黽池の会

文字数 1,998文字

 趙王は長い長い溜息をついた。

「そんなようけため息つかれたら、幸せが逃げますよって」
「そうですぞ! どうしようもないですからな! がっはっは」

 王前に侍るはその配下の廉頗(れんぱ)藺相如(りんそうじょ)
 廉頗は巨漢、考える筋肉さん。豪放磊落でちょっと抜けてる。
 藺相如は涼やか美丈夫。頭が切れるけど何考えてるのかよくわからない。

「いかないと駄目?」
「あきまへん」
「行ってくりゃぁいいじゃないすか」

 去年、嘘つきの秦に『15の都市をくれてやるから和氏の璧(かしのへき)をよこせ』とイチャモンつけられた。藺相如がうまく交渉してなんとかなったけど。
 でも嫌がらせに(しん)は趙を攻めた。
 今回の用件。

『和解すっから秦領澠池(めんち)に来い』

 秦は強いから和解したいけど信用できない。秦は()(かい)王を同じ手段で捕えた前科もある。和睦の席に兵を連れて行くことはできず、澠池は遠い。万一の助けはない。でも行かないと和睦はない。ぐるぐる。

「そんじゃ行ってくる」
「私も一緒に行きますよって、なんとかなりまっせ」
「王よ、まあ澠池まで行って帰るのは30日くらいだ。帰ってこなかったら太子を王にするから安心して行ってこい」
「全然安心できないじゃん」

 王の背中は煤けていた。

◇◇◇

 澠池は豪華な食事と旨い酒で準備万端。
 秦王は趙王の想像通り、無理矢理土地を奪おうとを企んでいた。
 そして馬車から降りる一行を見て、秦側は凍りついた。

  あいつがいる……藺相如が……。

 秦王のこめかみに青筋が立つのを多くが目撃した。
 とはいえ到着した以上迎えざるをえない。
 宴もたけなわ。

「趙王は音楽をお好みとと聞きますが一曲願えないかな」
「はぁ」
「誰か瑟を持て」

 趙王は気が乗らなかったが、秦は怖い。滲み出る大国の王の気風。
 瑟とは琴のような楽器である。だが『瑟を弾け』というのは相手を配下の楽師と扱うのと同じ。対等ではない。演奏に合わせて、背後から圧迫が強まった。

「書士よ」
「ほ……本日、秦王は趙王と会食くくくしッ、趙王に瑟を演奏させた。ヒッ」

 書記官は果敢に記録を述べたあと即座に逃げ戻った。
 その瞬間、プチと何かが切れる音。堪忍袋?
 いつしか趙王の後ろに閻魔の如き影がぬるりと立ち上る。

「秦王は歌に秀でると伺いましたぁ」

 底冷えのする声で閻魔はいつのまにか秦王の前に立ち、美麗な皿など気にせず眼前の盆をガチャリと引き上げた。豪華な酒食が床に散る。徳利を1つ摘む。
 逆立つ髪、血走ってどこか赤い焦点の合わぬ目。

「こちらの盆と瓶で楽しく歌いなさんせ」
「こっ断る!」
「なんでぇ? 楽しいですよって。友好の宴なんやから楽しうやりましょぅ?」

 閻魔がカチリと音を立てて盆と徳利を打ち鳴らす。徳利からとぷりと酒がこぼれ出て、閻魔の袖を濡らした。余りの出来事に誰も口を開けない。

「ねぇ秦王、趙王は楽しう瑟を引きましたんよぅ。そうやろ? 次は秦王の順番ちゃうかなぁ?」

 そんなことはできるはずもない。徳利と盆を打ち鳴らす。それは庶民の宴会で、貴族のましてや王が行うものでは断じてない。
 なのに、閻魔は徳利を秦王の顔にピタリとつく程近づける。ここは異界。すでに地獄の三丁目。甘い香りが周囲を漂う。

「あぁあどうしてもだめ? 困るねぇ? ふふふ私は無礼かね? 今度こそ私の首を切り落としてしもたらどうやろなぁ? そうなると王に血ぃがようけかかってしまうねぇ? ほぅらこんな近うなってしもうたさかいに」

 閻魔はぬるりと秦王のそばに絡まるように立ち、冷気とともに見下ろす。

「ぶっ無礼な!!」

 気力を絞って立ち上がった武官は閻魔の視線に貫かれて崩れ落ちた。
 閻魔の目は物語る。

 近づいたら秦王を殺す

 手の徳利は秦王の首元にあり、いかにも容易に思えた。
 秦王は口をパクパクしながら左右に目を配ったが、その距離に間に合う者はいない。秦王は徳利を受け取り、おそるおそる閻魔の持つ盆にひとあて、コツリという小さな音は静まり返った場にひどく大きく響いた。

「書士の方」
「ほほほ本日、秦王はッ趙王のたメに徳利をををを打つッ」

 可哀想な書記官は蚊の泣くような小さな声で述べた。
 満足した閻魔は席に戻るために背を向け、圧が少し弱まる。
 文官が勇気を絞り叫んだ。

「ちちちち趙の15城市をを献上して秦王ののの幸福を祝してはッ!?」

 秦が宴で趙から奪おうとしていた、和氏の璧の意趣返し。
 閻魔が振り帰り、文官はその場に崩れ落ちた。

「なら秦王も咸陽を献上せな。趙王の幸福を寿いで?」

 咸陽(かんよう)は秦の国都。献上はない。
 その後、秦の臣が口を開く前に閻魔の視線に貫かれ、誰も何も言えなかった。
 秦の臣は思った。
 何で趙王はあれが平気なの?

◇◇◇

「何とかなったけどまた攻めてきたら嫌だよね」
「大丈夫。廉頗がちゃんと兵備整えてるから」
「そうなの?」
「大丈夫。王が生きてる間は」
「不吉~」

 カラカラと回る車輪の先には国境で大きく手をふる廉頗の姿が見えた。
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