遺書

文字数 4,995文字

 ただいまの時刻は午前六時。いよいよ最期の時がやって参りました。
 この期に及んで未練がましいようですが、私にも言いたいことはあります。伝えたいことがあります。どこから書いたら良いものか迷うけれど、とにかく思うままを書くしかありません。
 私の望みは、ごく普通に生きることでした。
 こう書くと、この文章を読んだ方は不思議に思うかもしれません。
 私としても自分の人生がこのような形で終わるとは、夢想だにしていなかった。自分があんな過ちを犯すとは考えもしていなかったことです。嘘だと思うかもしれませんが、本当です。私はごく平凡な幸せを手に入れたかった。
 普通の会社、中小企業で構わない、平々凡々とした地元の会社に就職し、二十代半ばから後半くらいで、同世代の女性と恋をして、結婚をし、子育てをしたかった。子どもに会いたかった。私は、私の子どもを育てたかった。愛したかった。抱きしめたかった。変な意味ではありません。純粋に、言葉通りの意味です。
 大金持ちになりたかったわけではありません。
 たくさんの女性にもてたいとか思ったわけでもありません。
 私は普通の、ごく小さな幸せを望む人間に過ぎなかった。
 しかし私にはそれができませんでした。
 私はとにかく要領が悪かった。
 学校の勉強はそこそこ出来たけれど、場の空気を読むとか、他人の気持ちを考えるということがとにかく苦手で、私も考えたり反省したりはしたけれど、それが実を結ばず、とにかく人間関係が不器用でありました。
 言いたいことはある。伝えたいこともある。だけども、それがどうしてもうまく他人様に伝えられない。
 私は悲しかった。悔しかった。私自身が嫌いでした。自分自身に嫌悪感を抱きました。
 なにを言っても解ってはもらえまい、なにを言ってもなにも言わなくても、どうせ万事反発を食らうだけなのだ、嫌われるだけなのだと思い人との接触を常に避けておりました。
 このような私が社会に出てうまくいくはずもありません。
 社会に出て一年目は、適度に愛想笑いをして、言われたことだけをしていればなんとかなった。
 ですが二年目からはそうもいきません。私のように自己主張が下手で、議論や会議が向かない人間に、会社員が勤まるはずもなく、やがて私は休職し、最終的には退職しました。
 月日は流れ、私も三十歳を超え、もう二度と会社員になりたくない、と思うようになっていきました。
 退職をしてから数年が経過し、会社員時代のカンが完全に鈍ったことがひとつ。そしてまたこの頃には(不思議なことに退職直後よりも)会社員時代のトラウマが頻繁に蘇るようになってきていたのです。
 会社員のころ、
「結果を出せ」
 と、耳にタコができるほど言われました。
 それは会社員でありますから当然の要求なのですが、しかし結果を出してもなお評価されないのが、社会人にはよくあることです。
 上司や先輩の気分ひとつで、昨日の命令が今日変わる。昨日の指導が今日変わる。昨日の結果が今日は無意味。よくあることです。
 よくあることだけに絶望するのです。このようなことが、社会人である限り、永遠に続くのかと冷静に考えますと、ただただ絶望するのみです。
 ああ、それにしても……今ここまで書いたらまた思ったけれど、どうしてこう、昔というのは忘れられないのでしょう。どうして私は、もう何年も前の、会社員時代に出会った嫌な上司や先輩を忘れられないのでしょう。
 さらに思えば私は、学生時代にからかわれたことやいじめられたことさえ、十何年と経ったいまでも、克明に記憶しております。トラウマです。はっきり言って恨んでおります。
 何故でしょう。うんざりです。自分で自分の脳みそを殴りたくなります。もう今さらどうしようもないことです。
 何年も何十年も前の恨みや怒り、失敗談など、もうどうしようもないのだから、忘れてしまえばいいのに、こらえてしまえばいいのに、私にはそれができなかった。それができない。どうしてもできない。
 嫌なことです。私の脳みそは決して出来が良いほうではなく、学校の成績はごく平凡なものであったことは既に書きましたが、こういった過去の嫌な出来事だけはきっちりと憶えているのです。ああ、この記憶力。もう少し正しいことに使えていたら良かったのに。
 こういう時に、たまには昔の良い思い出、両親や友達との優しい記憶が蘇ることも、ないわけではないけれど、嫌な思い出に比べるとその回数はずっと少ない。回数が逆であったなら本当に良かったのに。
 誰か教えてください。
 人間とは誰しもこうなのでしょうか。嫌な記憶、不快な思い出をずっと引きずって生きているのでしょうか。
 それともこれは私だけで、他の人たちはそうでもないのでしょうか。そんなことはないと思うのですが、どうか教えてください。
 あなたの場合はどうですか?
 過去を忘れることができていますか?
 過去の嫌な思い出はありませんか?
 なかったらいいのですが、誰でもひとつくらいはあるでしょう。その思い出をうまく忘れるか、それともこらえるか、出来ていますか。
 考えてください。
 思い出してください。
 あなたが本当に嫌だったことを。
 本当に消えて欲しいと憎んだ人間のことを。
 そしてその人間が、どんな顔であなたを馬鹿にしていたかを。
 あなたの人生にとって目障りでしかなかった人間のことを。
 思い出せていますか? 忘れてはいませんか?
 忘れているなら、それはそれでいいのです。幸せなことです。そのままで、どうか忘れたままでいてください。
 ですが、どうやったら忘れられるのでしょうか。気が付いたら忘れられるのですか。人間はそんなに便利な脳みそをもっているのでしょうか。
 そうなると私の脳みそはやはり欠陥品だったということになりますが……。
 やはり私は欠陥のある人間なのかもしれません。
 私にはできない。
 私は、私を侮辱した数多くの人間の罵り顔を忘れられない。
 お前たちがそれほど偉いのか。頭をかち割ってやりたい、家に火を点けに行ってやりたい、思うさまいたぶってやりたいという深い深い感情がある。
 だが私はそれができない。怒る勇気がない。
 私はこれほど恨みの一念をもっておきながら、復讐をしない。
 それは思いやりとか優しさとかそういうものではなく、もっと情けないなにかではないだろうか。そう思います。
 ああ、忘れたい。
 昔の、今さらどうにもならない恨みを、怒りを、忘れたい。やつらの顔を忘れることさえ出来たならこんなことにはならなかった。
 誰か教えてください。恨みを忘れる方法、こらえる方法を。
 そのやり方をどうか教えてください。私の墓前に報告してください。
 ああ、でもそうか、私は考えてみれば家族の墓に入られるかどうかも解りませんね。あれだけのことをしでかした人間が、人並みに墓に入ることができるでしょうか。
 しかし意地が良い人間でも、普通の人であれば、私と同じ墓に入ることを拒否するでしょう。それだけのことを私はしでかした。
 既にご承知のことでしょうが、二ヶ月ほど前に起きた渡辺春香の事件、あれは私の仕業です。
 なぜ私があんな罪を犯してしまったのかその動機について、これより順を追って書いていきます。
 三ヶ月前、私は世間への怒りを常に胸に抱き、鬱屈した毎日を送っていました。
 悲憤の念を抱きながら、私は毎日、街を徘徊していました。
 渡辺春香と出会ったのは四月十六日の夕方だったと思います。
 街のスーパーで、彼女は買い物をしておりました。可愛い子でした。
(こんな子と恋愛ができたら、どれほど楽しいだろう)
 そんな妄想に浸っていたので、私は、彼女が急に振り返ったことに気付きませんでした。ですから、彼女が急に振り返って、一歩を踏み出したところ、私と思い切りぶつかってしまったのです。
 そのときの彼女の目、声。態度。今でもよく、実によく憶えています。
「おじさん、邪魔!」
 お嬢様学校の女子生徒が、それはもう可憐な美少女が、吐き捨てるように、邪魔だと私を罵った。
 私の心は煮えくり返りました。一回り以上も年下の少女から、お前はもはや違う世界の人間だと宣告されたように思いました。それほど私にとっては衝撃だったのです。もはや私には、未来がない。青春がない。二度と青春を送れない。それに比べて若さに溢れるこの少女は、傲慢にもその若さと美しさをもってこの私を断罪したのです。
 この小娘、よくもここまで俺を馬鹿にしてくれた。世間からつまはじきにされた自分だが、こんな子どもにまで邪魔者扱いされるとは思いもしなかった。
 こいつは俺を馬鹿にしている!
 そう思ったとき、私の中の何かが切れたのです。
 許せない、なぜ、俺がいったいなぜ、こうまで他人から侮辱される人生を歩まねばならぬのかと、怒り狂いました。それまで溜まっていたものが一気に噴出してきました。この女を、私を馬鹿にしたこの小娘をぶっ殺して、この私がどれほどに恐ろしい人間か世間に思い知らせてやる、そう思いました。
 私は殺害を決意した。
 少女の後をつけ、彼女がスーパーから出たあともずっと尾行し、やがて人気のないところまで来ると、そのまま後ろから近づいて首を絞め、殺害しました。
 しかし今になってみれば、彼女は確かに私を侮辱したには違いないけれど、それは所詮一瞬のものに過ぎないから、どうせ殺すなら私をこれまで馬鹿にした人間の誰かを殺したほうが良かったかもしれん。
 すまぬという気持ちをまったく感じないわけではない。いや殺したということに関してはあまり後悔はしていないけれど、それでも私は人間でありますから、心がまったく百パーセント、染まりきるということはなかなかできません。そりゃ少しは悔やみます。しかしそれ以上に、私にはやり遂げたという気持ちが強い。
 渡辺春香の事件は翌日の新聞やテレビで報道されました。私が渡辺春香の名前を知っているのはこの報道からです。渡辺の両親は夜になっても戻らない彼女を心配して、警察に通報し、捜索開始。彼女はその日の夜に遺体で発見された、と報道にはありました。
 彼女の両親に同情する気は起きませんでした。あんな、年上の人を馬鹿にするような女を育てた人間二人ですから、どうせくだらぬ人間でしょう。しかし渡辺春香を育てるのに時間と金は存分にかかったでしょうから、それをこの世から損失させたというのは少し申し訳なく思う。
 この文章は彼女の両親も読むだろうけれど、ご両親さんへ伝えておきます。私が彼女を殺害した理由とその後の気持ちについては以上の通りです。私の部屋のベッドの下には貯金箱が有り、これは買い物の度に発生した小銭を貯めたもので二万円くらいは恐らくあると思うので、もし良かったら私の両親からそれを貰ってください。
 渡辺春香が私を侮辱したように、これからも私は他人に侮辱されるでしょう。その度に発生する怒りと恨みを己の中に押し込めたまま生きることはできそうもないし、また俗っぽいようでありますが、もしかしたら私は刑務所に入ることになるかもしれん。それはとても耐えられそうにないので、私は死を選びます。だってもはや、死ぬしかないではないですか。
 怒り、恨み、無念、諦め。
 色々とあるけれど私のこれまでの人生で感じてきた感情と、この度の事件の顛末を記して、私はこれより世を去ります。さようなら。
 最後になりましたが、この遺書は決して決してマスコミその他、世間の人々に公表なさらぬように。
 もしかしたら私に感情移入したりして、同じような人間が世の中に出てくるかもしれん。
 ですが私はなんと言っても犯罪者です。制服の少女に欲情した挙句、逆上して殺した犯罪者です。私は平凡人でありたかったが、私は結局平凡な人間でなかった。おかしい人だ。
 もしも、私に少しでも同情する人間がいたら注意してください。
 私の気持ちも少しはわかるよという人がいたら、その人は異常者です。
 犯罪者と同じ考えをした人間なのです。どうか注意してください。
 それでは皆さん、さようなら。
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