第1話 らあめん
文字数 2,000文字
「あ~、何もやる気がせんのう……」
しとしとと雨が降り続いている。五月雨の季節だった。
縁側に寝そべった老人は、庭に咲く花菖蒲を見るともなく見やりながら、ぴくりとも動く気配がない。
「おそれながら、ご老公様」
傍らに座した僧形の男がひとつ咳払いをした。
「そのお言葉は聞き飽きました。前 の天下の副将軍たるお方がそのような有様では、世の聞こえもよろしくありませぬ。今のお姿を目にすれば、民もさぞや落胆するでありましょう」
「介三郎は硬いのう。溜息も出んわ」
ごろりと横を向いた老人の尻から、ぷうと溜息が漏れた。
ここは水戸の西山御殿。副将軍の職を退き悠々自適の生活を送っている光圀と、佐々 介三郎宗淳 は、ここ三日ほど同じ会話を交わしていた。
「ワシはもう十分働いた。隠居がぐうたらして何が悪い」
実際、五代将軍綱吉の補佐は大変だった。いろいろな意味で本当に大変だった。将軍に物申すことができたのは光圀だけ。政事に関する苦情はすべて光圀に寄せられ、光圀が自ら対処したのだ。あれは激務だった。
「聞こえが悪いというなら、上方で評判の近松あたりに話を作らせよ」
「どのような?」
聞かれて光圀はちらりと書斎を振り返った。文机の上で現在絶賛編纂中の『大日本史』の草稿が雪崩を起こしている。
「ワシが日本国中を旅して、悪党どもをやっつける話なぞどうだ」
「また荒唐無稽な」
西山荘に籠もりっきりの身で何を言うか。
「おお、世直し旅には介三郎も同行してもらおう。色男役でな。女子にもてもてで、ちょいとだらしない役回りがよい」
「私は僧ですぞ」
「芝居の中なら、何でもアリじゃ」
会話が途切れる。軒から滴る雨粒が妙なる楽を奏でた。
「こういうすっきりとしない日には、ピリッとしたものが食べたいのう」
光圀は独り言のように呟いた。
「ピリッとしたものですか」
介三郎が首をかしげる。
「私などはどうも食欲がなくて。何か食べたいという気も起こりませぬ」
それを聞くと、光圀はがばと跳ね起きた。
「食べることが楽しくないのか。一大事ではないか」
「いや、それほどでも……」
「顔色が悪いな。体がしゃんとしておらねば気も弱る。食は生きる上での基本ぞ」
「はあ」
「待っておれ。わしがひとつ、飛びっきり良きものを馳走してやろう」
先ほどまでのぐうたらぶりが嘘のように、光圀はしゃきんと立ち上がった。そして呆気にとられる介三郎を残し、すたすたとどこへやら去って行った。
「待っておれ」と言われ、介三郎は一日待った。
目の前に大きな碗が置かれた。ほかほかと湯気を立てている。汁物のようだ。山と盛られた白髪葱 の横に浅蜊 が五粒。その下に韮 らしき緑が見える。
「何ですか、これは」
「
光圀が得意げに胸を反らした。
昔、水戸に朱 舜水 という儒学者を招いたことがある。明からの亡命者だ。光圀は彼から儒学と明の文化を学んだ。そのついでに、美食家の光圀は、大陸の美味いものについても抜かりなく教えを請うていたのだった。
「食欲がないと言うておったから、あっさり味に仕立てておいたぞ」
浅蜊だけに――、という駄洒落を横に聞きながら、介三郎はおそるおそる碗に箸を差し入れた。らあ
細い麺を引き上げ、ずるずると啜る。この歯触りと喉越しはどうだ。うどん粉とも蕎麦粉とも違う。材料は何であろうか。
「蓮根 の粉じゃよ。麺もわしが打った」
「なんと!」
美食とは、文字通り美 き物を食することである。贅沢な物を好むことではない。蓮根にも驚いたが、また出汁が美味い。
「らあめんの中には五辛 が調和しておる」
五辛すなわち、生姜 、大蒜 、韮、葱、辣韮 。これらには血行を促進し、体を温める働きがある。胃腸の働きを整え、疲労回復、体力増強にも効果がある。
「なにより香りがいい。食欲がないと言うておったが、するする入るであろう」
浅蜊には造血作用と滋養強壮。どれも今の介三郎に必要なものばかりだった。介三郎は無言でらあめんを啜った。出汁の一滴も残さず、一気に平らげた。
そうして静かに箸を置くと、手を合わせた。
「お心、頂戴いたしました」
光圀はそれを見て、満足そうに頷いた。
翌日。梅雨晴れの縁側に、くたびれた老人が転がっていた。
「無理はするものではないのう」
麺打ちだけでなく、朝っぱらから棒手 振りを追いかけ、値の駆け引きまでしたのだという。介三郎はそっと目を拭 った。
「らあめんも、糒 のようにならぬものか」
光圀がうそぶく。
「湯をかければ、いつでも食えるようになればいいのに」
乾燥麺の発明は、それから約260年後。器に入った乾燥麺が一気にブレイクしたのは1972年。あさま山荘事件が契機となった。
麺を啜る機動隊員の姿がテレビ画面に大映しとなり、国民の耳目関心を集めた。その時、機動隊の指揮を執ったのが介三郎の子孫、佐々 敦行 である。
しとしとと雨が降り続いている。五月雨の季節だった。
縁側に寝そべった老人は、庭に咲く花菖蒲を見るともなく見やりながら、ぴくりとも動く気配がない。
「おそれながら、ご老公様」
傍らに座した僧形の男がひとつ咳払いをした。
「そのお言葉は聞き飽きました。
「介三郎は硬いのう。溜息も出んわ」
ごろりと横を向いた老人の尻から、ぷうと溜息が漏れた。
ここは水戸の西山御殿。副将軍の職を退き悠々自適の生活を送っている光圀と、
「ワシはもう十分働いた。隠居がぐうたらして何が悪い」
実際、五代将軍綱吉の補佐は大変だった。いろいろな意味で本当に大変だった。将軍に物申すことができたのは光圀だけ。政事に関する苦情はすべて光圀に寄せられ、光圀が自ら対処したのだ。あれは激務だった。
「聞こえが悪いというなら、上方で評判の近松あたりに話を作らせよ」
「どのような?」
聞かれて光圀はちらりと書斎を振り返った。文机の上で現在絶賛編纂中の『大日本史』の草稿が雪崩を起こしている。
「ワシが日本国中を旅して、悪党どもをやっつける話なぞどうだ」
「また荒唐無稽な」
西山荘に籠もりっきりの身で何を言うか。
「おお、世直し旅には介三郎も同行してもらおう。色男役でな。女子にもてもてで、ちょいとだらしない役回りがよい」
「私は僧ですぞ」
「芝居の中なら、何でもアリじゃ」
会話が途切れる。軒から滴る雨粒が妙なる楽を奏でた。
「こういうすっきりとしない日には、ピリッとしたものが食べたいのう」
光圀は独り言のように呟いた。
「ピリッとしたものですか」
介三郎が首をかしげる。
「私などはどうも食欲がなくて。何か食べたいという気も起こりませぬ」
それを聞くと、光圀はがばと跳ね起きた。
「食べることが楽しくないのか。一大事ではないか」
「いや、それほどでも……」
「顔色が悪いな。体がしゃんとしておらねば気も弱る。食は生きる上での基本ぞ」
「はあ」
「待っておれ。わしがひとつ、飛びっきり良きものを馳走してやろう」
先ほどまでのぐうたらぶりが嘘のように、光圀はしゃきんと立ち上がった。そして呆気にとられる介三郎を残し、すたすたとどこへやら去って行った。
「待っておれ」と言われ、介三郎は一日待った。
目の前に大きな碗が置かれた。ほかほかと湯気を立てている。汁物のようだ。山と盛られた白髪
「何ですか、これは」
「
らあめん
、というものじゃ。ワシが作ったのじゃぞ」光圀が得意げに胸を反らした。
昔、水戸に
「食欲がないと言うておったから、あっさり味に仕立てておいたぞ」
浅蜊だけに――、という駄洒落を横に聞きながら、介三郎はおそるおそる碗に箸を差し入れた。らあ
めん
、というからには麺料理なのだろう。細い麺を引き上げ、ずるずると啜る。この歯触りと喉越しはどうだ。うどん粉とも蕎麦粉とも違う。材料は何であろうか。
「
「なんと!」
美食とは、文字通り
「らあめんの中には
五辛すなわち、
「なにより香りがいい。食欲がないと言うておったが、するする入るであろう」
浅蜊には造血作用と滋養強壮。どれも今の介三郎に必要なものばかりだった。介三郎は無言でらあめんを啜った。出汁の一滴も残さず、一気に平らげた。
そうして静かに箸を置くと、手を合わせた。
「お心、頂戴いたしました」
光圀はそれを見て、満足そうに頷いた。
翌日。梅雨晴れの縁側に、くたびれた老人が転がっていた。
「無理はするものではないのう」
麺打ちだけでなく、朝っぱらから
「らあめんも、
光圀がうそぶく。
「湯をかければ、いつでも食えるようになればいいのに」
乾燥麺の発明は、それから約260年後。器に入った乾燥麺が一気にブレイクしたのは1972年。あさま山荘事件が契機となった。
麺を啜る機動隊員の姿がテレビ画面に大映しとなり、国民の耳目関心を集めた。その時、機動隊の指揮を執ったのが介三郎の子孫、