第1話

文字数 2,178文字

 狼は赤いコートの女性を見ると、つい見つめてしまうのです。
 真っ赤な頭巾と真っ赤なマントを肌身離さずつけていた、あの女の子のことを思い出してしまうものですから。
 冷たい風が吹いて、失った右の耳の付け根にピリピリと電流が流れます。

 赤ずきんちゃんは、お母さんの言いつけをよく守るのでした。
「おばあさんに、このケーキとワインを届けてちょうだい」と言われれば、さっとおつかいに行きます。
「おばあさんは、これしか召し上がるものがないのだから、決して欲しがったりしてはなりません」と、お母さんはいつも口が酸っぱくなるほど言うのでした。
 赤ずきんちゃんが行くと、おばあさんはいつだって大層喜んでくれました。とはいえ、小さい頃からずっと届け続けているのですが、そのケーキをちょっぴりでもわけてくれることは、一度だってありませんでした。
 本物のケーキってどんな味がするのだろう、と森を歩きながら空想してみます。あの雲のようなふわふわのクリーム。それとも紫色のベリーを煮たジャム。想像するだけで口の中が甘い香りでいっぱいになります。いつか、食べてみたい。
 そんな風に歩いていたので、
「こんにちは、赤ずきんちゃん」
 後ろから声をかけられるまで、狼がついてきていることに気づかずにいたのでした。
「わっ! こんにちは、狼さん」
「何を持っているの」
「これは、おばあさんに届けるケーキとワインで」
「少しわけてくれませんか」
「駄目、おばあさんの大切なものだから」
 けれども狼はひらり、と空を舞うと赤ずきんちゃんの手からかごを奪い取ってしまいました。そしてあろうことか、中から取り出したケーキを二つに割り、ワインの栓を鋭い牙でキュキュキュ、と抜いてしまったのです。
「なんてこと…」
 赤ずきんちゃんは、おばあさんがどんなに悲しむか、そして、お母さんがどんなに怒るかと考えたら身がすくみ、やがて気絶してしまいました。

 さて狼は、ケーキとワインを慎重に嗅いでいたのですが、やがて倒れている赤ずきんちゃんに近づいて、頭巾とマントをめくりました。
「…これは、なかなかだ」

「おばあさん、あたしよ」
「赤ずきんちゃんかい? 声がおかしいね」
「ちょっと風邪をひいたの。ケーキとワイン、持ってきたよ」
「おはいり」
 カチっと鍵の外れる音がして、中からおばあさんが現れました。狼が、割れたケーキと栓の空いたワイン、そして赤い頭巾とマントを突きつけると、おばあさんは全てを察して、その場に崩れ落ちるように倒れてしまいました。

 赤ずきんちゃんの帰りが遅いので、心配したお母さんは猟銃を手におばあさんの家へ向かいます。
「おばあさん、私よ」
「待っていたよ」
「おばあさん、声がおかしいわ」
「ちょっと風邪をひいたみたいだよ。いいから、おはいり」
 お母さんがベッドに近づくと、おばあさんは頭のてっぺんまでお布団に潜って寝ています。
 テーブルには割れたケーキと栓の空いたワイン。
「あの娘、ちゃんと届けに来たんですね。どこへ寄り道しているのやら」
 次にお母さんが見たものは、布団を押し除けてこちらへ飛びかかってくる狼の大きな口。
 ダン! 
 猟銃が火を吹いて、狼は床に伸びました。
 お母さんは、めくれた布団の奥に赤い頭巾とマントがあるのを見つけて真っ青になりました。
「大変…」
 しばらく思案したあと、お母さんはタンスの引き出しを開けたり閉めたり、何やら取り出したります。大きなハサミで狼のお腹を切ると、石をいくつか埋め込んでから縫いあわせて元通りにしました。そして、狼の体をえっちらおっちらと運び、川のそばの繁みに念入りに隠したのです。

 狼は生きていました。目を覚まして繁みから這い出ると、すぐそこに赤ずきんちゃんが座っていました。赤い頭巾とマントを身につけています。
「家へ戻らなかったのか」
 赤ずきんちゃんは返事をせず、大きく息を吐きました。
「狼さん、見たんですね、これを」
 そう言って赤ずきんちゃんは頭巾とマントをめくります。全身にできた赤やら青やらのアザ。
「いつからだ」
「さあ、物心ついてからずっと」
 今度は狼が大きく息を吐く番でした。猟銃がかすめた右耳と、ハサミで切られたお腹が痛みます。
 狼は身を屈めて縫い目の糸を、牙でぷちんぷちんと切ります。お腹から転がり出た石は全部で七つ。そのうちの一つを、赤ずきんちゃんに渡します。
「開けてみな」
 それは石に見せかけた精巧なプラスチックで、捻ると蓋が開き中から現れたのは白い粉。
「ケーキとワインに隠すとは、考えたものだな。ここでばあさんが、取り出して精製してたんだろう」
 おばあさんのキッチンは、確かに不思議な器具だらけなのでした。
「おばあさんは?」
「仲間が連行した」
「おばあさんには叩かれたことないの。優しくしてあげてね」
 赤ずきんちゃんはしばらく何事か考えているようでしたが、ニカっと笑って言いました。
「ねえ、見つけた『石』は六つだったことにしてくれない?」
「やるなあ、あんた。でもそうは問屋がおろさな…わっ」
 赤ずきんちゃんは『石』を一つ握ったまま、狼のお腹の傷を蹴りあげたのです。狼が悶絶している間に、かけだしていって姿が見えなくなりました。

 あの母親からも、白い粉からも遠く遠く走り去ってくれたのならいいのだが。
 狼は、赤いコートの女性を見るたびに思っているのです。

<了>
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