毒薬としての文学(講談社文芸文庫)
文字数 2,004文字
誰にも教えたくない一冊がある。
『毒薬としての文学』。
倉橋由美子という作家に対峙した時、私はこの世界、あるいは文学に対してひどく冷静に、アイロニカルになる。
倉橋の書く随筆、小説世界は一貫して、残酷で無機質でフラットで美しい。
倉橋の目覚ましい活躍は、『パルタイ』で明治大学学長賞を受けた安保の年、1960年から始まるが、その「革命」の時代の混沌や熱気を、冷たく切り落とす文章の鋭利さは、60年以上を経た現代でも変わらず、我々の胸を突き刺してくる。
-人間とはまさに自己増殖する≪情報≫の怪物であります。
-つまり、小説(文学)には素人玄人の批評家がたかり、この小説について語ることによって、次第に価値を失っていく≪派生的情報≫の大群を生産するのです。(「毒薬としての文学」)
倉橋は自ら文学を書きながらも冷笑的であり、随筆では「文学的人間を排す」とした。
例えば、「前衛芸術風ソース」で煮込まれた書評新聞や「特異体質の芸術家風賎民」にしか食えないアングラ演劇などを痛烈に批判し、文芸誌にしてもそれは所詮、文学関係の仕事をしている専門家、文学青年しか購読されない、とぶった切る。
「私もせいぜい反文学的な人間を、反文学的に書くように努力いたしますわ」などと皮肉も言っている。
これは現代にも通じており、私自身も文学とは、所謂「文学的人間」のための、「文学的人間」による自慰にすぎないのではないか、という倉橋の文章に思わず頷いた。
こういった「文学的人間」から距離を置いた倉橋は、≪世界≫に毒を盛り、狂気を感染させ、その皮を剥ぎ取り、顚覆させることを企だてていた。
また、倉橋は作家として≪老人≫となること、男性化することを望んだ。25歳の華々しいデビューから結婚を経て、1965年10月10日の30歳の誕生日に、自らが≪女≫ではなくなったと書いている。
-女ニ生マレタノガソモソモマチガイダッタカナ。女にできる≪行動≫はただひとつ、子どもを産むこと、マルクス流にいえば「労働力を生産する」ことで、あとはただ、ひたすら≪存在≫するのが女の本性です。(「毒薬としての文学」)
倉橋は女が≪行動≫をするとしても、それは何かの真似事であり、「女流ナニナニ」、作家の真似事、男の真似事であるとした。
思えば、令和の今でこそ女性の地位は向上したが、前近代は女性の作家は「閨秀作家」「女流作家」などと呼ばれ、その容姿のポートレート込みで評価されていた。(現代でも未だ「美人すぎる」「可愛すぎる」などという言葉は続くが。)
だからこそ倉橋は女性性を超えた、≪老人≫になることを望んだ。
倉橋由美子の徹底した冷徹さ、既存の思想に与しない姿勢は、現代でも全く色褪せることはない。
作家論でもこちらが凍りつく鋭さがある。
「反埴谷雄高論」は次のように始まる。
-作家論にはいくつかのタイプがあります。
近ごろよく見られるのは、ある作家を自分なりに理解しようとする努力の産物で、これはいわば自分の分泌した言葉をその作家の言葉と混ぜ合わせていく消化の努力のような観を呈します。
-第二はその作家を料理ないしは解剖して見せる類のもので、刃物あるいは言葉を使うことにかけての名手がそれをする限りは安心してみていられます。
今、倉橋について拙い作家論のようなものを書いている私は、この文章に思わず戦慄する。
そして倉橋は埴谷雄高に対し、共感でもなく解剖するでもなく、「自分とはあまりにも違った人間について語ることを強要された時人間が自分とはいかに違った人間であるかを語る」ことにする。
この文章が書かれた1972年当時、文学青年の多くが畏敬した埴谷雄高を「黙示録的夢想家」であると真っ向から批判するとは、清水良典氏『「反文学」という常識の毒』にも指摘されている通り、凄まじいことであったのではないか。
また三島由紀夫の死については「英雄の死」の中で、三島が「頭も身体も弱い人間の、その弱さや病気を売り物にした文学」の伝統に愛想をつかし、文壇とは関係のない死に方をすることができた、と指摘している。楯の会、文学以外のことをしている時の三島は晴朗に輝いた眼をしていた、とも。
-昔から日本では三島由紀夫氏のような人があんなふうに憤死すれば神になることになっていた。
-三島氏はみずから死んでそういう神と化す以外になかったのである。
作家論においても、倉橋は倉橋であり、何者にも与しなかった。
本書『毒薬としての文学』は倉橋の全随筆の集約編集であり、作家論を含む35篇だ。
また講談社文芸文庫では、倉橋の他作品が読める。随筆と小説を読めば、その作品世界の迷宮から出られなくなるだろう。
誰にも知られたくないが、誰かに是非とも読んでほしい作品群だ。
私のなかに深く刺さって、一生取れない倉橋作品。
「毒薬としての文学」に触れ、知らぬ間の世界の顚覆を体験して欲しい。
『毒薬としての文学』。
倉橋由美子という作家に対峙した時、私はこの世界、あるいは文学に対してひどく冷静に、アイロニカルになる。
倉橋の書く随筆、小説世界は一貫して、残酷で無機質でフラットで美しい。
倉橋の目覚ましい活躍は、『パルタイ』で明治大学学長賞を受けた安保の年、1960年から始まるが、その「革命」の時代の混沌や熱気を、冷たく切り落とす文章の鋭利さは、60年以上を経た現代でも変わらず、我々の胸を突き刺してくる。
-人間とはまさに自己増殖する≪情報≫の怪物であります。
-つまり、小説(文学)には素人玄人の批評家がたかり、この小説について語ることによって、次第に価値を失っていく≪派生的情報≫の大群を生産するのです。(「毒薬としての文学」)
倉橋は自ら文学を書きながらも冷笑的であり、随筆では「文学的人間を排す」とした。
例えば、「前衛芸術風ソース」で煮込まれた書評新聞や「特異体質の芸術家風賎民」にしか食えないアングラ演劇などを痛烈に批判し、文芸誌にしてもそれは所詮、文学関係の仕事をしている専門家、文学青年しか購読されない、とぶった切る。
「私もせいぜい反文学的な人間を、反文学的に書くように努力いたしますわ」などと皮肉も言っている。
これは現代にも通じており、私自身も文学とは、所謂「文学的人間」のための、「文学的人間」による自慰にすぎないのではないか、という倉橋の文章に思わず頷いた。
こういった「文学的人間」から距離を置いた倉橋は、≪世界≫に毒を盛り、狂気を感染させ、その皮を剥ぎ取り、顚覆させることを企だてていた。
また、倉橋は作家として≪老人≫となること、男性化することを望んだ。25歳の華々しいデビューから結婚を経て、1965年10月10日の30歳の誕生日に、自らが≪女≫ではなくなったと書いている。
-女ニ生マレタノガソモソモマチガイダッタカナ。女にできる≪行動≫はただひとつ、子どもを産むこと、マルクス流にいえば「労働力を生産する」ことで、あとはただ、ひたすら≪存在≫するのが女の本性です。(「毒薬としての文学」)
倉橋は女が≪行動≫をするとしても、それは何かの真似事であり、「女流ナニナニ」、作家の真似事、男の真似事であるとした。
思えば、令和の今でこそ女性の地位は向上したが、前近代は女性の作家は「閨秀作家」「女流作家」などと呼ばれ、その容姿のポートレート込みで評価されていた。(現代でも未だ「美人すぎる」「可愛すぎる」などという言葉は続くが。)
だからこそ倉橋は女性性を超えた、≪老人≫になることを望んだ。
倉橋由美子の徹底した冷徹さ、既存の思想に与しない姿勢は、現代でも全く色褪せることはない。
作家論でもこちらが凍りつく鋭さがある。
「反埴谷雄高論」は次のように始まる。
-作家論にはいくつかのタイプがあります。
近ごろよく見られるのは、ある作家を自分なりに理解しようとする努力の産物で、これはいわば自分の分泌した言葉をその作家の言葉と混ぜ合わせていく消化の努力のような観を呈します。
-第二はその作家を料理ないしは解剖して見せる類のもので、刃物あるいは言葉を使うことにかけての名手がそれをする限りは安心してみていられます。
今、倉橋について拙い作家論のようなものを書いている私は、この文章に思わず戦慄する。
そして倉橋は埴谷雄高に対し、共感でもなく解剖するでもなく、「自分とはあまりにも違った人間について語ることを強要された時人間が自分とはいかに違った人間であるかを語る」ことにする。
この文章が書かれた1972年当時、文学青年の多くが畏敬した埴谷雄高を「黙示録的夢想家」であると真っ向から批判するとは、清水良典氏『「反文学」という常識の毒』にも指摘されている通り、凄まじいことであったのではないか。
また三島由紀夫の死については「英雄の死」の中で、三島が「頭も身体も弱い人間の、その弱さや病気を売り物にした文学」の伝統に愛想をつかし、文壇とは関係のない死に方をすることができた、と指摘している。楯の会、文学以外のことをしている時の三島は晴朗に輝いた眼をしていた、とも。
-昔から日本では三島由紀夫氏のような人があんなふうに憤死すれば神になることになっていた。
-三島氏はみずから死んでそういう神と化す以外になかったのである。
作家論においても、倉橋は倉橋であり、何者にも与しなかった。
本書『毒薬としての文学』は倉橋の全随筆の集約編集であり、作家論を含む35篇だ。
また講談社文芸文庫では、倉橋の他作品が読める。随筆と小説を読めば、その作品世界の迷宮から出られなくなるだろう。
誰にも知られたくないが、誰かに是非とも読んでほしい作品群だ。
私のなかに深く刺さって、一生取れない倉橋作品。
「毒薬としての文学」に触れ、知らぬ間の世界の顚覆を体験して欲しい。
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