第1話

文字数 6,183文字

 君は、シュートを決める瞬間、唇を舐める。
 君は、相手をかわして走りを進めようとする時、瞳をずらす。
 君は、相手からボールを奪われた時、蔑むような目をしてボールを取り返しに行く。
 僕は、君がサッカーをしている時が好きだ。

〝君〟である水野くんは人気者だ。女の子のようにくりっとした瞳で甘いマスク。ふわふわの茶色の猫毛。身長は低いけれど、それが余計に人懐っこい彼の愛嬌を醸し出す。彼は運動神経が良く、所属するサッカー部では一年にしてレギュラーを勝ち取り、二年生である今も活躍している。
 そんな彼と、僕は同じクラス。僕は彼と一度も会話をしたことがない。隅っこで暮らす僕と違って君はクラスの中心で。君の周りには必ず人がいる。
 君と交わりたいと思ったことはない。ただ僕は、君がサッカーをしている瞬間を見られたら幸せだ。
 その特等席である、美術部室。幽霊部員しかいないこの部活は、毎日真面目に部室に来るのは僕と隣クラスの女子しかいない。その女子も自分の世界に没頭といった感じで、僕には目もくれなかった。顧問教諭も、生徒の作品を監督することが仕事であるはずなのに自らの作品に注力を注いでいて。誰もがみな自分の世界を作っていた。僕にとって、それは居心地がよかった。
 窓際。大きなキャンバスを置いて、絵の具も、パレットも、用意はしてみるけれど、僕は窓から校庭を覗いて彼を見る。ひたすら彼の一挙一動を逃さないように。
 彼に心を奪われたのも、この場所、この放課後だった。いつものように絵を描き、少し休息をとろうと校庭を見た。その時、パッと目に入ったのがシュートを決める水野くんだった。彼の髪は生きている。鮮やかにシュートを決める彼に伴うように、乱れる髪。唇を舐める動作。間違いなくゴールするだろうと確信をもった強い瞳。
 僕はそんな彼を見た時に、胸にぶわあっと何か熱いものが込み上げた。じわじわと身体を覆うように熱いマグマのような液体が侵食したのだ。それから僕は君がサッカーをする時を片時も目を離したくないと思った。

 夜の繁華街。僕は画材を買いに隣町まで来ていた。大きな画材屋が自分の住む町にはなく、多少遠いが、月に一度のペースで通っていた。
『まだ帰らないの?』母からメールが来ていた。今朝、画材屋に行くから遅くなると言ったのに。『今から帰る。先に食べていていいよ』と連絡をして、スマホをズボンのポケットに入れた。
 今夜は週に一度である、家族全員が揃う夕飯だった。父と母は共働きで、帰ってくる時間が二人とも違う。そのため、僕と妹だけの夕飯がほとんどだ。それを両親は気にしているのか、週に一度だけでも、と、家族団欒の時間を作った。まあ、僕は今週の団欒を壊してしまったのだけれど。
 それにしてもいつもこの街は人が多い。僕はマフラーに顔を埋め、街ゆく人をかわして駅までの歩みを進めた。その際に目の前を歩く人物に、パッと目がいく。驚くほど、僕の視界に入りこんだ人。多分それは毎日飽きるほど目に焼き付けているからだ。
 水野くんだった。
 僕と同じ学ランを着て、いつも身につけている白と黒のチェックのマフラーを首に巻いている。でも普段と違うのは隣に中年の男がいたこと。スーツを着ていて、ボタンがはちきれそうな小腹が出ている。親だろうか、なんて考えるのは違うとすぐにわかった。だって、水野くんはその中年の男の腕に手を絡めていたからだ。いつもと同じあの天真爛漫な笑顔で、細身の身体を男に寄せ付けていた。僕はその場から動けなかった。手に握られた画材屋の袋はおっこちてしまいそうなほど、僕の身体には力が入らない。そんな僕を水野くんは通り過ぎた。水野くんはこっちを見なかった。人が沢山いるのもあったし、気づいていないのかもしれない。いや、むしろ気づかないほうがいい。
 僕の心の中でこのことはそっとしまっておけばいい。

「何したら、あのこと言わないでくれる?」
 水野くんは僕の目の前であぐらをかいて座っている。美術部室にある木で作られた正方形の椅子。水野くんが使っている。一番使わないと思っていた彼がすぐそこで座っている。
「……何もしなくても言わないよ」
「信じられるか。無料が一番怖いってかーちゃんから聞かなかったかよ」
「……僕は言わない」
「だーから、今日初めて話したお前のこと信じられるわけないじゃん」
 彼は困ったように頭を掻きむしった。そうして溜息をついた後、僕を見て言った。
「……俺さ、お前がここからずっと見てたの知ってるよ」
「……え?」
 静寂が流れる。今日は職員会議だとかなんとかで、全ての部活は休みで。本来なら僕と水野くんはここにいてはいけないことで。でも顧問の不注意か、何故か美術室は開いていて。今こうして僕と水野くんは向き合っている。あの大きな瞳のなかに僕が捉えられている。水野くんの瞳に反射して映る、僕の、長ったらしい前髪から見える薄暗い目は醜い。
「毎日毎日ここからずーっと、俺のこと見てたろ」
 僕はなんと言っていいかわからず、とりあえず黙った。
「ふっ。なんだよ、黙るってことはやっぱ見てたんじゃん」
「……ごめん、なさい」
 浮かんだのは謝罪しかなかった。
「……こーしてやろうか?」
 水野くんは手で丸を作ると、その手を自分の口に寄せて上下に動かした。それはあまりにも僕にとって気持ちの悪い動きだった。僕は咄嗟に腕で顔を覆った。
「……やめてくれよ」
「お前、どーていだろ」
 そう言って水野くんはゲラゲラと笑い声をあげた。
「いいよ。お前のどーてい、俺がもらってやる」
 覆っていた僕の腕をどかし、僕の顔に水野くんは近づいてくる。キスをされるとすぐにわかって、僕は椅子から立ち上がった。
「や、やめてくれって言ってるだろ」
 自分でも思ってないほどの大きな声が出た。水野くんはそんな僕を不思議そうな表情で見ると、「好きなやつとできんだよ。それも初体験。うれしくねーの?」
「……僕は君が、サッカーをしていたら十分なんだ」
「はぁ?」
「ほんとにそれだけなんだ」
 僕の瞳からは涙が流れていたようだった。頬に伝う水でそれがわかった。泣いたのはあの日の時ぶりで、僕はやっと君とあの人を重ねていたんだと気づいた。

 小学生の頃、父の仕事で僕の家はいわゆる転勤族といわれるものだった。母はそんな父のために仕事を辞めて、僕と二個下の妹はただ連れ回されて。中学になって今の場所に落ち着くことになり、僕はほっとした。
 けれど、僕が人から疎まれるのは変わらないことだった。
 内気で運動神経の悪い僕は小学生のヒエラルキーでは最底辺で、よく馬鹿にされた。中学生になって背が伸びても、逆に何もできないでくのぼうだと、男子たちに言われた。女子からはなんて名前だっけなんて、こそりと話されているのを聞いたりもした。
 そんなどこの場所に行っても自分の居場所を確立できなかった僕。そのことで自分の存在を自分すらも空気のように思うようになった。
 けれど、一度だけ、僕を空気だと思わない人がいた。
小学五年生の時。数ヶ月だけいた学校で、いつものように僕を馬鹿にする男の子たちを「しょーもな」と、言い放った人がいた。同クラスのカツヤくんだった。カツヤくんは運動神経抜群、スポーツ大好き。特にサッカーが好きだった。二〇分休みだろうとすぐ校庭に出てサッカーをする。みんなに囲まれている男の子だった。でも、彼だけは僕を馬鹿にしなかった。その日から夏休みに入り、僕は転校してその後どうなったか知らない。けれど、僕はあの日カツヤくんがとてつもなく輝いてみえた。
「で、そいつと俺を重ねてんの?」
 水野くんの声が背後から聞こえてくる。ベッドに寝転んでいる彼は、今どこを見ているのだろう。僕は床に座り、彼から反対を向いて話していた。
「たぶん」
「それこそしょーもないわ」
 溜息が聞こえた。
「そいつと俺の共通点サッカーしかねーじゃん」
「みんなに囲まれてる」
「俺はちげーし」
 不貞腐れたような声だった。
「いつも君の周りには人がいるよ」
「俺が呼んでんだ。今だってそーだろ」
「……今はね」
 部室で話した日、念のためと無理やり連絡先を交換させられた。そうしてあの日から一週間ほど経っただろうか。もう二二時を回ろうとしているのに、僕は彼に呼び出されたホテルにいる。訪れたこともないし、今後訪れることもなさそうな高級ビジネスホテルだった。
「てかなんで床なわけ? ベッドこいよ」
「いいよ。だってそのベッド使ったんでしょ」
「そりゃここしか使うとこねーよ」
「ま、たまに椅子とか床とか、立ったりとかあるけどさ」なんて、水野くんは言う。僕はそれを聞いて立ち上がった。
「大丈夫、今日は床使ってないから」
 ケラケラとおどけた顔を見せる水野くんが見えた。彼はいつの間にか起き上がって、ベッドの中央であぐらをかいて座っていた。
ズボンに入れていたスマホが振動する。『連絡ないけど、どこいるの? みんな心配してる』母からの連絡だった。僕はそれに対して、どう返そうかと悩む。
「なんて顔してんだ」
「……え?」
「いや、お前すっごい眉間にしわ寄ってたけど」
 水野くんは僕の真似をしているのか、目を細めてしわを作っていた。僕はその姿を見て少し笑う。
「お前、笑えるんじゃん」
「……は?」
 水野くんはベッドから降りると、僕に近づいて来る。僕はその度後ろへ一歩下がる。そうすると、水野くんは一歩踏み出す。いつの間にか、僕の背中は壁とぴったりくっついていた。そうして、僕の顔は水野くんの顔にくっつきそうだった。
「なに……」
「お前の顔、もっと見たいと思って」
 水野くんは僕の前髪を撫でるように触った。僕より一〇センチ以上も身長が低いだろうに、優位な表情を浮かべていた。下を見れば、彼のつま先は立って伸び上がっている。
「……こうやっていつも君はやってるの」
「どーだろうね」
 水野くんのまん丸とした瞳に吸い込まれそうになりながら、僕は家族みんなでの夕食が嫌だったんだと気づいた。だから、いつも逃げてばっかりで僕が壊してばかりいた。でも、今日は逃げるためにきたのか、水野くんに会いにきたのかわからない。とりあえず、母親へ連絡はしないでいい。
 正気が失われかけているなか、唇を寄せようとしてくる水野くんを察知して、僕は自分の口を手で覆った。
「なんだよ」
「僕はしないと言った」
「じゃあなんだよこれは」
 彼は僕の局部をズボン越しに触った。その瞬間、僕は彼を突き飛ばした。大きな音を立てて彼は床に転がる。「いったあ」と言葉を溢していた。
「なにも突き飛ばすまでしなくていーだろ」
「……ごめん」
 僕はしゃがんで倒れ込む彼に近づく。
「……ごめん」
「ごめん」と何度も繰り返す。突き飛ばしたことも、膨らんでいるあれも、全てが申し訳なかった。だって、結局僕は君を犯すあのおじさんたちと同じだと証明しているから。僕は彼なのか、僕なのか、誰かに向かってひたすら「ごめんなさい」と謝罪をした。そうしていると、いきなり床に突き飛ばされる。
「もー、うるせえわ」
 水野くんは、僕を見下ろして言った。
「うるせえ。黙れ」
「……ごめん」
 僕は黙って起き上がる。
「お前ただでかいだけだと思ってたけど、意外と力あるのな」
「……そうなのかな。肩幅はでかいってよく言われる」
「それは力関係ねーから」
「帰ろ」と、水野くんは立ち上がった。
 その日から、水野くんは僕をホテルに呼び出すようになった。毎回同じ高級ビジネスホテルだった。同じおじさんの時に僕を呼び出しているようだった。
「あのおっさんは結婚してるからすぐ帰んだよ。でも太っ腹だから宿泊でとってんの。だから俺はいつも残るんだ。このまま泊まる日もある」
「そう」
 僕は彼の話をただ聞いた。彼が話さないときは僕も何も言わなかったし、彼が尋ねてきたときは僕の話をした。
 着信を知らせる音が鳴る。僕の携帯ではなく、水野くんのだった。
「うわ、リナだ」
 リナは、彼の恋人だった。毎日お昼休みにはクラスまで、弁当を二つ持って彼を迎えに来る。茶髪で長い髪で、毛先だけくるんと少しだけ巻いて。大きな瞳と、小さな唇。どこかの読者モデルにでもいそうな顔をしていた。
「あいつすぐ電話かけてくるんだよ、めんどくせーよな」
「出なよ」
「ん」
 文句を言いながらも、水野くんは電話に出る。「あー、もしもし?」なんて、ちょっとぶっきらぼうな声で。
「いや、今タイセイの家なんだよ。浮気じゃないって。前に、俺家帰るの嫌っての話したじゃん、そーそー。だからいさせてもらってんの。頻度多すぎるって言われても……」
 リナの声は聞こえなかった。ただ水野くんの声が部屋に響いていた。友人たちといる時のおどけた雰囲気ではなく、柔らかみのある話し方だった。本当に付き合っているんだなと思った。
 暫く話した後、電話は終わったようだった。
「はぁー、ほんと浮気浮気めんどくせえ」
「よく隠し通せてるね」
「あー、そんなもん適当に言っとけばどーにかなるんだよ」
 君の出てくる言葉はどこまでが適当で、どこまでが本気なのだろう。僕には興味がないからどうでもいいけれど。
「お前はさ、いいよな」
「え?」
「しつこくないから。あ、でもサッカーか。お前、俺がサッカーしてないとダメなんだろ」
「ダメまでは言わないけど……。別に君がやめたいならやめてくれていいよ」
「なんなのお前」
 背を向けているから、彼がどんな表情をしているかはわからないけれど、きっと疑問を浮かべた顔をしているんだろうと思った。
 僕は君に何も求めない。求めたくない。少し望むならサッカーをしているところが見えたらいい。と言っている時点で、もう何かを求めているんだろうけど。そんな自分を嫌悪してしまうくらいには、彼に僕は何も求めたくなかった。
 でもその芯がまだ出来上がっていなくて、僕のなかでもあやふやで、まだゆらゆらと蠢いているのは感じていた。それも嫌だった。
「もう僕と関わるのやめたほうがいいよ」
「なに急に」
「だって、多分きっと僕が一番君の周りの中で気持ち悪い」
「そんなの今に始まったことじゃねーし」
「……でも多分僕が一番しつこいんだ」
 僕はうずくまった。そんな僕の頭の上に。つむじのあたりに、あたたかい何かがのる。彼の手がのったのだろう。
「上等だよ。俺はさ、誰かから求められてたいんだ。だからよ、お前が一番最後まで残ってくれ」
「はあ?」
 僕は振り向いた。するとすぐ側に彼の顔があってびっくりする。けれど、どちらも避けることはしなかった。
「……僕は僕自身が気持ち悪い。サッカーをしている君が好きなはずで。サッカーをしてる君を見れば満足だった。でも、君に触れたい、君を知りたいと思う感情もあって。君に触れるあのおじさんたちと同じなんだ」
「おう、それが普通だ」
 水野くんは優しい瞳を向けて頷いた。リナと話している時とはまた違う柔らかさだった。
「でも、でも、僕はやらない。僕は君が好きだ。だからしないんだ。気持ち悪いだろ」
 またいつの間にか涙が出ていたようだった。こんなにもスパンが短く泣いたことはない。というより、泣くことがそうそうない。小学生の時にはもう涙は枯れきっていたはずなのに。彼は僕の頬を伝う水を指の腹で拭うと、
「しょーもな」
 と、言った。
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