Snouw of Smmer 祖母
文字数 2,000文字
田舎で一人暮らしをしていた祖母は、とてもハイカラな人だった。村で初めてパーマを当てたのは自分だと言っていたが、真偽は不明だ。どこかしら異国の雰囲気を持ち、お世辞抜きに美人だったから、若い頃はさぞかしモテただろう。母は祖母の血を濃く受け継いだようで、ほんのりと彫 りが深く、瞳がほのかに蒼い。わたしはその瞳の蒼さは受け継いだ。
祖父が若くに逝去して以降、女手一つで母を育て、大学まで行かせたそうだ。その気になればいくらでも条件の良い再婚相手が見つけられただろうに。
夏のはじめ、祖母から連絡があった。ビデオ通話だ。村で初めてスマホを買ったのは自分だとも自慢していたけど、それはきっと嘘だと思う。
台所のテーブルに置いてあるらしいiPadの向こうで、素麵 を茹でつつ錦糸卵を切りながら、祖母は一方的に話した。
『再来週の週末、空けておいて。あ、浴衣を用意しといてね』
「え、なんで?」
『電子チケットを分配するから、それを見れば分かるわ。じゃあね』
そして、祖母の言った週末、わたしはジャズライブバーなる場所に足を踏み入れた。
Snow of SummeR、それが店名だった。その日は毎年恒例だという浴衣ナイトで、誰もが浴衣姿だった。
「ジャズ界伝説のお店なのよ」
祖母は村で初めて防音完備のオーディオルームを造ったというくらい、音楽、とりわけジャズが大好きだった。家にはジャズのレコードが無数にあり、中でも祖母が愛したのがルイ・エヴァンスというピアニストだった。
祖母は、白を基調に落ち着いた花柄をあしらった清楚な浴衣を纏 っていた。
「おばあちゃん、とっても綺麗」
「あなたもよく似合ってるわ。百合の柄ね。百合には純粋とか無垢という意味があるの。女は幾つになっても、そういう仮面を被っておくことも必要よ」
「仮面じゃないし。おばあちゃんのは菊ね。菊はどんな意味?」
「高貴とか高潔。これも大事なものよ」
「純真無垢で高貴高潔?」
かなりハードルが高い。
「上手く使い分けなさいってこと。時には妖艶さも必要よ。あなた、恋人はいるの?」
「おばあちゃん、それセクハラだから」
「孫の心配をするのがハラスメントなもんですか」
祖母は子どものように笑った。
ステージは一組30分程度で入れ替わる。その合間、祖母はステージを見ながら言った。
「あの壁、ごらん」
気にはなっていた。ステージの背景にあたる壁は、一面が人の足型で埋め尽くされていたからだ。
「ここで演奏した名誉の証に、演奏家たちが足跡を残したの」
「へえ」
「3の3」
「何?」
「右から三列目、下からも三列目。あれがルイ・エヴァンスの足跡よ」
「へえ」
「背が高くて胸板が厚くて、手も大きくて。その大きな手で、繊細なピアノを弾く人だった」
「生で見たことがあるの?」
「それだけじゃないわ」
祖母は顔を近づけて囁いた。
「わたしの元カレよ」
「ええっ!!」
驚いたなんてものではなかった。まさか、母やわたしの目が蒼いのは——。けれど、そこで次のバンドが登場し、祖母は忽 ちそっちに夢中になった。
ステージに目を向けると、ピアニストの女性は浴衣
その脚と演奏に圧倒されていると、また祖母が顔を近づけてきた。
「ベースの人、いい男ね」
見れば、大きなコントラバスが小さく見えるほど体格の良い男性が、優雅に弦を弾いている。背が高くて、胸板が厚くて、手が大きくて——楽器は違えど、ルイ・エヴァンスに通じるものがある。
まさか、あの人まで元カレとか言わないよね。
「わたしがもう少し若ければ、彼のこと口説いたのに」
祖母は実に楽しそうだった。音楽に身を委ね、時に手を叩き、時には口ずさみ——。
翌朝、あの店からルイ・エヴァンスの足型が盗まれたというニュースが報じられた。祖母は「あら、そうなの」と微笑むだけだった。
それが祖母と過ごした最後の夏だ。
同じ年の冬、祖母は急に逝った。
三回忌の後、祖母宅のオーディオルームの片隅で見覚えのないジュラルミンケースを見つけた。施錠されていて、開くには四桁の暗証番号が必要だった。祖母の誕生日やら何やらと思いつくものを片っ端から試してみても開かない。
一旦諦めて、ルイ・エヴァンスのレコードをプレーヤーに載せた。やがて臨場感あるピアノの音が流れ始めた時、ぴんときた。
ルイ・エヴァンスの誕生日——その四桁でケースは開いた。中には誕生日カードが一枚。そして、白い布に包まれた何か。カードの差出人名にはSARINAとあった。
浴衣ナイトのパンフレットに記載されていた、あの女性ピアニスト——その名前が確か、SARINAだったはず——。
白い布を開くと、人の足を象ったオブジェが現れた。片隅に彫られた名前は、ルイ・エヴァンス。
これ、盗品じゃんか。
どうするんだよ、おばあちゃん。
祖父が若くに逝去して以降、女手一つで母を育て、大学まで行かせたそうだ。その気になればいくらでも条件の良い再婚相手が見つけられただろうに。
夏のはじめ、祖母から連絡があった。ビデオ通話だ。村で初めてスマホを買ったのは自分だとも自慢していたけど、それはきっと嘘だと思う。
台所のテーブルに置いてあるらしいiPadの向こうで、
『再来週の週末、空けておいて。あ、浴衣を用意しといてね』
「え、なんで?」
『電子チケットを分配するから、それを見れば分かるわ。じゃあね』
そして、祖母の言った週末、わたしはジャズライブバーなる場所に足を踏み入れた。
Snow of SummeR、それが店名だった。その日は毎年恒例だという浴衣ナイトで、誰もが浴衣姿だった。
「ジャズ界伝説のお店なのよ」
祖母は村で初めて防音完備のオーディオルームを造ったというくらい、音楽、とりわけジャズが大好きだった。家にはジャズのレコードが無数にあり、中でも祖母が愛したのがルイ・エヴァンスというピアニストだった。
祖母は、白を基調に落ち着いた花柄をあしらった清楚な浴衣を
「おばあちゃん、とっても綺麗」
「あなたもよく似合ってるわ。百合の柄ね。百合には純粋とか無垢という意味があるの。女は幾つになっても、そういう仮面を被っておくことも必要よ」
「仮面じゃないし。おばあちゃんのは菊ね。菊はどんな意味?」
「高貴とか高潔。これも大事なものよ」
「純真無垢で高貴高潔?」
かなりハードルが高い。
「上手く使い分けなさいってこと。時には妖艶さも必要よ。あなた、恋人はいるの?」
「おばあちゃん、それセクハラだから」
「孫の心配をするのがハラスメントなもんですか」
祖母は子どものように笑った。
ステージは一組30分程度で入れ替わる。その合間、祖母はステージを見ながら言った。
「あの壁、ごらん」
気にはなっていた。ステージの背景にあたる壁は、一面が人の足型で埋め尽くされていたからだ。
「ここで演奏した名誉の証に、演奏家たちが足跡を残したの」
「へえ」
「3の3」
「何?」
「右から三列目、下からも三列目。あれがルイ・エヴァンスの足跡よ」
「へえ」
「背が高くて胸板が厚くて、手も大きくて。その大きな手で、繊細なピアノを弾く人だった」
「生で見たことがあるの?」
「それだけじゃないわ」
祖母は顔を近づけて囁いた。
「わたしの元カレよ」
「ええっ!!」
驚いたなんてものではなかった。まさか、母やわたしの目が蒼いのは——。けれど、そこで次のバンドが登場し、祖母は
ステージに目を向けると、ピアニストの女性は浴衣
風
の衣装だけれど、裾には深いスリットが入っていて、ペダルを操る艶めかしい脚がほとんど丸見えだった。その脚と演奏に圧倒されていると、また祖母が顔を近づけてきた。
「ベースの人、いい男ね」
見れば、大きなコントラバスが小さく見えるほど体格の良い男性が、優雅に弦を弾いている。背が高くて、胸板が厚くて、手が大きくて——楽器は違えど、ルイ・エヴァンスに通じるものがある。
まさか、あの人まで元カレとか言わないよね。
「わたしがもう少し若ければ、彼のこと口説いたのに」
祖母は実に楽しそうだった。音楽に身を委ね、時に手を叩き、時には口ずさみ——。
翌朝、あの店からルイ・エヴァンスの足型が盗まれたというニュースが報じられた。祖母は「あら、そうなの」と微笑むだけだった。
それが祖母と過ごした最後の夏だ。
同じ年の冬、祖母は急に逝った。
三回忌の後、祖母宅のオーディオルームの片隅で見覚えのないジュラルミンケースを見つけた。施錠されていて、開くには四桁の暗証番号が必要だった。祖母の誕生日やら何やらと思いつくものを片っ端から試してみても開かない。
一旦諦めて、ルイ・エヴァンスのレコードをプレーヤーに載せた。やがて臨場感あるピアノの音が流れ始めた時、ぴんときた。
ルイ・エヴァンスの誕生日——その四桁でケースは開いた。中には誕生日カードが一枚。そして、白い布に包まれた何か。カードの差出人名にはSARINAとあった。
浴衣ナイトのパンフレットに記載されていた、あの女性ピアニスト——その名前が確か、SARINAだったはず——。
白い布を開くと、人の足を象ったオブジェが現れた。片隅に彫られた名前は、ルイ・エヴァンス。
これ、盗品じゃんか。
どうするんだよ、おばあちゃん。