いまはもう、あの初老の女性陣は退散しているかもしれず、既に年老いていたバーテンダーは、この世にはいないかもしれないと思いつつ、実際に、彼女を連れて行ってみたら、どんな反応を示すのだろうと想像してみるのは楽しかった。やっぱり、できるなら他の娘にしなさい、なんてアドバイスを貰うことになるのだろうか。そうして、いくばくかの自己嫌悪を覚える。何度も確認しているように、彼は彼女の単なる客でしかないからだ。
  彼女が待機している街は、そもそも若者の集う街で、派手な格好をした女性との出会いの場として繰り出すようなところだった。その街には軽薄なイメージがつきまとう。彼が最初にその街を訪れたのは、高校のときだった。夏の大会が終わって、卒業メンバーだけでコンパをやろうということになった。未成年の飲酒は法律上は禁止されていたけれども、コンパという呼び名で、その当時から結構頻繁に、高校生でも酒を飲んで遊び惚けることができるような街でもあった。金持ちのボンボンが多い高校だったから、そんな企画を立てた時点で、その街の幾つかの坂道のうちのひとつの途中にある居酒屋で、カラオケをやりながら飲める場所で空騒ぎをした。その街には、そんな記憶しかない。
  彼女に早く会いたい、できるだけ時間通りに彼女と対面したいと思えば、その街に繰り出さねばならない。言ってみれば、たったそれだけのことだけで、彼は二の足を踏んでしまっていた。それくらい、その街が好みではなかった。
   以前から気になっていた店だったのだが、そういった意味で、所在している場所が気に入らないから諦めていた。ところが、どういう理由かわからないけれども、たまたま彼の許容範囲にある少し離れた隣街や、彼の生まれ故郷に比較的近い街でも利用可能なこと、むしろイベントとして推奨するといった案内に出会うことになった。そこで彼は、彼女とは別の女性に、彼の生まれ故郷に近い街まで来てもらうことにした。そのときも、随分と長い時間を待たされて、ようやく逢えたのだけれども、システム自体が余りよくわからないから、最初というのは、単に試してみるといった感じになる。試してみた程度にしては、あれこれと気遣ってもらえて、悪くなかった。気がかりだったシステムの謎も解けて、満足できた。
 そんなわけで、その店を二回目に利用するときが、彼女との最初の出会いになった。故に、今度は、少しだけ近くへと思って(前回で懲りたので)彼の許容範囲にある隣街まで足を伸ばし、彼女と初めての時間を過ごすことになった。繰り返しになるけれども、そこで穏やかな満ち足りた時間を過ごせて、彼はすっかり癒されている自分を自覚するに至った。
 次に彼がその店に連絡をした日は、たまたま彼女が留守だった。人見知りをするわけではないのだけれども、どうせならもう一度、最初にお願いしたときの女性を希望してみることにした。希望したら、そもそもの時間を遅らせ、さらにお店の近くへ導かれることになって、結局は、彼が最も苦手な街で、再会することになった。最初に出会ったときにそこまで話していたのだろうか?と思うほど、諸々の事情を憶えていてくれて、控えめに言って彼は、彼女のときと相応に癒されて行く自分を感じた。むしろ二回目に出会った時の方がずっと、親密な空気になれることを期せずして学ぶことにもなった。

 そうなると、一度足を運んでしまえば、もう馴れたものなので、結局、二回目に彼女と逢うときには、すぐに逢えるだろう、その街へ足を伸ばしてしまうことになった。二回目には、最初より一層、親密な空気で接することができるとすれば、なおいっそう、どうしても、もう一度、彼女に逢いに行きたい。そんな気持ちが強くなっていった。既に彼の気持ちはかなりの比重で彼女に傾いているのを自覚させられた。彼にとっては自然体の自分で、素のままに、何も飾らずに、昔からの知り合いだったような、以前から親密な関係にでもあったかのような、そんな印象へと彼女の存在が変わって行くのを感じた。そうしてすぐに戒めなければならないと自らにあらためて言い聞かせるのだった。彼女にとっては、彼は単なる客なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。わかっているだろう?と。



 
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