Let It Be

文字数 1,959文字

就職して三度目の11月、私は早めの冬休みを、ロンドンで迎えた。

高校の演劇部で後輩だった三隅(みすみ)とは、細々と連絡を取っていた。
彼は母がイギリス人で、その伝手もあってロンドンで働いている。そんな三隅が通訳かねがね市内を案内してくれるというので「ものは試し」ということで、初めて国際線に乗ることになった。


バス停から少し歩いたところに小さな公園があった。

そこのベンチに座っているとき「やっぱりさ、イギリスの人ってみんなビートルズ好きなの?」と聞いてみた。
ロンドンの公園で尋ねるのは、どうにも違うような気もしたのだが。
「どうなんですかね?好きなんじゃないですか?あんまり気にしたことないかも。というか、ヒナ先輩、ロンドンに来て最初の質問がそれですか?ビートルズ好きでしたっけ?」
「うーん…そうだね…。違うんだけど、なんだろ、イチョウがそこにあるから?てか、イチョウってこっちにもあるんだね」
「これ、色はイチョウに似てますけど、違いますよ」
三隅はベンチの脇から、手のひら型の葉を拾い上げ、私の顔の前でひらひらとさせて見せた。


高校生の頃、授業中の私は、ときどき教室の窓から外を眺めていた。
特にこの時期は、少しだけ開いた窓の隙間からすーっと冷たい風が吹いて、いつも以上に視線が外に誘われる。

ふと遠くに目をやると、校門のほうのイチョウが見えた。
近づくと銀杏(ぎんなん)臭いが、こうして遠くから見ると、黄色く色づいた姿が誇らしげだ。

そこからまた黒板に視線を戻そうとする時、上の階のベランダに揺れる人影が見えた。
たしか、そこは生物室だ。授業中なのに、と思いつつ黒板に目を戻して、遅れていた分の板書をノートに写していく。


9月に高校生活最後の文化祭が終わり、演劇部を卒業した。
熱心に演劇をしていたわけでもないのに、こうして部活がなくなってみると、放課後の時間を持て余してしまう。
図書室で予備校で渡された問題集を開いてみたり、喫茶店で先輩からもらった参考書を読んでみたりするが、どうにも身が入らない。

今日はどこで過ごそうかと思いながら教室を出ると、ふと、昼間のイチョウと人影が目に浮かんだ。

「失礼しまーす」
生物室に入ると、カビのような、薬品のような、もわっとした臭いがした。
部屋の電気は消えていて、窓際にある熱帯魚の水槽のランプだけが、ぼんやりと光っている。

ベランダの窓を開けてみたが、そこには観葉植物の植木鉢が並んでいるだけで、誰もいなかった。
そのまま窓を閉めようとすると、トポトポトポという水槽の音に紛れて、遠くで小さく、悲しげな音楽が流れているような気がする。
ベランダから身を乗り出してみると、隣りのベランダから、うっすら音楽が聴こえてきた。そして、その音に乗るようにふわふわと煙が上っている。

隣りの生物準備室をノックすると、「はぁい!」と野太い声がした。
「失礼します」
「ああ、どした?」
声の主も、煙と音楽の主も、生物の山本先生だった。
何の悪びれもないように、太い指には煙草が挟まっている。
「音楽が聞こえたんで」
「ああ、これ、ごめんね」
先生は足元に置いてあったCDラジカセを、サンダルの先で指した。
「いや、全然いいんですけど、聞こえてきて」
「今日さ、11月29日、命日なんだよ、ジョージハリスンの」
寂しそうに煙草の灰を灰皿に落として、小さなため息をついた。「あ、知らない?ビートルズ」
「ビートルズは知ってますけど」
「ビートルズのギタリスト。もうカッコよくてねえ」
そう言ってから、また煙草を口元に運ぶ。先生が大柄なので、煙草が爪楊枝くらいに見えてしまう。
「先生、煙草って」
「ああ、秘密にしといてね。まだ誰にも言われてないから」
また先生がベランダに向かって煙を吐くと、部屋には燻した香りが広がった。

以来、たびたび放課後に生物室を訪れるようになっていた。

ある日、一緒に生物準備室に来ていた紗南(さな)が先生に尋ねたことがあった。
「先生、どうして先生になったんですか?」
「うーん」と、先生はしばらく考えた後、もったりと口を開いた。「最初は企業に勤めてたんだけど、なんか苦しくてねえ」
「今は?苦しくないんですか?」
「まあ。煙草でたまに()き込むくらい」と言って、にんまりと笑った。
しかし、先生の目はどこか遠くを眺めている。
「ほら、6時半だぞ、受験生は帰った帰った!」と、私と紗南は追い出された。


「ヒナ先輩、なんか考え事してます?」
「なんか、懐かしい感じがして」
「ああ!たしかに!ここ、ちょっと日本っぽいかもしれないです!」
「いや私、日本は全然懐かしくないから。40時間前くらいまでいたし」
三隅は「あ、そっか」と言いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「なんでか、秋って寂しい感じしますね」
「そだね」
「行きましょうかね」
二人でイチョウに似た葉をパリパリと踏みながら、駅へ向かった。

 
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