第10話 弓を引く者、扉を叩く者

文字数 9,481文字

 光の見えない暗闇を漂う僕に、どこからか優しい声が聞こえて来た。
「マラク……マラク……」

(ここは夢の中かな……誰だろう? 聞き覚えのある、女の子の可愛らしい声)

 僕はそっと目を開けてみた。懐かしい顔。記憶の引き出しを探れば……思い出せる。

(ええと……誰だっけ? ……確か……クレアって、僕が呼んだ子かな……)
 
「マラク。あなた、だいじょうぶ?」

 僕は覚醒したようだ。体は動くし。目も見える。
「あ……クレア? ……ここは?」
「たぶんフランクよ」
「フランク? でも、僕たちは違うところにいたような」
「にほん、から戻ったのよ」
「戻った……?」

 それで、僕はようやく事態が呑み込めた。
 僕は横たわっていた地面から起き上がった。そこに、中腰で僕をのぞき込むクレアの姿があった。

「日本で……クレアのお姉さんと格闘してた橋から落ちた記憶があるけれど」
「そうよ。私たち、間違いなく落ちたのよ。……でも目覚めたら、ここにいたの」
「ここは?」
「私たちが逃げ出した、あの領主館の近くか、それとも別の場所よ」
「昼間だよね、いま」
 現実を再確認しようと、僕は空や辺りを見回した。先ほどの『あきはばら』の喧騒はない。
 周りは木々の緑が連なり、自然の香りだけが鼻に届く。
 この静けさは懐かしい。でもざわめきが無いのは不思議な感じだ。

「そうよ。私が、にほん、で買った『とけい』を見ると、いま『ごごにじにじゅうにふん』よ」
「だとすると、『あきはばら』にいた昼間からほとんど同じ流れで、フランクに戻ったのかな」
「そうね。私たちは、にほん、にいたことは間違いないわ。『とけい』も『うえすとばっぐ』もあるわ。
いまでも『すにーかー』は、しっかりと履いてるし」
クレアは『うでどけい』や『うえすとばっぐ』、それに足の『すにーかー』を僕に見せた。

「クレア。重要なのは、いま何年何月何日なのか、だよ」
 僕は、フランクに戻ったとしても、いまいる時の流れの位置が気になって仕方ない。

「そうよね。私たちは1322年10月22日にいるのか、それとも別の日なのか」
「僕たちが橋から落ちたときの日本は10月30日だったから、同じ日付かも」
「もしそうなら、私たちが存在していない期間があるわね」
「これから誰かに出会えば、いまがいつなのか、わかるよ」
「そうね。ここから歩いて移動したほうがいいわ」

 クレアは立ち上がり、僕は彼女の右肩に飛び乗った。
 クレアが歩き始めると、再び、あの汚物の臭いがどこからともなく漂ってきた。間違いなくフランクだ。
 四つの車輪。板金の箱が激しく動いていた『あきはばら』が、妙に懐かしく感じる。
 いまヒトに出会わない。日本はヒトが多すぎた。でも活気はあった。僕は身勝手なのかもしれない。

 少し歩いたところで、前方から近づく二人の姿が見えた。どうやら修道女らしい。
 
(それにしても修道女によく出会うなぁ。フランクだと)

 二人がかなり近づいて、相手の姿を確認できると、クレアは突然、身構えた。
 一人の修道女はクレアそっくりだった。

(誰だ? クレア……のわけ、ないよ。クレアのお姉さん?)

「レア。あなた、ここで何してるの?」
 クレア似の修道女からの言葉で、クレアの双子のお姉さんと僕は確認できた。

「……レティ? レティよね」
「それがどうしたのよ。前から言ってるけど、あなた、いいかげん私の名前を短く言うのやめてほしいわ」
「慣れてるでしょ」
「慣れるわけないわ! あなたくらいよ。私を『レティ』と言うのは。みんな『レティシア』と呼ぶわ」
「そうかしら」
「そうよ。前に偉そうな女が私を馬鹿にして『レット』と言ったので、とっちめてやったわ」
「まあ、それは大変ね」

 レティは、クレアの『うえすとばっぐ』と『すにーかー』に気づいた。
「レア。あなた、変な袋を腰に結んでるようだけど。それに見たことがない靴も履いてるわ」
「ああ、これね。これは、私が出かけたところで手に入れた、お土産よ」
「お土産?」
「そうよ。殿方から、ね」
「あなた、私の知らない誰かと付き合ってるの?」
「それは、秘密よ」

 レティは、訝しげな目でクレアを見たが、隣の若い修道女は二人の話に関心はなさそうだ。
 僕は不思議な感じだ。ついさっきまで、クレアと格闘していたレティとは、まるで別人だ。
 それに、クレアのお姉さんが修道女だったのも驚きだ。あのメイド姿からは想像もできない。

「レア。あなた、今夜、領主館へ行くんでしょ?」
「今夜?」
「何を驚いてるのよ。修道院長から修道服借りて、いま着てるじゃないの」

 すぐにクレアは僕を見た。僕は何も言えなかった。

(確か、今夜、って言ったぞ。いま1322年10月22日だ。それに、僕がクレアに出会う前じゃないか)

「レア。あなた、右肩にフクロウ乗せてるけれど、使い魔なら、妖術使いと噂されるわよ」
「使い魔ではないわ。私の友人よ」
「面白いこと言うわね……まあ、いいわ。それでは今夜のお仕事、しっかりと、ね」

 レティはクレアに微笑んだ後、もう一人の修道女と共に、僕たちが来た道を進んでいった。

「マラク。レティの言ったこと、聞いた? 私、信じられないわ」
「そうだよね。僕がクレアと出会う前に戻ったらしい」
「あり得ないわ。あなたと出会ったのは夜よ。いまは私、自分の家にいるはずよ」
「僕もだよ、クレア。記憶では、僕もトロワの家々をのぞいてたころ」
「もしかして、この瞬間に私、二人存在するの?」
「その可能性は充分あるね」
「気味が悪いわ」
「ここでクレアのお姉さんに出会った。さっきまで争ってた彼女ではない、別人だよ」
「別人なら……いまレティも二人いるの?」
「すぐ結論出すのは……そうだ。今夜、領主館へ行くのは、どう?」
「行くの?」
「うん。行って、クレアと僕がもう一人存在するか、確認しようよ」
「……怖い感じがするけど……あなたの提案に従うわ」
「それまで、ここで…… クレア。日本から飲み物や食べ物、何か持ってきた?」
「ユノからお菓子と、私が『あきはばら』で買った、緑茶ね」
「『りょくちゃ』って?」
「緑色の茶葉……かしら。私もよくわからないわ」

 クレアは『うえすとばっぐ』から、それを出して僕に見せた。
 僕は『うえすとばっぐ』に入れてあるモノが気になったので、訊いてみた。

「クレア。その布袋に何が入ってるの?」
「タクミとユノが渡してくれたモノ。体の具合が悪いときに使う薬や、ケガの治療道具と教えてくれたわ。
それと、フランクに無い、女の子用の下着や、月のもの、に使うモノ」
「『つきのもの』って?」
「女の子が月に一回、体に不調が出ることよ」
「そうなんだ」
 しまった、と気づいた僕は、知らないふり、で誤魔化した。

「それ以外は『みにはぶらし』『はみがきざい』『みみかき』『つめきり』『けぬき』『しょうどくえき』
『きゅうきゅうばんそうこう』『ほうたい』『めんぼう』『えるいいでぃかいちゅうでんとう』『でんち』
『とらべるせっと』『いぐすり』『ずつうやく』『しつうやく』『かぜぐすり』『たいおんけい』『ふえ』
『かいろ』『みにそうぷ』『みにしゃんぷう』『ぐんて、てぶくろ』『はんどたおる』『ふぇいすたおる』
『だっしめん』『ぽんちょ』『ますく』『さいほうせっと』『あいしいれこうだあ』『さいるいすぷれい』
『かったー』『かがみ』『りっぷくりうむ』『めぐすり』『ぽけっとてぃっしゅ』……まあ、こんな感じ」

(凄いな。ソノダタクミは、クレアがフランクに戻ることを、事前に察知してたみたいだ)

「二度と日本へ戻らなければ、貴重なモノと言えるね」
「戻らないと思う?」
「戻ることになるよ」
「どうして?」
「『あきはばら』の橋でクレアのお姉さんは『私より前に来てる』と言ってた」
「私たちが、にほん、に行ったのは10月。レティは9月でしょ。変だわ」
「考えられることは、これから再びクレアは日本へ行くんじゃないかな」
「また行くの?」
「たぶん」

 クレアは少し嫌な顔をした。無理もない。帰って、ホッとしたばかりで、また難題だ。

「ともかく、夜まで待とうよ」
「そうね」

 静かに待機、と考えてた僕に、突然クレアは、鍛冶屋に行きたい、と言い出した。
「短剣の注文かい?」
 僕は、フランクに戻れば、クレアは護身用に剣が必要なんだ、とすぐに感じた。
「まあ、それもあるけど……」
 クレアは『うえすとばっぐ』から取り出した、小さな袋を僕に見せた。
「これはユノから贈られた『さいふ』よ」
「『さいふ』って?」
「貨幣を入れる袋だけど。いまここに金貨2枚、銀貨4枚あるの。他には、にほん、の貨幣ね」
「うん」
「私、フランクで金貨や銀貨を分けて保管してるの。自宅以外は鍛冶屋と両替商、あと秘密の場所二つ」
「五か所に?」
「そう。手持ちを補充したいから、鍛冶屋に行こうと思うんだけど」
「日本へ行ったときは、どれくらいの金貨や銀貨、持ってたの?」
「金貨7枚に銀貨15枚よ。そのうち金貨4枚と銀貨1枚はタクミに。金貨1枚と銀貨10枚はユノに渡したわ」
「いつも、たくさんの貨幣を持ってるの?」
「あの日は、商人に小さな本を一冊売って、金貨7枚と銀貨5枚を受け取って、そのまま袋に入れてたの」
「日本へ行くことになって、それが役に立ったんだね」
「そうも言えるけど」

 僕は、領主館の問題を決着させてからの方がいい、とクレアに進言した。
「クレアは二人いるか、を見極めてから、がいいよ。どこかでもう一人のクレアと出くわしたら、
状況がややこしくなるよ」
「絶対に起こってほしくない話ね。そのとき、私はもう一人の私に、何を言えばいいのかしら」
「僕も同じ。僕が他にいるなんて考えられない」

 自分がもう一人、とは想像すらできない。双子の兄弟姉妹がいなければ、誰でも恐怖だけだろう。
 
 結局、この場で夜が来るのを待つことになった。
 人を待たせている場合、ときの流れは速く、待つときは遅く感じるものだ。
 途中でクレアは用足しで森の中に入ったが、それ以外は僕と、日本やレティの話題でときを過ごした。
 僕も数回飛び立って、水を飲み、少し食べ物を得て、その後で周りの状況を観察に出かけたりした。
 幸いなことに、もう一人の僕に遭遇しなかった。クレアも同じだったらしい。


 夕暮れが近づき、クレアと僕は行動を始めた。
 領主館への道は、事前に僕が調べておいたから、歩く向きを決めるのは、すんなりといった。
 狼が出現したら、という懸念はあったが、クレアは『手足に板金と革を巻いてるし、短剣の代用で
にほん、で手に入れた小さい刃を使うわ』と言った。
 『小さい刃』とは、紙を切る『かったー』のことだった。それを見せてもらった。

(クレアはいつでも抜かりなく準備してる。日本では短剣を買えなかったからね)

 領主館までの道すがら、誰かに見られたら、と思ったものの、すれ違う人物はいなかった。
 ただ、道端に、打ち捨てられたような豚と羊を見かけた。

「ヒトにとって、貴重なモノでないの?」
 それを見ながら、僕はクレアに問いかけた。
「死んだら、すぐ捌かないと、お腹で溜まる臭気が肉につくのよ」
「ああ、そうか」

(クレアは肉屋で働いた経験、あるのかな。よく知ってる)

 陽が沈むと、辺りは真っ暗だ。夜でも昼間のようだった日本を僕は思い出す。

(700年先。日本では夜遅くまで騒がしかった。もうフランクは静まりかえってる)

 鳥の声、虫の音は変わらず元気だ。そして、クレアはまるで目が見えるように、歩を進めてる。

(松明もないのに、クレアは何で気にせず、前へ前へと、歩けるんだろう?)

 僕の「新しい主人」は、不思議な能力が多いのかもしれない。


 遠くで雷鳴が響いた。どうやら、僕がクレアに初めて会ったとき、そのころが、すぐのようだ。
 僕は、これから雨が降るよ、とクレアに伝えた。
 立ち止まって、クレアは『うえすとばっぐ』から、ひらひらと動くような透き通った『ぽんちょ』を
取り出し、それを羽織った。

(いろいろと便利なモノがあるよ、日本には)

 クレアは『うでどけい』を見た。この『とけい』は水がかかっても動く、優れモノらしい。
「いま『ごごしちじ』よ」
「どうなんだろう。もう一人の僕とクレアは、すでに領主館へ着いてるのかな」
「正確な時の流れは領主館でわからなかったけど、だいたい、そのころだと思うわ」
「急いだほうがいいね。風通しの窓からもう一人のクレアが出てくるか、領主館の外で僕たちが正確に
確認できるよう、そこで待たないと」
「そうね」

 クレアは急ぎ足になり、やがて追いかけてくるように、雨も降り出した。
 もちろん僕は雨に濡れたけれど、クレアからのいたわりの言葉で、元気なままだ。

 気がせく僕たちは、ようやく領主館に着いた。
 見張りをする騎士。覆いで雨を防いだ松明の火。それらを館の上と下に見ることができた。
 クレアが抜け出す窓を僕たちは割り出し、そこから少し離れたところで待つことになった。
「じりじりするわ」
 『うでどけい』を見て、クレアはつぶやいた。気分は僕も同じだ。

 雷鳴は強くなり、どこかで雷も落ちてるようだ。その音が近くで聞こえる。
 僕とクレアは目を凝らし、窓に集中していた。いまとなっては雨も気にならない。
 そして、ついに時は訪れた。

「ああ、クレアだ!」
 僕は我を忘れて、まじまじと見入ってしまった。もう一人のクレアと僕が風通しの窓から這い出し、
地面に降り立ったからだ。
「……やっぱり、いたわ」
 クレアは落胆の声をもらした。
 僕は、クレアを慰めるにはどうしたらいいか、考えて次の言葉を探してるとき、視線を右に向けた。
 そのときだ。

「クレア! 矢をつがえてる女がいるよ! もう一人のクレアに向けてる!」
「何?」
「弓だよ! 弓!」
 クレアは僕の叫びに気づき、そちらを見た直後『うえすとばっぐ』を、まさぐり『かいちゅうでんとう』を取り出し、指で動かした。
 それは、大天使ミカエルの光を発した。
 クレアは光を、もう一人のクレアに当てるように向けて、大声を出しながら走り出した。
「身を伏せて、早く! 逃げて!」

 雷鳴の音で声はかき消され、もう一人のクレアに届かない。
 次の瞬間。
 雷が、もう一人のクレアのすぐそばに落ちた。もう一人のクレアはゆっくりと倒れた。
 僕の記憶のままに。
 もう一人の僕がクレアの背中に飛び乗る様子も、はっきりと確認できた。

(あのときのままだ。……あのとき叫んで走って来たのは、クレア本人だったんだ)

 予想できたことでも、それが現実化すれば言葉を失う。
 倒れたもう一人のクレアと、背中のもう一人の僕を見続けていると、音もなく消えていった。

(日本へ向かったんだ……)

 僕は弓を引く女を思い出し、急いでそちらを見た。
 なぜか女は倒れていた。その横に平然と立っていたのはレティだった。

「クレア! クレアのお姉さんがいるよ!」
 クレアは僕の声に反応し、周りを見て、レティの姿を確認した。
「レティ!」
 クレアは大天使ミカエルの光を放つ『かいちゅうでんとう』を手に持ったまま、レティに駆け寄った。
 そこにいたレティは昼間に出会ったレティではなく、『めいど』姿のレティだった。

「レア。あなた、元気そうね」
「レティ。どうして……あなた、戻っていたの?」
「あなたと同じときに橋から落ちれば、ね」
「そうだわ。レティ。あなた、聖母像はどうしたのよ」
「怖い顔。あなたをこの卑しい女から助けたのは私よ」
「え、そう……この女、誰なの?」
「黙想修道会の修道女よ」
「『もくそうしゅうどうかい』?」
「そうよ。……それより、この女からすぐ離れて」
「何で?」
「いいから」
 レティは半ば茫然としていたクレアの、腕を引っ張るようにして、その場から少し移動した。

 レティは倒れていた女を指差した。クレアと僕が見ていると、驚くべきことにその女も消えていった。
 倒れてたその場から音もなく、跡形もなく、だ。

「消えた……の?」
「あの女、日本へ行ったのよ」
「にほん?」
「そうよ。あの『叡智の書』狙い、でよ」
「どうして」
「どうして、こうして、じゃないわ。事実よ、レア。あなたが三人でメイドカフェに来る少し前に、私は
あの店のテレビで、あの女が上野で役人とやり合って逃げてるという、話を聞いたのよ」
「『てれび』? 『うえの』?」
「そうよ。あなたもテレビくらい知ってるでしょ」
「知ってるけど」
「あの女と日本で遭遇したら、レア。あなた、また襲われるわよ」
「冗談でしょ」
「本当よ。あなた、また日本へ行くのよ」
「どうかしら」
「決まってることよ」
「なぜ、断言するの?」
「私も、もうすぐ日本へ行くからよ。と言ってもこの私でなく、あなたが昼間出会ったもう一人の私よ」
 
 クレアは何が何だかわからず、混乱してるようだ。それは僕も同じだ。
 少し前まで『叡智の書』争奪は、クレアとお姉さんとの話、と思っていたが、事態はさらに複雑だった。
 クレアが命を狙われる、というのは予想外どころか、危機的と言えた。

(ここで、あの女に、とどめを刺す選択をしなかったのは、思えば完全な失敗じゃないのかな。レティは、
なぜ、女の息の根を止めなかったのだろう……)
 このときの僕は、レティの不手際が、どうしても納得できなかった。
 
「レア。領主館の騎士たちがもうすぐやって来るから、手短に言うわ」
「ええ」
「あなたと私が次に日本へ行くのは一週間後よ。先入観にとらわれて、あなたはそれを回避しようとする
かもしれないから、いまのあなたと、もう一人の私が消える場所は言えないわ」
「……そう」
「よく聞いて。もう一人の私は、いままでのことは何も知らない。これから、日本へ行くもう一人の私に、
あなたがこれからのことを日本で教えるのよ。いい?」
「そうなの?」
「そうよ。あなたが私に指示しなければ、メイドカフェの私は存在しないわ。いまの私もいない。あなたは
信じられないかもしれないけれど、これはすべて事実よ」

(そういうことか。『めいど』姿となるよう、レティに指示したのはクレアなんだ)

「何で私が、弓であなたを狙う女のいることを知ってたと思う?」
「それは……」
「レア。あなたが日本で私に教えたからよ。先回りして、私はここで待ち伏せしてたのよ」
「そうなの?」
「レア。これを見て」
 レティは、彼女のメイド服の後ろにつけていた、小さな『うえすとばっぐ』を見せた。
「これはウエストポーチよ。ワンピースと同じ色だから、あなたは気づかなかったかしら」
「にほん、で、わからなかったわ。あのとき、私は大慌てで、あなたの顔ばかり見てたわ」
「これに、いろいろと入れてるのよ。あなたが用意してくれたモノや私が選んだモノを、ね」
 レティはそこから紙、どうやら日本の貨幣を取り出し、それをクレアに差し出した。

「日本の女の子を怖がらせてしまったわ。これをあの子に渡して。5万あるわ。残り10万はレアに」
「いいの?」
「これから日本で必要になるでしょ。……この貨幣は、私があのメイドカフェで働いて得たものよ」
「そうなの?」
「そうよ。あなたに言われて、待機も兼ねてメイドとして、ね。10月1日から29日までの報酬よ。
当たり前のことだけど、人心掌握の術を使って、仕事の契約をしたのよ。日本の貨幣を得るため。
メイドカフェで私、これでも日本の男に人気があったのよ。『フランス人の女の子がいる』って」
「働いてたの?」
「変な話だけど、これは歴史に残るかも、ね」
「残ったら不思議な話よ。でも、ありがとう。あの子、ユノに必ず渡すわ」
「それと、この鍵と紙」
「これは?」
「2022年10月まで、日本で私があなたと暮らしてた部屋の鍵よ」
「部屋?」
「マンションと呼ばれてるところ。場所はその紙に書いておいたわ。あなたなら読み解けるでしょ」
「……調べるわ」
「私とあなたがその部屋に行ったのは、2022月9月22日よ」
「違う私と、違うあなたに、そこで出会う心配は?」
「だいじょうぶよ。……もし出会ったら、適当に話をつけて、仲よくしてね」
「それでは私とレティが、何人もいることになるわ」
「そうね! 大集合かしら」
「レティ。吹っ切れてるわね。……まあ、いいけど」
「700年先の便利なモノが部屋にあるわ。お化粧道具もあるし。日本の服も。少しは楽しめるわ」
 レティは微笑んだ。笑顔は可愛い。まるでクレアの喜ぶ姿を見てるような感じだ、僕には。

「レア。いろいろと困難があるかもしれないけれど。あなたなら、だいじょうぶ」
「レティ……」
「日本で、私、悪い女だったでしょ。かなり頑張ったのよ。あなたに頼まれて、あなたを怒らせる女に
なって、聖母像を確保して、二人で秋葉原の鉄橋まで行けるように。飛び降りるのは怖かったけど」
「あれは……お芝居?」
「迫真の演技……出来たかしら。私も市の見世物で貨幣を頂けるかも、ね。それと、聖母像のこと。
私が隠しておいたわ。日本に戻す必要ないでしょ。これから日本へ行けば、そこにもあるから」
 
 レティはクレアに向き合い、クレアの両肩に自分の両手を乗せた後、引き寄せ、そっと抱きしめた。
「レティ。あなた、雨で服も体も濡れてるわ」
「だいじょうぶ。すぐ乾くわ」
「私、何も知らなかった……」
「これから教えてね、日本へ行った私に」
「レティシア……」
「まあ! 私の名前、ようやく聞けたわ」
 レティはクレアを見て離れ、右手を少し上げ微笑み、小走りに森の中へ去って行った。
 クレアは名残惜しそうに、レティの姿を見ていた。
 
 僕もレティの後ろ姿を見送った後で、何気なく、地面を見た。
「クレア! 短剣あるよ!」
「え?」
「下に短剣が」
 クレアは地面にあった短剣を見つけ、拾い上げた。鞘の革袋に焦げた痕、刃には変色があった。
「これは……私の短剣よ」
「あのときクレアのそばで雷が落ちた場所は、クレアの短剣だったんだ」
「飛び降りたとき、腰から外れ、それで私は助かったのかしら」
「そうだよ。神のご加護」

(雷が落ちたすぐそばにいて、命を落とさずに助かっても、ひと月も意識が戻らないことって、
何例もあるんだ。クレアはすぐ元気になれた。運が良かったんだよ)

 領主館の騎士の声が近くで聞こえだした。
「クレア。僕たちも急いでここから離れよう。すぐ騎士は来るよ。雷も危ないし」
「そうね。行くわ」
 クレアは大天使ミカエルの光を消し、短剣を持ち、僕の誘導に従いながら、その場所から走り出した。
もう何の迷いもない。そんな彼女の表情を、僕は見ることができた。


 その後、クレアと僕は、クレアの家に無事に着き、そこでようやく落ち着いた生活も再開された。
 僕が初めて経験したクレアの家での詳しい話は、またの機会にしたい。
 
 僕は日本行きまで、クレアの家で骨休めできると思っていたが、クレアはレティから聞いた、あの
黙想修道会を一度見てみたい、と言い出し、日本行きの前日に、その修道会へと出かけた。
 これは彼女にとって、敵情視察なのかもしれない。僕は一抹の不安もあったけれど。
 その修道会は、トロワのはずれにあった。

 クレアは、警護依頼の修道院長に修道服を返却せずに、その修道服のままで黙想修道会を訪ねた。
 相手にこちらの身元をさらすような感じだが、気にする様子もない。
 クレアと僕は修道会の建物裏に回り、彼女は深呼吸した後で、簡素な木戸を強く叩いた。
 戸は開き、若い修道女が顔をのぞかせた。
 クレアは彼女の顔をしっかりと見て、元気よく、挨拶をした。

「初めまして! レア・マテューです! 使徒職のお手伝いをさせてください!」
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