ペンギンギン

文字数 1,878文字

 世界で最も過酷な子育てをする鳥、皇帝ペンギン。これ以上ない零下の氷原で卵が生まれると、オスは六十五日間、氷点下の吹雪の中、じっと立ち尽くし、何も食わず卵を温める。ヒナが生まれた後も、オスが食道から分泌物、ペンギンミルクを出して、ヒナを育てる。托卵から育児をする間の百日以上、オスは何も食べない。その間に体重は半分近くになる。一方のメスは、生まれくるヒナのために、吹雪の氷原を百キロ以上歩き、二ヶ月半ほど、海に潜り採食に費やす。腹にしこたまオキアミなどの食糧を溜め込むと、百キロの雪原を渡り、子供と旦那の元に戻る。そこで子育て交代だが、オスには残業がある。海まで百キロ以上歩いて、採食しないとならない。再度交代の子育てのためのエネルギー補給と、食糧を腹に溜め込み、それをヒナに食わすのだ。しかし、寒さと飢えで体力は落ち、満身創痍で海に向かう途中、オスは過労死することも多い。
 「せめて、羽でも生えてれば、飛んで海まで行けるのに。」
 「飛べないからペンギンなのよ。」
 「だったら、飛びたいって念じる力で羽が生えればいいね。」
 「馬鹿なこと言ってないで、今日は太郎の寝かしつけお願いします。おやすみなさい。」
 蛍光灯の光は平たいし、注意喚起は無駄だった。こいつは専業主婦ではないが、産休をもらっている。一日中、赤ちゃんの面倒をみるのは仕事より大変だというが、俺は会社で仕事して帰ってきて、晩酌なしで、太郎の寝かしつけを週に二回することになっている。皇帝ペンギンと一緒で、オスには残業がある。子持ちの男は働き過ぎになる。
 「おーよしよし、眠れないのかい?困ったもんだね。」
 生まれたばかりの赤ちゃんに、親の都合なんて関係ない。だから、泣きたい時に泣くだろうし、出したい時に排泄する。腹が減ったら泣き喚く。穏やかにあやしているが、心の奥で怖い自分が暴れ出そうとする。
 黙れクソガキ!床に叩きつけてやる!
 薄暗くした部屋、ベビーベッドが視界の片隅に、何かの骨のように居座っている。そんな静かなところで、物騒で残酷な映像が自分の中に流れ、ゾッとする。しかし、声は穏やかに、本当に穏やかに、太郎を恐れさせないように、明るい声を出すんだ。しかし、無知な生き物、赤ちゃんは、俺の殺意に気がついているのか、世の中を引き裂かんばかりに泣き声をあげる。
 「ちょっと、静かにさせなさいよ!」
 隣の部屋からヒステリックな魔王の声がくぐもって聞こえる。昼間の鬱積だろうね。まあ、これが一日中なら、そりゃ、そうなる。一晩でもぐっすり寝たいだろうからね。だから何も言い返さない。それに意味がないから。
 皇帝ペンギンは文句言わないんだろうな。だから胸張って皇帝みたいなんだろう。それに比べて、俺なんて、薄暗い畳の部屋で、背中丸めて、隣のあいつや、腕の中のこいつに怯えてる。とにかく静かにしてくれって念じるばかり。本当に皇帝は偉いよ。神様も翼ぐらいつけてやりゃあいいのにね。たらふく蓄えた嫁がよちよち帰ってきたら、翼を広げて吹雪の中を舞い上がる。真っ白な氷原が目下に広がる。冷たい空気を切り開き、果ての海までひとっ飛び。その時、大勢の皇帝が飛び立った!(皇帝って一人じゃないんだね。)
 いつの間にか、太郎を抱えて椅子で眠っていた。なんか白い毛布がかかっているのか、とても暖かい。上等な毛布だろうけど、こんなの家にあったっけ?そっと触ると、艶やかで、繊維が一方向に伸びている。これ、羽毛だ。裸の羽毛の毛布って、おしゃれだね。どこで買ったんだろう?立ち上がるとずり落ちつはずの毛布が体についてきた。感覚が理解させたが、それは勝手に畳まれて、背中の方に消えてった・・・
 はー?翼が生えてんじゃん!
 寝込んだ太郎をベットに置いて自分の背中をさすると、不純物がない艶やかな感触。精巧な折り畳み傘のように小さく背中に畳まれている。窓を見るとすっかり朝だった。ベランダにそっと駆け寄り、ヒンヤリとした欄干に手をかける。そこには地上二十メートルの風が吹き抜ける。
翼を手に入れたら、そりゃ、飛んでみたくなるだろう。さあ、翼を広げよう!
 ベランダは俺の翼でいっぱいになった。見下ろすと、そろそろ早い通勤族が駅を目指して歩いている姿が見えた。それはまるで海を目指すペンギンの集団に見えた。
 ズルはよそう。
 そう思ったら翼が瞬時に畳まれた。
(ハラヘッタ)
(太郎にミルクよろしく)
 頭の中に声が聞こえた。なんか知らんが、ついでに要らん念力を手に入れたみたいだ。おそらく皇帝ペンギンもこの手の念力、持っているんだろうな。了
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