一話完結

文字数 1,993文字

 交通誘導の夜間勤務を終えた俺は、場末の小さな中華料理屋の暖簾をくぐった。昼にはまだ早いので、客は誰もいない。昭和の雰囲気そのままの店内を進み、カウンター席に座った。
 背を向けて立っていた店主が振り返り、カウンター越しにお冷を置いた。
「いらっしゃい。早野さん、今日は早いね」
「夜勤明けで来たんです」
「五十を過ぎて徹夜だなんて、大変だねえ」
「オヤジさんは七十でしょう。オヤジさんはその年で長時間立ち仕事をしてるんだから、オヤジさんほどじゃないですよ」
「ワシはこの商売長いからね、慣れちまったよ。で、今日は何にする?」
「日替わり定食」
 俺は外食をほとんどしない。それでも、この店には月に二、三度訪れている。特に美味いということではないが、安いので数年前から来店するようになった。この店で日替わり定食を食べることが俺のささやかな楽しみだ。
「はいよ」
 注文を聞いた店主は背を向け調理台へ行こうとしたが、すぐに止まって振り向いた。
「ちょっと待ってもらっていいかい?」
「構わないけど」
「済まないね」
 店主は申し訳なさそうにしながらも、壁に掛けられたテレビを熱心に見始めた。テレビの画面には若い女性が映っていて、【紀尾井坂ガールズの清宮綾美が結婚】というテロップが流れている。アイドルグループのメンバーの一人が結婚したらしい。
 アイドルに疎い俺でも、有名なアイドルグループなら名前くらい知っている。だが、俺は紀尾井坂ガールズというグループを知らないし、清宮綾美という名前も初めて聞いた。テレビに取り上げられるくらいだから、若者には人気があるのかもしれないが、年配の男が夢中になるような存在ではないのは確かだろう。ところが、店主は老人にもかかわらず食い入るように見ている。
 興味はないが、手持ち無沙汰なので店主と一緒にテレビを見ていると、郷愁のような不思議な感覚が湧き出してきた。店主も清宮綾美に同じように感じているのだろうか。
 画面がCMに変わり、店主は俺の方に顔を向けた。
「年甲斐もなく、って思ってるね。アイドルが好きって訳じゃないんだよ。あの子は特別なんだよね」
「あの子と知り合いなんですか?」
「いや、会ったこともないよ。孫娘があの子と同じ日に生まれててね、名前も同じなんだ。あの子を見てると、遠くにいる孫娘を見てる気分になるんだよね」
「それじゃ、お孫さんは綾美という名前なんですね」
 店主は首を横に振った。
「名前は綾乃だ」
「えっ、あのアイドルの名前は綾美ですよ」
「清宮綾美ってのは芸名だ。あの子の本名は宮田綾乃なのよ。本名の方と同じってことよ」
 俺は息を呑んだ。俺の一人娘の名は綾乃で、別れた妻の旧姓は宮田だ。娘は妻に引き取られ、宮田綾乃になった。しかし、娘だと決めつけるのは早い。同姓同名の可能性もある。
「お孫さんの誕生日はいつなんですか?」
「五月三十日だ。綾乃も二十五歳になったんだなあ。早いもんだ」
 娘と同じ誕生日だ。しかも、年齢も同じだ。間違いない、清宮綾美は俺の娘だ。芸能人になっているなんて思ってもいなかった。
 昔、俺は外資系の金融企業に勤めていて多額の収入を得ていた。夫婦仲も良く、娘は俺によくなついていた。何不自由もない幸せな生活が一変したのは、娘が五歳の時だった。俺は飲酒運転で人身事故を起こし、服役させられたのだ。会社を解雇され、遺族への賠償金で財産を失った。妻とも離婚した。離婚はしたくなかったが、妻から迫られ断れなかった。娘に会わないという条件も呑むしかなかった。刑務所から出所してからも、娘には会っていない。
 テレビの画面が披露宴の写真に変わった。華やかなドレスをまとった清宮綾美がシャンパングラスを持っている。
 記憶の中の綾乃と重なる。俺がワインを飲んでいる時、綾乃がワイングラスを持ち出して「綾ちゃんも飲む」とせがんだことがあった。子供に飲酒をさせられないので、「大人になったら、パパと一緒に飲もうね」と説得をして指切りをした。その時、綾乃は「絶対だよ。忘れたらダメだよ」と言っていた。
 俺は右手の小指をじっと見つめた。
 俺は事故を起こしてから酒を飲んでいない。飲酒したことで犠牲者を出し、様々な人に迷惑を掛けた。自分は酒を飲んではいけない人間なのだ。でも、今日だけは……。
「オヤジさん、ビールをください。それとコップを二つ」
「えっ、二つ?」
 店主は首を捻ったが、厨房に行き、すぐに戻って来た。目の前に、栓の開いたビール瓶と二つのコップが置かれた。二つのコップにビールを注ぎ、一つを店主に渡す。
「清宮綾美の結婚を祝して乾杯しませんか?」
「おや、早野さんは綾美ちゃんのファンだったのかい?」
「ええ、昔から日本一のファンですよ」
「人は見掛けによらないね」
 店主はコップを持ち上げた。
「乾杯!」
 俺はコップを店主が持つコップに合わせ、ビールを一気に飲み干した。

<終わり>
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