一、大型バス転落事故

文字数 2,447文字

 令和○年、六月某日。
 一台の観光バスが、静かな山道を上っていた。
 とある高校三年のクラスが修学旅行のために利用している大型のバス。
 三学年のクラスは全部で五つあるためバスも五台走っているが、他の四台に関しては既に先を行っていた。このバスは山道に入る手前で取った休憩後の出発に数分の時間を要したため、少し遅れている。
 しかし焦らず、運転手は慣れた様子でハンドルを握っていた。
 向かうのは、山頂に位置する宿泊施設。
 山道といえど道路はきれいに舗装され、真新しいガードレールが崖下への転落を防ぐべく先へと続いている。
 しかし道幅は、対向車とのすれ違いが出来ないほどしかない。 

「…………」
 騒がしいバスの中、後ろから二番目の二席を陣取る男子生徒──草画(そうが)(つぐみ)
 ブリーチで明るく色を抜いたショートヘアに、ピアス、着崩した制服。
 小型のヘッドホンを耳に着けて、視線は窓の外を眺めている。

「おい、つぐ! つーぐ!」
 最後部のベンチシートから、別の男子生徒が楽しそうな表情で鶫のあだ名を呼んだ。
 しかし生徒たちの雑談で騒がしい車内で、さらにヘッドホンで何かを聴いているらしい当人には聞こえていない様子。気付いた素振りもなく、相変わらず流れる風景に視線を向けている。
 いくら呼んでも反応しない鶫にやがて痺れを切らした男子生徒は、席を立って手を伸ばした。
「おい、つぐってば!」
 語尾を強めると共に、鶫の両耳を塞いでいたヘッドホンを掴んで取り上げる。

 鶫は反射的に振り返って相手を鬼の形相で睨み付けながら舌打ちをし、低い唸り声を洩らした。
「……おい、イカ野郎。返せ」
「その呼び方禁止!!」
「っせぇな。早く返せよッ……」
 それまで楽しそうだった相手が呼び方で喚くも無視し、身を翻すように間の通路へ立つと容赦なく殴り掛かろうとしたが、その瞬間大きなクラクションが鼓膜を揺さぶり身体が横へと傾きそうになって、すかさず両足を踏ん張った。
 女子たちの悲鳴が車内に響き渡る中で、重たい金属同士が激しく触れ合う衝突音と、それに比例する大きな衝撃が靴の底を通じて鶫の身体へと伝わる。

 バスが、何故か大きく崖の方へと猛スピードで進路を変えて、その勢いを保ったままガードレールの外へ飛び出していく。

 車内は当然の如く混乱に満ちていた。
 しかし、通路に立って後部座席を向いていた鶫の意識は、そんな車内の状況よりも不意に重力が背面に働いたことへ全て注がれ、身体のバランスを崩す前に後部扉付近の手摺を握って、優れた平衡感覚で即座に状況を把握する。

 ──落ちてる!?

 バスは、運転席側を下に九〇度向きを変えて、高い崖から落下している。それは窓の外を流れる景色を見ても明らかだった。
「うああああ!!!」
 鶫のすぐ後ろから聞こえた悲鳴のような叫び声は、彼のヘッドホンを奪った男子生徒のものだった。最後部座席の真ん中に座っていた彼は、掴むものも身体を支えるものもなく重力のまま落下しそうに身体が浮き上がる。
「あぶねっ……」
 鶫がすかさず空いている手で男子生徒の腕を掴み、足場となる背凭れへ引き揚げた。
「っ……つ、つぐ……」
 突如襲い掛かる落下の感覚を受けてだろうか、恐怖で引き攣った表情と震えた声。先程とは打って変わって弱々しく呼び掛けた相手に、鶫は眉を寄せて真剣な眼差しで端的に告げる。
「手摺りに掴まれ。絶対離すなよ」
 しっかりとした口調に相手は小さく何度も頷き、両手で手摺を捕まえた。
 落下する感覚は、普段から高く飛ぶトランポリンや何度も回転を繰り返してからそのまま着地をする鉄棒など、体操部で幾度となく経験している鶫にとっては慣れたものだが、多くの生徒には恐怖らしい。
 それは今しがた助けた男子生徒──依月(いづき)甲斐(かい)も同じようで、手足が震えている。
 友人でもある相手のそんな様子を見て、鶫が声を掛けようとした時だった。
 まるで地響きのような衝突音を響かせてバスのフロントガラスが地面に叩き付けられ、乗っていた人間が車体前方へと落とされる。
「っ……」
 感じたことのない衝撃に、流石の鶫も手摺と足元にあるヘッドレストをそれぞれ片手ずつ、強く掴んで落とされないようにギリギリのところでバランスをとり続ける。 

 顔から地にめり込んで縦になった車体。
 しかし重たい鉄の塊はバランスを取り切れず、今度はゆっくりと天井が地に向かって倒れていく。
 数秒前まで悲鳴の嵐だった車内は静まり返っていた。
 目の前の誰もが、意識を手放しでいるようにさえ感じる。

「………」
 車体の傾きを把握して重心を移動しようとしたところで、肩に重みを感じて視線を向けた。隣で手摺にしがみついていたはずの依月が寄り掛かってきている。
 離れろ。と言いかけて、直ぐに飲み込んだ。
 何故なら、相手は手摺から両手が離れて鶫へと身を預けるように脱力し、気絶している。恐らく、衝突の衝撃でどこかに頭を打ち付けたのかも知れない。
 このまま自分が背凭れから動いたら、依月は鶫という支えを失うこととなり、この場から崩れ落ちて大怪我を負うかも知れない。
 そう判断した鶫は、動けなかった。
「……まじか。どうする……」
 友人を見放すことは出来ない。
 このまま、倒れる衝撃から自分と相手の二人を守るために片手で手摺を握り締め、依月の脇腹を抱えて離さないよう力を込める。
 そうして、車体の傾きに合わせて両足を天井へと移動しながら次なる衝撃を覚悟した。

 間もなくして、バスの天面が地へと打ち付けられる。

 経験したことのない衝撃が、友人を抱えた鶫の身体を容赦なく叩きつけた。
 その躍動は想像していたよりも遥かに大きく、体幹を維持しきれず倒れた先は運悪く扉の強化ガラス。側頭部を強く打ち付けたことにより、鶫は意識を手放してしまった。

 人通りの少ない崖下に転がった鉄の塊は、その後、一時間経っても連絡が取れず捜索を始めていた学校関係者と宿泊施設の従業員によって煌々と燃える火だるま状態で見つかり、すぐさま警察に通報された。
 
 
 
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