第七幕:四 ノエルを飾る花

文字数 4,351文字

 食堂のテーブルにジンのグラスが増えていた。水路攫いの男たちがナギサを迎えた。

 ナギサは灰色のサンプルを渡し、人形が機能停止していることを伝えた。

 彼らは短い相談の末、これ以上の作業を打ち切った。最後に立ち入り禁止の札を街に寄せて移し、工場への報告を作成すると言う。今後は改良した人形を投入することに決めていた。

「新しい従業員宅地だってぇのに、最悪移転かぁ、大事だ。ともあれ助かったよ。頑強だな」

「嬢ちゃんがえれぇ心配してさ、難しいのに()とりで探索魔法まで使ってよ。反応(あんのう)したときは叫んでたぜ。ヨリアだけど優しい子じゃねぇか」

「ここの娘ッ子と間違えたのが申し訳ねぇ。……上流まで戻るらしいな? 荷馬車で悪いが、オッサンには話したから使ってくれや。じゃあな、白いの。嬢ちゃんを慰めてやんだぞ」

 仕事道具を紐で括り、彼らは店を後にした。

 彼らを見送るナギサを、ずれたヴェールから紫色の視線が睨んでいた。ノエルのほほには涙を擦った跡が赤々と残っていた。薄い袖が濡れ、肌の色が透けていた。

「……ノエル、ごめんなさい。心配を掛けてしまって」

「どれだけ心配したか! 酷ければ命を落とす場所に、ちっとも躊躇しない! エリスの謎の過去は、さぞ魅力的でしょうね。……男性って、いつもそうやって秘密を暴く速さを競うんだから。でも、どうか、自分のことも大切にして。突然居なくならないで……」

「本当にごめんなさい。……これからは約束、守ります。どこにも行きませんから」

 ノエルは、約束ね、とナギサの指に手を絡めた。

 白銀の青年が、純白のドレスとヴェールの女性に手を引かれている。道行く人びとの注目を否でも応でも集めてしまう。ナギサの心持ちは、というと、遠足で迷子になった子供が先生に捕まり、列の先頭を歩かされるようなものだった。勝手に初めてのお使いに出た日、祖母が肝をつぶして彼を探した。同じことだ。ノエルを安心させるために、手を離してはいけない。

 馬車を探さなくて済むのは幸運だった。食堂に横付けされた荷馬車の一角が、ふたりの座る面積分だけ赤キャベツを除けてあり、キャベツの主人は荷台を指差した。

「理由は聞いた。だから、駄賃の代わりに立ち入り禁止の奥の様子を聞かせてくれよ」

 ナギサは、主人の言う通りミュストの影響で人影が一切なかったこと、塗装や花が朽ちるほど濃く重い空気だったことを話して聞かせた。ノエルは情景のひとつひとつを聞くたびに指を締めるから、意識の半分はずっと、左手指の付け根を圧迫する、細い指に向いていたが。

「あの工場の食堂に野菜を届けてるんだがねぇ、住人が減ったら俺ぁ食えなくなっちまう。だって、最近じゃ悪魔が増えて、ただでさえ下流街は危険な場所になっちまった」

「人形工場と聞きました。街には人形の需要がありそうですけど……あ、食い手の問題か」

「工場が無事でも、移転するかどうかだからな。……白い兄ちゃんは生身でミュスト溜りに突撃なんざ、無茶したもんだ。その手は、野次馬しないよう嬢ちゃんに捕まったのか」

 馬を操りながら、主人はナギサの繋いだ手を揶揄った。

 指先の熱が、ノエルの体温であるかナギサの体温であるか、彼自身判別できなかった。今度はナギサが指を優しく締めた。ノエルを連れてこない方が良かった、と後悔していた。

 ……汚染の浄化がいつ頃になるのか、未確定の状況が続くだろう。主人もそれを察しているようだ。楽観的に振る舞うが、ふと「販路の拡大を考えなきゃ生活できん」と脱力して空を仰いだ。参った、参った。彼は数度呟いて馬に鞭を与えた。

「ああ参った。せめて新聞に載ってたような、逃亡者が誰か分かりゃ良いが」
 鞭を畳んで振り返った主人は、ナギサに愚痴をこぼし始めた。
「俺の勘じゃ被害者じゃねぇ。なんたって、恐らくそいつが二日(うつか)の大渋滞を()き起こした張本人(ちょうおんにん)だからな。せめて、せめてそいつに怒れりゃ気が()れるかも分からん。お前は知ってるか? 渋滞」

「……ははは。知ってます。大路に飛び出して、御者たちに散々怒鳴られたやつですね」

「そうとも! 俺も巻き込まれたんだ、もうこりゃ俺だって文句言ってやんなきゃ我慢ならねぇ。しかし、事件の犯人(あんにん)も、全然顔が割れねぇのよな。関係者がみーんなとんずらさ。だがいつか、必ず怒ってやる!」

 主人は豪快に腕を振り上げ起こる振りをするが、逃げた張本人のナギサは気が気でない。苦笑いでしか応えられなかった。心の中でだけ、スミマセン、と謝り——

 不自然だ——。主人の話に引っ掛かるものを感じた。

(僕が渋滞を起こした原因だって、知られてない?)

 ウィロー・タヴァーンで出会ったカスターは、渋滞の原因がナギサであると断定した。新聞記事の日付は事件後間もなくだ。が、ウェイターは続報がないような口振りでいた。

 幹線道路を進む馬を御するキャベツ農家の主人は、ノエルにまた別の愚痴をこぼしていた。医者が「赤キャベツは男を弱くする」と発表したことについて。「赤キャベツを作る俺は子供が十人以上いるし、食べてる奴らも子沢山だ。お宅らも買っていかないか?」そう語り、彼女を困惑させていた。

 しかし、文句もノエルの助けを求める視線も、ナギサには肖像画の暗い背景のようだ。

(これは、交易カンパニーってとこに、アーサーに、話すべき……?)

「……おい。おーい! おい白いの、車酔いか」

「……え」

 気がつけば上流マーロウ・チャーチ市場の前で、荷馬車は停止していた。すでに下車していたノエルが解かれた指を胸の下で結び、心配そうにナギサが立ち上がるのを待っていた。

「あ、ああ……ごめんなさい。ぼーっとしちゃった。馬車の振動って眠くなるんです。……有難うございました、送って頂いて。お陰様で、随分と楽できました」

「ああ、無茶も無事で済んだんだ。体を粗末にして嬢ちゃんを泣かせんなよ」
 主人はノエルに向き直った。
「ヨリアの嬢ちゃんも、上流で長く務められるように頑張って(あたら)けよ。俺みたく突然問題が起こることもあるんだからよ。ヨリアだと尚更な。……じゃあな!」

 ヨリア。響きに買い物帰りの客たちが動揺した。赤キャベツの主人は空気を波立たせたとはつゆ知らず、呑気に手を降り、上流へと流れる馬車の列に紛れ見えなくなってしまった。

 夕日が市場の石壁を黄金に染色する。その輝きに負けないくらい鮮やかな花束、そして生の香辛料の束を抱え、市場に花売り娘が現れる。一日の目標額を達成できなかった女たちや、家計を支える必要のある幼子たちが、カゴを抱え、市場の前を通り過ぎる稼ぎを抱えた商人、劇場へ向かう紳士淑女を相手に商売を始める。

 ノエルは、警戒を見せる花売り娘から、真っ赤に燃えるゼラニウムの束を買った。「今度は本物だから」。彼女はその束の最も立派な一本をナギサのフラワー・ホールに添えた。

「ねぇ、私こうして花束を握ってるとヒューの花売り娘みたいだよね。『あなた、花を買って頂けないかしら。()と束二ピグで良いから』。話し方がどこか違うな……。忘れちゃった」

「……花売りもしていたんですか」

「お針子兼花売り娘だよ、タンジー街的でしょ? 私は飾っても綺麗にならないし、持ったものは売ってこそ。どう? こういう『売る』こそ、飾るより私に似合う、と思うんだけど」

 ……ナギサは、花は要らないかと尋ねて来た別の花売り娘に二ピグ硬貨を渡し、太陽色のゼラニウムの束を買った。その内一本を、ノエルの花束に刺した。

「コナーさんが、花売りの主要顧客は、プレゼント目的の男性だ、って。ノエルは自分で買うんだから——じゃあせめて交換。僕、黄色い花が好きなんです。バラとかパンジーとか。仕事部屋にでもどうぞ。ノエルには、飾るのが一番似合います、絶対に」

「……そうかな」

「うん。また花を買いに来ましょう。ノエルは昼に、面倒を掛けたって言うけど、心配させたのは僕もだし、僕は楽しかった、ですよ? 僕はノエルが、その、どんなヒトでも好きですから。だから、また一緒に出掛けましょう? 今日のお詫びで」

「私はその……なんだけど。私が訪ねた場所の否々する雰囲気って言うのを、今日であなたは充分に知ったと思うんだ。一緒に居ても、損しかないよ?」

「ノエルと居るのは、損なんかじゃないです」

 ……ヴェールの奥、ナギサを じいっ と見つめる紫の瞳があった。ノエルはやがて、くるりとヴェールの正面を取り背け、木靴を かろかろ と鳴らしながらチャールズ・スクェアに向けて歩き始めた。彼女の、左半身がかなり軽いゆえの右足に偏った歩き方。大きな歩幅に弾む、ベルトの余りと杖の魔法銀の反射光。

「…………。うーん、お詫びは欲しくないかな」

「え——」

「今朝みたいな、楽しい予感を待っていたい。そんなお出掛けだったら良いな。……今日は私を預かってくれてありがとう。お客様も帰るでしょうし、お腹もすいた。私たちも帰ろう」

「はい。今度また、休みのときにお誘いしますね?」

 ……奥様の部屋へ消えたノエルの背中を、ナギサは何度か頭の中で再生した。

 コナー邸客間の晩。使用人が運んだ鳥の香草詰めの香りが、まだ部屋に残っていた。充足感、それから、少しの苦さと聖歌集を抱え、ソファに倒れ込んだナギサは思い出した——前世の最後も本を抱えて倒れた、と。彼は確かに暴れる心臓を抑えられずに死んだ。現世に迷い込んだのではなく、死んだのだ。

 そして前世に帰る手段は、現状なかった。

「僕は、知らない、ばかりのこの街でこれから生きなきゃいけない。それは、決めたけど」

 ナギサは聖歌集の表紙をめくった。にじみのない端正な文字列が、聖歌の詩を並べる。彼はそのどこを読んでも、伝説の情景を浮かべることはなかった。途切れた単語の集合だ。細切れに分割されてしまえば、言葉は、聖歌としての詩的な意味合いを失った。

 エリスの人生の一時点としてのナギサの人格は、長いエリスの人生のなかで、意味を持つのだろうか? もはや自分はいまにしか生きていない——そう考えたとき彼は、エリスの続きを演じるのか、ナギサでいて良いのか、足踏みばかりで進めなくなる。

 フォクシーの家令が「お風呂の用意ができました」と呼びに来た客間には、底に紅茶の輪ができたカップをつまみ、聖歌集を顔に乗せて眠るナギサの姿があった。
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