記憶

文字数 736文字

 この部屋ではいつも、書物が魔法を呼ぶ。
 開けば小説の師匠だったあなたもひょっこり黄泉から戻ってくる。
 二十年前に見えてた景色と僕が今、見ている景色は全く違うけれど、それでも今の方がしあわせだって言えるからきっとそれでオーケーだ。
 流れるミュージック、いろんなメロディ。
 ただただ、明るく生きなくちゃ、って思う。
 師匠が亡くなった朝。
 奥さんから「冷たくなった」って電話をもらい、二階の書斎から一階まで僕と師匠の叔父にあたるひとの二人で遺体を仏間に運んだ。
 あのとき、僕は、頭をタオルで包むようにして持って運んだけど、顔を直視出来なかった。
 師匠の息子は、
「おまえが親父の友達でいてくれて良かった」
 って言ってくれたけど、晩年の師匠は僕を毛嫌いして、批判をずっとしていた。
 その内容について語るのはやめるけど、僕が多くのひとを裏切って、昔あった電気街の住人たちに肩入れしたのが、師匠が僕を嫌った最大の原因だったことだけは書いておきたい。
 あの頃のあの街を歩くひとは、他人に無関心で、心地よく感じたんだ。

 今の僕を師匠が見たらどう思うだろう。
 きっと頭がおかしいって言うのかな。
 お金にもならないのに小説なんて書いてウェブで公開して、それなりに読まれたりもして、一喜一憂して。
 つまり、〈こっち〉の世界に戻ってきてしまったことに関してだよ。きっと笑ってる。
 この部屋の書物から流れるミュージック、いろんなメロディ。
 世界がきっと美しくて、こうあるがゆえにこうあるだけの、それが記述されたあなたの残した本。
 僕らが明日も、そのメロディとともに消えてなけりゃいいなぁ。
 さ、あなたのように今日も明るく生きなくちゃ。
 珈琲を淹れよう。涙で甘じょっぱくなるかもしれないけども。


〈了〉
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