第1話 朱に染まる海

文字数 4,382文字

 南極大陸。この地球上で最も寒冷な地域であり、その広大な大陸の殆どが分厚い永久凍土で覆われている。そしてその極低温は大陸だけでなく、その周辺海域にも影響を及ぼしており、大量の海水を凍らせて巨大な氷山をいくつも形作っている。

 極端な低温と海氷は時として自然の冷凍保存庫(・・・・・)としても作用する。大昔に死んだ生物は他の生物やバクテリアによって跡形もなく分解され、残った骨も長い年月の中で鉱物化し、遺伝子情報の喪われた化石として痕跡を遺すのみとなる。

 それが普通(・・)だ。

 だがこの南極の超低温が作り出すその自然の冷凍庫は、遥か過去に近海で死した生物をその遺伝子情報を残したままの姿で保存(・・)してしまう事がある。

 そして……昨今の地球環境の変化を受けて、その自然の冷凍庫の一部が融け出して、それが中に冷凍保存されていた『モノ』を外に露出させてしまい、結果として人間(・・)に感知されてしまうという事も、本当に極稀にだが起こり得るのであった……


*****


 南極の『最北端』に当たる海氷地帯の端。尤もそれでもオーストラリアやニュージーランドから数千キロは南に下った地点にある海域。ここに現在オーストラリア船籍の巨大な船が停泊していた。その船からはいくつもの潜水艇が海中に潜航し、氷山の一角から出土(・・)した『とある生物』の発掘作業(・・・・)を行っている最中であった。

「……素晴らしい。素晴らしいぞ。報告を受けた時は半信半疑だったが……まさか本当にこれほど保存状態の良いサンプル(・・・・)が手に入るとは」

 オーストラリア、シドニーに籍を置くバイオテクノロジー企業『エンバイロン社』のバイオサイエンス部の主任研究員であるタイロン・ベイルは、船の中に誂えられたコントロールルームにおいて潜水艇から齎される映像やデータの数々に、湧き上がる笑みを押さえきれなかった。

 『エンバイロン社』は現在オーストラリア政府(・・・・・・・・・)の依頼で、政府の調査団と共にこの海域までやってきていた。タイロンはこの調査団のエンバイロン側の責任者だ。

「このサンプルを甦らせる事が出来れば……くく、私の名は世界に広がるぞ。アメリカの科学界も私の事を無視できなくなるだろう。奴等が私の前に頭を下げて検体やデータを欲しがるだろう様を想像するだけで胸がすくな」

 自身の成功と躍進を思い描いて、タイロンは昏い笑みを浮かべた。アメリカの連中は自分たちこそが世界の最高峰だという自負が傲慢なプライドとなって現れており、特に同じ英語圏でありながら常にアメリカの後塵を拝するオーストラリアを見下す傾向にあった。それは科学界でも変わらない。タイロン自身も何度論文を嗤われ屈辱的な思いをした事か。

 だがそれももうすぐひっくり返る。そのために何としても政府から委託されたこのプロジェクトを成功に導かねばならない。

 やがて潜水艇から回収可能なサンプルは全て回収したという報告が入った。船に持ち帰られたサンプルの実物(・・)を見てタイロンは、身体の震えを抑える事が出来なかった。それは興奮によるものだったか、それとも畏怖によるものだったか。或いはその両方かもしれない。

「素晴らしい……。さあ、これから古生物学界を塗り替える偉業が始まるぞ」

 サンプルを前にしたタイロンは、狂気にも似た笑いを響かせ続けるのだった……


*****


 それから約2年後。南太平洋に浮かぶ島国、ニューカレドニア。オセアニアの島国としては例外なく、フランスの海外領土たるこの国も海洋観光が盛んであり、内海に広がる豊富なサンゴ礁を始めとした観光資源が売りとなっていた。

 ニューカレドニアでは最南端に位置するニュアミ島。ここにも島の周囲にはサンゴ礁が広がり、知る人ぞ知る観光スポットであった。今日この日も島の近海には一隻の大型ヨットが停泊していた。

 サンゴ礁のすぐ上の海面に停泊しているこのヨットには、アメリカからダイビング観光でやってきた大学生の若者グループが乗船していた。

「おーい、サム! 早く来いよ! 水が冷たくて気持ちいぞ! それに海の中がメチャクチャ綺麗だ!」

 いち早くサンゴ礁の海に飛び込んだ恋人のレニーが水しぶきを上げながら、まだデッキの上にいるサマンサを促した。大学の夏季休暇を利用して寮の皆で、大学時代の思い出づくりにとこの旅行が企画された。サマンサ自身はインドア派で、こんな所で遊んでいる暇があったら寮で試験勉強や卒業論文を書いていたかったが、レニーがどうしてもというので仕方なく参加していた。

 レニーの周囲には他にも海に飛び込んでスキンダイビングを楽しんでいる寮生達が何人もいた。彼らは寮でもクラブでも中心的なメンバーで、彼らに睨まれてしまうと大学生活が一気に辛いものになる。逆にご機嫌を取って適度に阿っておけば、色々なメリットを享受できた。この旅行もそうした付き合いの一環だ。

 彼女はため息をつくと、パーカーを脱いでビキニ姿になった。

 ヨットには現地人のガイドと操縦士がいるが、レニー達が『チップ』を渡してうるさい事を言わないようにさせてある。どうも自由にやりたい若者グループの間では現地ガイドに賄賂を払って色々とお目溢し(・・・・)してもらうのは日常茶飯事らしく、ガイド達も心得たものであった。

 アウトドアは好きではないが別に泳げない訳ではない。サマンサは綺麗なフォームでデッキから海に飛び込んだ。

 飛び込んですぐは水の冷たさが身に染みるが、元々赤道に近い熱帯地方なので水温は高めですぐに慣れる。レニーが泳いで近寄ってきた。

「はは! 『怒りん坊姫』がようやくご入場だな! いつも暗い部屋で勉強やゲームばっかやってないで、偶には陽の光を浴びて海水浴するのもいいだろ?」

「レニー……。え、ええ、そうね。とても気持ちがいいわ」

 追従の意味もあるが、実際に気持ちが良かったのは事実だった。それに水もとても綺麗だ。まあ偶にはこういうのも気分転換には良いのかも知れない。サマンサは現金にもそう気持ちを切り替えた。


 サンゴ礁の海でスキンダイビングを楽しむサマンサ達。やがてレニーが海に潜って下からサマンサのお尻を触ったりする悪戯をし始めた。

「ちょっと、レニー! いい加減にしてよ!」

 悪ノリする恋人に眉を吊り上げて怒るサマンサ。すると足の下の海中で大きなうねり(・・・)が起きたような気がして、レニーの悪戯がぱったりと止まった。自分の怒りが伝わったのかと安心するサマンサだが、今度はレニーが一向に水面に顔を出さなくなった。いくら待っても上がってこない。

「レニー、全然笑えないんだけど?」

 微妙に不安を感じたサマンサは、敢えて怒っている風に顔をしかめる。するとまたあの大きなうねりを海中に感じた。サマンサの不安は更に強くなる。

「……!」

 その時、ようやくレニーが海面に頭を出した。サマンサは露骨にホッとして、しかしそれを態度には出さないように不機嫌を装って彼に近づく。

「レニー、こういう悪戯ばっかり続けるようなら私、あなたとの関係を考え直さなきゃ…………レニー?」

 そこで彼女は様子がおかしい事に気づいた。海面に出てきたレニーだが、ずっと下を向いたままで水中に顔を埋めている。あれでは息ができない。もう大分長いこと潜っているのに大丈夫だろうか。それに波に揺られて全く動く気配がない。

「レニー……?」

 サマンサは恐る恐る手を触れて揺り動かしてみる。すると……

「ひっ……!?」

 レニーの上半身(・・・)がひっくり返った。彼の下半身が……丸ごと無くなっていた。ズタズタに千切れた胴体からは、大量の血液が漏れ出してサンゴ礁の青い海を真っ赤に染め上げていく。

「ひ……あ、あ……」

 何が起きたのか全く解らず呆然とレニーの死体を見やる。だが彼女の混乱を他所に容赦なく事態は動く。

「うわぁぁぁっ!! クリスが……クリスが……!!」
「ひっ!? し、死んでる!?」
「や、ヤバいぞ! 下に何かいる!」

 周囲で遊んでいた他の寮生達にも同じような異常事態が降りかかり、彼らは大混乱に陥った。

「に、逃げろ! 船まで…………ごぼぉっ!?」
「お、おい、ジム? うわぁっ!!」

 一目散にヨットに向かって逃げ泳いでいく寮生達が、次々と海中に引っ張り込まれて消えていく。その代わりに上がってくるのは大量の気泡混じりの赤い水だ。

「きゃああ!! も、もういや、助けてぇぇっ!!」
「逃げろ! 逃げろぉっ!!」

 増々パニックに陥った寮生達は必死でヨットまで泳ぐが、遂に誰一人船に到達する事無く海中に引きずり込まれて消えた。

「あ、あぁ……」

 サマンサは呆然とその状況を眺めていた。却ってその場から動かないでいた事で、海中にいる『何か』の注意を引かなかったらしい。


 そしてその状況を見ていたのは彼女だけではなかった。ヨット上にいたガイドと操縦士も異変を察知して、海面を指差してフランス語で何かを叫んでいた。ヨットの上にいる彼らは、サマンサからは見えない海中にいる『何か』の姿が見えたのかも知れない。サマンサは恐怖のあまり、海中に潜ってその『何か』を目視する事など思いもよらなかった。 

 そして彼らは……大慌てでヨットを動かし始めた。この場から逃げる気だ。まだ生き残っているサマンサを残して。

「そ、そんな……待って。待ってよ!」

 サマンサが必死で叫ぶが、ヨットは無情にも本土のある方角に向かって進み始める。そこでしかしサマンサは、目を疑うような現実離れした光景を目撃する事になる。


 進み始めていたヨットが……真下の海中から『何か』に突き上げられて大きく傾いだ。12人乗りの45フィートはあろうかという大型ヨットが。


 ヨットはそのまま持ち直す事が出来ずに転覆した。ガイド達が海に投げ出される。だがサマンサの目と意識は、先程ヨットを下から突き上げる際に一瞬だけ海上に姿を現した『ソレ』に釘付けとなっていた。

「嘘……嘘でしょ……」

 彼女にはこれが現実の出来事とは思えなかった。やがてガイド達も『ソレ』に食われたらしく、赤い水泡と共に海に消えた。


 そして……他に動くものが無くなったためか、『ソレ』がゆっくりと大きな波を立てながらサマンサの方へ向かってきた。海面から徐々に……背びれ(・・・)が突き出してくる。その大きさは彼女の知る常識からは外れたものであった。

「ふ……ふふ……あははは……」

 サマンサは乾いた笑い声を上げた。現実の出来事では無い。つまり……これは現実ではなく、夢なのだ。彼女は今、いつもの寮のベッドで寝ているのだ。昨日はオンラインゲームで随分夜更しをしてしまった。なのでこんな夢を見るのだ。

 早く目覚めないと。あのけたたましい目覚ましはまだ鳴らないのだろうか。サマンサは現実から逃避して笑い続けた。そして……すぐに静かになった。

 静寂のみが支配するそのサンゴ礁から、巨大な影がゆっくりと北に向かって泳ぎ去っていった……
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