第1話

文字数 4,746文字

もういやだ。


育児も家事も全てを私に押し付けてきた夫との間には家族としての情しかない。
3人兄弟の末の息子が高校生になり、子どもたちはやっと私の手を離れた。

毎日が新鮮味のない、同じことの繰り返し。
出会いも別れも、たまにあるパート先の職場の異動くらいだ。
仕事だって生活のためで、別にやりがいなんか感じてはいない。

育児にかけていたぽっかりと空いた穴を何かで埋めなければ。

そんな風に焦っていた時、たまたま小説投稿サイトの存在を知った。

こういうのは、若い人たちしかやっていないんじゃないか。

そう思って覗いてみると、意外と私と同じくらいの年齢の人も多そうだと感じた。
もしかしたら、同じようなきっかけで始めた人だっているかもしれない。

小説なんて読むだけで書いたこともなかったから、最初は投稿されているものを読むだけだった。
けれどそのうち自分でも何か書いてみたくなり、日記代わりに今日あったことなんかを書き込むようになった。

1ヶ月続けたけれど何の評価も得られず、良くて1日に2人くらいにしか読まれていない。
どうせ誰も見ないのだからとかなり具体的なことを書き込むようになっていった。愚痴や本音も思う存分書き込むと気分はスッキリとし、前向きな気持ちが湧いてきた。

そして1ヶ月経った頃、急に1人の人からメールが届いた。

このサイトでは、作品を読んだリアクションボタンを押すことができる他に、作者に直接メールを送ることのできる仕組みがある。

差出人は「山田タロウ」さん。

『鳩ポッポさん、突然のメール、失礼致します。
いつも日記、読ませていただいています。
鳩ポッポさんの日常が赤裸々に綴られており、楽しみにしております。
これからも応援しています。』

「鳩ポッポ」とは私のことだ。
たいして考えもせず、思いついた言葉を適当につけたので、改めてそう呼ばれると笑えてしまう。
書き始めた時はここまで続くとは正直思っていなかった。
飽きっぽい性格の私が毎日続けて投稿できているだけでも奇跡なのに、こんなに嬉しいメールをもらうことができた。

山田タロウさんが読んでくれている。
そのことが私の励みになり、書き続けた。

その後もタロウさんからは何度もメールが来て、私たちは打ち解け始めた。

夫にはこのサイトのことは話していない。
だから正直、夫が早く帰ってくると日記の続きが書けず、モヤモヤする。
夕飯の支度よりもタロウさんとのメールのやりとりをしたい。

タロウさんはどうやらここからはだいぶ遠くに住んでいるようだ。

家のすぐ近くには海があり、夏は必ずそこで泳いだりサーフィンをするらしい。

ということはスポーツマン?
メールの雰囲気からして、20代ではなさそうだ。30代くらいだろうか。
夏の海ということはきっと日焼けもしているだろう。

すれ違う人、パート先のスーパーのお客さん、宅配のお兄さんを見てはタロウさんはこんな人だろうかと私の想像は膨らみ始めた。

タロウさんの作品を読むが、哲学的すぎて私には理解ができない。
きっと頭も良い人なのだ。でないとあんな作品は書けないはずだ。

高学歴のスポーツマン。
顔は…一体どんな顔をしているのだろう。

好奇心を抑えきれず、私は次のメールでタロウさんに切り出した。

『タロウさんは博学でスポーツもできるので、周りの女性が放っておかないでしょうね。きっと恋愛経験も豊富なのだろうなと想像しています。』

ちょっと踏み込みすぎただろうか。

『いえいえ、学生時代など学校と家の往復だけの毎日でしたし、スポーツは運動不足解消のために行っている程度ですよ。サーフィンはたまたま自分に合っていた、というだけです。ポッポさんのような女性が近くにいれば僕の青春も少しは違うものになったのかもしれないな…なんて思います。』

こんな言葉をかけられたのは何十年ぶりだろう。

私を女性として見てくれる人などもう現れないと思っていた。

いつかタロウさんに会ってみたい。
けれど、万が一にでも実際に会うことがあったら、こんな私ではタロウさんに幻滅されるのではないか。
その機会が訪れてからではどうにもならない。
そう思うと身なりにも気をつけるようになり、ダイエットを開始し、生活にもハリが出てきた。
学生時代のようにヘアスタイルの研究をしたり、流行にもアンテナを張った。
料理教室に通う余裕などないから独学で料理も勉強した。

「なんか最近、ごはん気合い入ってない?」

夫はそう言った。

「そう?…時間ができたからかな」

あなたに食べさせるためじゃないのよ。
いつかタロウさんと暮らす日が来るかもしれないんだから、その練習だ。

今日も、昨日書いた日記に対してタロウさんからメールが届いた。

『最近はお料理の研究を頑張っているようですね。機会があれば食べてみたいです、ポッポさんの手料理。』

もはやタロウさんの気持ちは私と同じなのではないかと感じた。

『私も食べてもらいたいです、タロウさんに、私の作った料理。私、タロウさんとお会いしてみたいです。』

ついに送ってしまった。

『わかりました。では、会いに行きますね。』

え!私の心臓はひっくり返りそうになった。

『今、電車に乗っています。』

…電車?電車で、どこへ向かうというのだろう。
だって、私の居場所をタロウさんが知っているはずがない。
そう思っていると、画像が送られてきた。



電車のドア?…じゃない。
これは…この向こう側に見えるのは、私の家の最寄り駅だ。
どうしてタロウさんが知っているの?
いや、それよりもタロウさんは『会いたい』と言ってすぐに会える場所には住んでいないはずだ。
ここは海から近くなんかない。

「ただいま」
夫が帰ってきた。

「あ、お、お帰りなさい」
「…どうした?」
私の様子を見て夫が違和感を感じたようで声をかけたその時。
家の電話が鳴った。
近くにいた夫が「非通知だ」と言って受話器をとった。

「もしもし。え?何?なんですか?…」

そう言って少しすると夫は受話器を置いた。

「…どうしたの?」

「いたずら電話だよ、『鳩ポッポさん、公衆電話まで来ましたよ』だって。意味がわからん。ほんと、暇なヤツがいるんだなぁ」



タロウさんだ、と確信した。
でもどうして?
どうしてタロウさんが家の電話番号を知ってるの?
私は混乱した。
けれど、タロウさんが言ったんだ。
「公衆電話」と。

私はハッとして家を飛び出した。
前にチラッと書いたことがあったのだ。
家のすぐ前に公衆電話ボックスがあったのにいつの間にかなくなっていた、と。
災害の時にそばにあった方がいいらしいので探したけれど、駅まで行かなければなかった、あった時は邪魔に思っていても、無くなってからその大切さに気がつくものはいろいろあるというような話だ。

タロウさんはあの駅にいるに違いない。
私は走った。
もはやタロウさんがどうして私の家や電話番号まで知っているのかなんてどうだっていい。
ついにタロウさんに会える!
もう全て捨ててもいい!
タロウさん、待ってて!



無我夢中で走り、駅に着いた。
駅には多くの人がいるのに、公衆電話を使っている人はいない。
けれど公衆電話のすぐそばに、スーツケースを持った背の高い男性が誰かを待っているように辺りを見回しているのが見える。

私のイメージしていたタロウさんよりは少し若いけれど、見た感じ、モテそうな素敵な人だ。
ハッとして自分の格好を見てみると、パート帰りの普段着のままだ。髪の毛だってボサボサだし、ああどうしよう。急いで家に帰ってもう一度きちんと準備してこようか。

そう思ってタロウさんに見つからないように背を向けて引き返そうとした時。

「ポッポさん」

後ろから呼ばれた。
背筋がピンと伸びる。
恐る恐る振り返った。

「やっぱり」

そこに立っていた彼女は、そう言った。

「…え?」

「私よ、田山(たやま)。覚えてない?」

「田山、さん…覚えてるわ」

彼女は去年パート先で少しの間一緒に働いていた仲間だ。
たった2週間ほどでやめてしまい、顔は見覚えがあったものの、正直、名前は今聞いて思い出した程度の人。
その人がどうして私を「ポッポさん」と呼ぶのか。

彼女の向こう側に見える、タロウさんだと思っていた人が待ち人を見つけ、去っていくのを目で追った。

「私が山田タロウよ。ポッポさんの日記を見て、すぐあなただってわかった。細かく書きすぎなのよ。ペンネームだって『小鳩(こばと)帆々子(ほほこ)』って名前そのまんまじゃない」

言われて初めて気がついた。本当にそうだ。

「…田山さんが、山田さん?」

「そうよ、ごめんなさいね、期待してたイケメンじゃなくて。一緒に働いてた時からあなたのことが羨ましかったの。ご主人も元気で、お子さんも有名大学や進学校に合格してるあなたのことが。だからあなたにもう一度私を思い出してほしくて…」

そうだ、確か田山さんは離婚して1人暮らしを始めたところだと言っていた。お子さんも元の旦那さんにとられてしまったと。
そうか、私は知らず知らずのうちに田山さんを傷つけていたのか。

「…なーんて、言うと思う?」

「え?」

「あたしがパートをやめたのはね、アンタの自慢話にうんざりしてただけじゃない、あたしの生き甲斐を否定したからよ。いい年して1人で小説なんて書いて暗いって、他のパートさんたちに陰で言いふらしてたじゃない。知ってるのよ。アンタなんかに言ったあたしも迂闊だったけどね。そんなアンタが書いてるものを見つけた。アンタの書いてるのは作品なんかじゃない、ただの愚痴だよ!自慢だよ!あんなもの読みたい人間なんかいるわけないじゃん!あのサイトはね、アンタの愚痴吐き場所じゃない!あそこは私の唯一自由でいられる場所だったのよ!…だからね、アンタを追い出してやろうと思った。アンタがあたしの作品を理解できないバカ女だってことはわかってた。アンタの好きそうなハイスペックのイケメンを装って、アンタが夢中になったとこで正体をバラしてやろうと思ってね。上手くいきすぎて毎日大笑いよ!よっぽど寂しい人生なんだね!アンタみたいな女の自慢話にイライラしてた自分がバカみたい。でもそろそろ飽きてきちゃってさ、バラしちゃおうかなと思ってたからちょうど良かった!パート始めてすぐに聞いてたアンタんちの電話番号、使う日が来ると思わなかったわ!電話に旦那さんが出たのもちょうど良かったー。そこで女の声だったらバレちゃうじゃない?アンタが出たらメールにしようと思ってたの!この状況、普通は怖がって来ないとこだよ?なのにアンタはのこのこやって来た!遠くから見て笑いをこらえるのに必死だったわ!アーッハッハッハッ!あーおかしい!そうそう、もちろんちゃんとこのこと小説にするから。暇を持て余したバカなおばさんの話!あースッキリした!じゃあね!」

田山さんは1人でべらべらと喋って自己完結して帰っていった。
そうだ、あの人はあんな風にコミュニケーションのとれない人間だったと思い出した。

田山さんの言い分には呆れたけど、私にはわかっている。



これはタロウさんの仕組んだことだと。



タロウさんは本当に頭がいいのね。
こうすれば私が道を踏み外すことなく、あなたをあきらめると思ったんでしょう?
働いている場所や家から見える景色、家族のこと、ちゃんと細かく書いた甲斐があったわ。
タロウさんが日記から辿って私にたどり着くことのできるように。
その上私も忘れているような田山さんのことまで調べて、彼女を使ってこんな寸劇まで用意してくれたなんて。
全部あなたの優しさなのよね。
あなたが私のことを思ってしてくれたこと。
あなたの気持ち、よくわかってるわ。
私、あなたをあきらめたりしないわよ。



私はその場でタロウさんにメールを送った。

『あなたの気持ちはわかってる。いつか本当のあなたに会いたいわ。私、待ってるから。』





タロウさんからの返事は、今もまだない。
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