第一話 僕とフラ

文字数 1,774文字

 彼女は僕を「タロウ」と呼ぶ。出会ってからずっと。この数ヶ月、ずっと。

 僕の本名は味気ない。だからタロウでもジョンでも、適当だとしても決めてくれることは嬉しかった。

「タロウはずっとここにいるのよね?」

 隆起した山と岩肌だらけの土地を見つめて、彼女――フラは言う。いつものようにセーラー服とガスマスクを着用した格好で。

 僕はフラへと目をやった。短い黒髪に赤いスカーフが鮮やかだ。夕暮れどきの大きな太陽よりも、より眩しく見えるのはなぜだろう。

「そうだよ。フラはシェルターから来てるんだろ? 長いの、今のシェルター生活」
「うん。でも大抵の住人は電脳空間に行ってて、退屈」
「話し相手が僕だけっていうのは、なんだかちょっと味気ないね」
「そうでもないわ。タロウは物知りだから。ここまで色々話せたのはタロウだけ」
「そいつは光栄」
「調子に乗っちゃって」

 フラは笑ったようだ。微かに肩が揺れている。彼女の青い目は相変わらず僕ではなく、僕たち二人の眼前にある岩山を見ていた。

 僕も無言で視線を前へやる。どこまでも続く地平線。落ちていく夕陽。そこに森はない。草木も水も、また。

 この世界には昔、森林をはじめ海というものがあった。惑星の七割を占める海がなくなったことで、人の住める場所は爆発的に増えたけれど、雨も水もないところで人間は生きていけない。そのために作られたのがシェルターだ。

 シェルターはドーム型で、一つにつき五万人程度の人間が住んでいる。夏は四十度越えが当然、冬もひどいときにはマイナス五十度以下にもなるこの世の中だ。海がなくなったせいで薄くなった酸素と大変な気温差から身を守るため、また、貴重な植物を栽培するために人々はドームを作り上げた。

 フラがガスマスクをしているのも、空中に流れるメタンガスと、剥き出しになった海底山脈からの噴煙を吸い込まないようにするためだ。

 長袖のセーラー服にも多分、寒暖調節機能がついているのだろう。防護服にもいろんなタイプがあることくらいは常識だ。

「ね、タロウ。昔ここにあった海の名前、知ってる?」
Atlantic Ocean(大西洋)だろ」
「正解。じゃあ、その名前の由来は?」
「……確かギリシャ神話ってやつから取ったはずだけど。アトラスって巨人から」

 僕は慌ててネットの海から情報を探る。フラがこちらを見る。青い目を細めて。

「今調べたでしょ。ずるいんだから、全く」
「電脳化してるんだから、そのくらい使ってもいいと思うけど?」
「クイズに不正行為なんて卑怯じゃないの。それにもう一つの答えは?」
「えっと……」
「三、二、一。はい、時間切れ。残念でした」
「……いつからクイズになったんだ」

 そうぼやくと、彼女は楽しげに肩を震わせた。

「答えは、アトランティス。伝説上の王国名が由来よ。ロマンを海に感じてたみたいね、大昔の人って」
「今だってそうさ。資源がお宝だろ? 一攫千金を夢見て穴掘りする連中も少なくないし」
「お宝、か。宇宙開発は頓挫したけど、今は電脳空間があるものね」

 トントン、とフラは自分のこめかみを叩く。

 ある一定の市民が特殊な電脳空間にダイブできるようになったのも、そう昔の話じゃない。電脳空間にはアガルタ、とかマゴニアとか様々な名前がつけられていて、市民クラスをちゃんと持っている人間ならそこで娯楽を味わうことができる。

 大昔にあった海やジャングルも、電脳空間の中では再現されているらしい。僕の電脳は古くて空間へ潜れる状況にないから、フラの言葉を信じる他ないけれど。

「フラも物好きだよね。電脳空間へ行かずに僕と話してるなんて」
「偽物を見てもなんの価値にはならないわ」
「そうかなあ……僕は見てみたいけど、昔の町とか」
「所詮作り物。電脳空間には上っ面のものしかない」

 淡々と述べる彼女の顔を僕は見た。地平線に視線を戻した横顔は怖いくらいに無表情だ。太陽に照らされて、そのまま夕陽の赤に溶けていきそうなイメージもある。

「本物があったらいいのにね」

 月並みな言葉を僕は発した。フラがこちらを見る。すぐに視線が外れる。

「また明日、来るから」
「うん」

 言って、彼女はシェルターの方へと戻っていった。ここからシェルターはそう遠くない。

 その後ろ姿を見つめたあと、僕は藍色に染まりつつある空の下、ぼんやりと上へ視線をやった。

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