妖神(マガカミ)

文字数 8,166文字

 《あなた》は街を歩いていた。
 夕暮れの街は、灯が灯り始め、街並みが静かになっていく。
 遠くで車の音や人の歩く響き、建物の壁には夕陽の残り韻が淡く残る。
 その時、空から雨が降り始めた。
 最初は小さな雫が、街の静かに打ち付けられるように降る。反射して幻想的な輝きを生み出している。
 夕暮れ時の、暗い曇り空。
 《あなた》の服は、濡れ始める。
 天気予報によると今日は一日中晴れという話だったのに、なぜ自分は雨に打たれているのだろう。
 周囲を見れば、人々が手にしていた傘を開いていく。
 まるで、雨が降ることを知っていたように傘の花が開く。
 一人で傘を開く者もいれば、一本の傘を親子で傾ける者もいる。
 手を繫いで一つの傘に収まる男女も見えた。
 でも、《あなた》は一人で開く傘は無い。
 なぜだか分からないけど、濡れている方がいいような気がしてくる。
 一人静かに雨に打たれていると、世界から切り離されたように感じるからかも知れない。
 そんな世界を《あなた》は一人、歩き始める。
 陸橋が目の前にあった。
 《あなた》は傘を持っていないことから、雨宿りに陸橋の下に入る。
 小さな陸橋の下、人通りは無い。
 《あなた》は一人、ため息を吐き出す。
 息は雨と混ざるように消えていく。
 一呼吸を終えた後、誰かが来たことを知らせるように足音が聞こえてくる。
 足音は一人だ。
 程なくして、《あなた》の前に一人の男性が姿を現した。
 身なりの良い凛とした風格と優雅さが調和したスーツに身を包む男性だ。
 ダークネイビーの生地に、ネクタイには薄いストライプが入っている。
 襟にはシンプルだが品の良いゴールドのピンが留まっている。
 長い脚を強調するような細いスラックスもスタイリッシュで、革靴は雨空の中で煌めく。
 年の頃は青年の様な情熱と壮年の様な冷静さを持っているようにみえる。
 優しい顔立ちをしており、落ち着きと高貴さを身にまとっている。
 瞳は澄み渡り、人を包み込むような温かい光を内包している。その瞳差しは、相手に対して深い理解と共感を感じさせ、心の奥深くから信頼を得られる雰囲気があった。
 髪は整然と整えられ、整った眉は細く整い、目元の涼しげな印象とよく合っていた。
 《あなた》は相手に目を取られる。
 自分の今見ているものが現実のものなのか疑わしくなる。
 それほどに綺麗な男性だった。
 男性は傘を持っておらず、《あなた》と同様にスーツを雨に濡らしていた。
 雨宿りをする《あなた》に男性は訊いた。
「ご一緒させて頂いてもいいですか?」
 《あなた》は断らない。一歩横に動いて、男性が雨宿りできるようにスペースを開ける。
「ありがとうございます」
 男性は小さくお礼を言って、《あなた》の隣に立った。
 二人の間に会話はない。
 隣に立つ男性は視線を遠くにやり、雨の世界を静かに眺めている。
「雨が降るのは知っていたのですが、まさかこんなにも早く降るとは思いませんでした。あなたもそうですか?」
 訊かれて、《あなた》は否定した。自分は雨を降ることすら知らず、土地勘のない街にやってきていることを口にした。今はただ、途方に暮れて傘を持たず、雨宿りをしていることを告げた。
 そして、《あなた》はどこかに休める場所はないかと呟いた。
「休める場所ですか……」
 男性は少し考え、何か思いついたようなことに《あなた》は気づく。
「……」
 視線を他所へ向ける男性へ、《あなた》は訊く。何か事情があるのですかと?
 すると男性は視線を戻して、《あなた》へ伝えた。
 目が合うと、男性は微笑む。
「私の知人が営む、お店があるんです。小さなお店ですが、温かで美味しい珈琲が飲めるんです」
 男性の言葉に《あなた》は、願ってもないことと耳を傾け、そのお店は遠いのかと尋ねた。
 すると男性は少し困った表情をして笑った。
 そして口を開いた。
「近くですよ。そこの脇道に入った、すぐそこに知人の営む喫茶店があります」
 男性は斜め前にある建物の脇道を指さす。
 奇遇なことに《あなた》の気持ちは、そこに立ち寄る方へ向いている。
 雨に打たれて帰るよりも、男性の知人の店で一息つく方が自分の性にも合っているような気がした。
 《あなた》は男性と一緒に、喫茶店へ行くことを提案する。
 しかし、男性は首を横に振った。
 《あなた》が疑問に思っていると、男性は理由を口にした。
「申したように、その人とは知人であって友人ではありません。お互いプライベートな場所には立ち入らぬようにしています」
 《あなた》は少し考える。
 こんなにも優しげな男性と反りが合わない人とは、一体どんな人なのだろう?
 その疑問を《あなた》は口にした。
 すると男性は微笑み、こう答えた。
「――安心して下さい。人を取って喰うようなことはしませんから」
 男性の冗談に《あなた》は笑ってしまった。
 すると男性は嬉しそうな表情を浮かべた。
 男性は自らの財布を開くと、《あなた》に紙幣を差し出した。突然のことに《あなた》は驚き、理由を訊く。
 男性は穏やかな口調で言う。
「雨宿りの席を譲って頂いたお礼ですよ。それと知人のお店を手助けしたいという私からの気持ちです。私が行けない分、あなたが代わりに行って下さい。小降りになるまで喫茶店で珈琲を口にする。雨に打たれた後に暖かい物を飲むと心地良さが引き立ちますよ」
 《あなた》はその紙幣を受け取るかどうか悩むが、冷えた身体にしみる暖かい珈琲のことを想像すると、無性に飲みたくなってくる。
 やがて、男性は《あなた》の手をそっと握る。
 暖かく柔らかな慈愛に満ちた男性の手に、《あなた》は不思議と懐かしい思いがした。
 その温もりは、この男性がずっと長く生きた証のように感じられた。
 《あなた》は自分の心が高揚するのを自覚する。
 思わず男性を見上げてしまうが、男性は優しい眼差しを向けているだけだった。
 男性の瞳の奥は、不思議な色をしている。
 まるで全てを見通しているようにもみえるし、何も気にしていないようにも見える。
 その瞳に見つめられるだけで、心の枷が取れて気楽になるような気がした。
「私は、あなたを見守っています――」
 男性は告げる。
 《あなた》は男性から紙幣を握らされ、お礼を言う。
「良い雨宿りを――」
 男性の言葉に見送られ、《あなた》は男性に勧められた脇道に入っていく。脇道に入ると、《あなた》は一息を吐く。
 冷たい空気が、口から流れ出た。
 息の白さが、気温の寒さを物語っている。
 外は寒く、湿気を帯びて息が白くなっていた。
 すぐに喫茶店の看板が目に入る。
 店の前に着くのに時間はかからなかった。
 こじんまりとした店だ。
 その割には、店外にある傘立てには幾本もの傘が差さっており、商売繁盛しているようにみえた。
 街角に佇む喫茶店は、静かな雰囲気を漂わせている。古びた煉瓦の外壁が店を包み込み、暖かい灯が窓から漏れ出ている。
 店の入り口には小さなベルがついており、来客を祝福するように音を鳴らすことだろう。
 《あなた》は誘われるように、店の扉を開けた。
 店内は柔らかな灯りに包まれ、古い時計の針がゆっくりと時を刻む。
 小さなテーブルと椅子が配置され、窓際には花瓶に活けられた季節の花が飾られている
 棚には古い洋書、アンティークのティーカップが飾られ、棚の横にはレコードが並んだカウンターがある。
 喫茶店の奥に置かれた蓄音機から、ゆったりとしたクラシックの曲が流れてくる。
 カウンターには、銅のアンティークコーヒーメーカーが佇んでおり、そこに淹れたコーヒーの香りが店内に漂っている。
 店主の笑顔が、《あなた》を迎えてくれる。
 だが、その美しさに《あなた》は身震いをしてしまう。
 彼女の美しい顔は、まるで月明かりに照らされた夜の花のようだった。
 柳刃の様な目にある、瞳は深い紫色で、まるで宇宙の一部を切り取ったようだ。眉は繊細でありながら力強く、高い鼻梁から優雅に広がる額は知性と美しさを同時に感じさせる。口元は淡く彩られ、微笑むと妖艶な魅力がさらに引き立つ。
 その黒く長い髪は、夜の闇を纏っているようであり、なびくたびに輝く星のような輝きを放つ。
 肌は乳白色の陶器のように滑らかで、張りと艶がある。
 彼女の身に纏ったのは、深い黒に染まった美しい着物だ。生地は光沢を保ち、まるで夜空に広が​​る星々を反映しているかのような輝きがある。
 光があふれ、歩くたびに優雅に揺れている。
 着物の上からでも、彼女の出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる理想的なバランスの肢体が見て取れた。
 まさに和美人と称するに相応しい姿だ。
「いらっしゃい」
 女性の店主は、優雅な声色で挨拶をする。
 まるで甘く熟した果実のような声だ。
 《あなた》は珈琲を注文すると、女性は手でカウンター席に導く。店主の美しい所作を眺めながら椅子に座った。
 その姿は、夜の闇に包まれた森の奥深く、月明かりを背景にした湖畔で、柔らかな風にそよぐ柳の木と美しい花がぴったりだ。
 それはまるで、一枚の絵画が現実に飛び出してきたかのようだった。
 しばらく、《あなた》は店主に見惚れていた。
 時間を忘れていると、女性から声がかかる。
 どうやら注文した珈琲を淹れ終わったようだ。
 女性の差し出したカップを見つつ、《あなた》は感謝を言葉にして伝えた。
 《あなた》は席にあるシュガーポットに手を伸ばそうとすると、女性が《あなた》の手に触れた。
 冷かな手に驚く《あなた》。
 女性は穏やかな表情のまま、理由を口にした。
「まずは珈琲そのままの味をお楽しみください」
 確かに、温かい珈琲をそのまま楽しむのも一興だろう。
 《あなた》はシュガーポットを元の位置に戻し、カップを口につける。
 舌先に感じる熱と苦みが程よく身体に染みる。
 冷えていた身体が温められるようで心地がいい。
 心安らぐような優しい味わいだった。
 芳醇な香りと苦みが、口の中に広がりながら身体を温める。
 そして程よい甘味と酸味が口の中から全身に行き渡り、その余韻を味わうように小さくため息が漏れた。
 《あなた》は、いつも砂糖とミルクを入れていたが、こんなに美味しい珈琲があったなんて知らなかった。
 男性から教えられて、この店に入ったが、その満足度は想像を上回っていた。
 甘味と酸味が効いた珈琲を飲みつつ、店内を見渡す。
 数少ない照明から光が零れている中、何人かの客の姿が見える。楽しそうに会話している男女もいれば、一人で本を読みながら珈琲を飲んでいる男もいる。
「初めての、お客さんね」
 女性が、不意に話しかけてきて《あなた》は驚く。
 あまりに魅力的な女性の風貌に心を奪われていたこともあったが、自身の行動を見られていたことに動揺を隠せない。
 《あなた》は言葉が上手く出てこず、慌ててしまう。
 その様子を女性は、微笑ましく思いながらも再び静かに声を掛ける。
「ずいぶんと濡れているわね。傘を持っていなかったの?」
 《あなた》は無言で頷く。
 女性は通りに降る雨をちらりと眺め、《あなた》に視線を向ける。
「この様子だと、一晩中続くかも知れませんね」
 その言葉に《あなた》は驚く。
 女性の言葉に応えるように雨は激しさを増す。
 雨は、しばらく止みそうもない。
 《あなた》が困っていると、外を眺めながら女性が呟く。
「冷たい雨に打たれながら帰るのも面倒でしょう。あそこにある傘を使うといいわ」
 女性は、入り口ドアの外にある傘立てを指した。
 雨に濡れた傘が何本かあるが、それはお客の傘なのは明白だった。
 《あなた》は女性が何を言っているのか分からず訊ねると、女性は意味深に笑った。
 そして言った。
「――《あなた》の傘よ。バレる前に、そっと手にして出ていけば、他人の物でも《あなた》の物になるわ」
 それは他人の物を盗めと言っているのだ。
 《あなた》は驚いたが、雨に濡れた身体が冷えてきているのを感じた。染み込んだ雨は肌を打ち、身体の冷やしている。
 今から傘も無く帰るとしたら、どれだけ雨に打たれてしまうのだろう。
 帰り着いた時には、身体が芯まで冷えてカゼを引いてしまうだろう。
「安心して。私は、何も見なかったことにしてあげるから」
 女性の言葉に、《あなた》は過去に自分の傘が盗まれたことを思い出した。
 あの時、傘を無くしたことで雨に濡れて帰宅せざるを得なかった。帰っている間に鼻水を流し、頭痛を感じ、さらに寒気を感じた。
 家に辿り着き、ほっとするのも束の間、身体が思うように動かないのだ。熱が出ても身体を動かすことが難しくなり、発熱によって病院に行くことを余儀なくされた。
 《あなた》は、なぜ自分が、こんな目に遇ったのか理解できなかった。
 あの苦しさは二度と味わいたくなかった。
 《あなた》が珈琲を飲み終えると、女性は店内を見渡す。
「今なら大丈夫よ。お代を、ここに置いたら、素知らぬ振りをして傘を手にするの。他人なんて関係ないわ。あそこのカップルの女は、妊娠しているけど身体を冷やして流産すれば良い。あの男は、40を過ぎても未だに伴侶も無く親と同居し続けている《こどおじ》よ。
 突き落としなさい。幸せを感じている人を絶望の奈落に。あざ笑いなさい、幸せを掴めなかった人を更に不運を与えてやるの」
 物騒なことを言い出す女性に《あなた》は慌てるが、女性はクスクスと笑う。
 その笑い声が心地よく、《あなた》は店内にいる他の客も話が耳に入らなくなっていた。まるで世界には、《あなた》と女性しかいないような錯覚に陥いってしまいそうになる。
 《あなた》は、男性から貰った紙幣をカウンターに置く。
 珈琲一杯に、多すぎる料金だが、《あなた》は釣り銭を受け取る気は無かった。やがて意を決すると席を立った。
 ドアに吊るされた小さなベルが、《あなた》の行く道を告げるように鳴った。
 降りしきる雨は石畳を強く叩き、音を立てている。
 通りに響くのは雨音だけ。
 今度は、まるで雨と自分しかいない世界に居るようだ。
 自分の中にある善と悪の心がせめぎあい、葛藤が胸の鼓動を速くする。この世は競い合い、奪い合い、殺し合う世界で出来ている。
 争いは無くならないし、譲り合っていては自分が幸せになることもできない。
 だから世界は、奪い合いの争いが繰り返される。
 傘を手にして、帰れば雨に打たれずに家に帰り着き、濡れた身体をシャワーで温めて布団に入って眠ることができる。
 カゼを引いて苦しむことも無いのだ。
 《あなた》は、吹き出すように笑った。
 そんな簡単な理屈なのに、なぜ躊躇っていたのだろうか。
 《あなた》は歩く。
 空を仰ぎ見る。
 《あなた》は、雨を顔に浴びながらこれで良いと思った。 
 そんな《あなた》の後ろ姿を、スーツ姿の男性と黒い着物の女性が見ていた。
「つまらないわね」
 女性は腕組みして《あなた》を見送る。
「迷い苦しみながらも、あの判断と行動は立派なものです」
 スーツ姿の男性は《あなた》の後ろ姿に讃辞を贈る。
 女性は頭を振る。
 長い髪が揺れ動く。雨粒で揺れる髪は艶やかに美しい。
「ふん。人間なんて、善人顔をしているけど、心の底では何を考えているか分からない生き物よ」
 女性は、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「私は信じていましたよ、あの人のことを」
 男性は呟いた。
 女性は男性を憎々しく目を向ける。
大国主(オオクニヌシ)、こんな程度で私に勝ったと言わせないわ」
 男性の名を口にする。
「勝ち負けなどという単純なものじゃありません。私は、人間が真の幸福を得るのを見守っているだけですよ。妖神(マガカミ)
 大国主(オオクニヌシ)は女性・妖神(マガカミ)に微笑んだ。

大国主(オオクニヌシ)妖神(マガカミ)
 江戸時代後期の国学者・平田篤胤(ひらたあつたね)は、『古史伝』にて日本国を創り人々を守り導く神である大国主命(オオクニヌシノミコト)と、災いや不吉な出来事をもたらす妖神(マガカミ)との関係に即して、幸福について述べた。
 大国主命は、
「現世では有得の者となり、死後は霊妙な神になれよ」
 という気持ちで、人々を励まし導こうと考え、善人にはわざとつれなく振る舞い、妖神に苦しめられていても救わない。
 これは善人が災難に遭ってもその志を変えないかどうかを試すとともに、善人が犯した過ちを罰しているのだ。徳のある行いを心がける者も、些細な罪は必ず犯すからである。一方、妖神どもが凡人を(そそのか)して悪行を勧め、仮初の幸福を与えるのを、大国主命は何もせず見ている。
 これは、凡人であっても、わずかな善行さえ行わない者はいないので、その行いに報いるとともに仮初の幸福を与えられた凡人が、ますます(おご)りたかぶるかどうかを確かめているのである。
 これこそが大国主命が、人々を真の徳行い(いざな)い、真の幸福を獲得させるための教えなのだ。
 人は、大国主命の見守りを、ただ見ているだけと解釈する者もいるが、「見守っている」と「ただ見ているだけ」には大きな違いがある。
 「見守っている」という表現は、ただ観察しているだけでなく、その対象に対して深い意味や思いが込められている状態を示す。
 神が人々を見守っている場合、それは観察するだけでなく、その人々の状態や行動に配慮したり接しているという意味合いが含まれる。見守ることは、保護や、配慮を含むものとされる。
 一方、「ただ見ているだけ」は、何も影響を与えないで、無意識や状況を観察しているという意味だ。この表現には、深い意図や関与は含まれておらず、観察の側面を強調している。
 大国主命が妖神に苦しめられる人々を「見守っている」ということは、その人々の行動や選択に対して影響を与えている、その結果や成長を気にかけて、検討を行っているという意味合いが含まれている。
 決して、放置している訳ではないのだ。

 妖神(マガカミ)は、大国主(オオクニヌシ)の言葉に含み笑いをした。
 邪悪な笑みを顔に浮かべたまま、大国主(オオクニヌシ)に告げる。
「真の幸福ね。私は、この世に災いや不吉をもたらす存在よ。今こうしている間にも、私がバラ撒いた災いは、人間達に降り掛かっている。それは様々な形となって人を襲い、悩み、苦しみ、そそのかすのよ」
 妖神(マガカミ)の邪悪な笑みを、大国主(オオクニヌシ)は微笑しながら受け取った。
「どうぞ、ご勝手に。私は人間を見守り続けるだけです。妖神(マガカミ)の災禍に遭っても人は困難に打ち勝つ《力》を持っています」
 大国主命は微笑み返した。
 それが面白くないのか、妖神(マガカミ)は不機嫌そうに眉を寄せる。
「楽しみにしているわ。私の災禍と誘惑に人が苦しみ、欲望に溺れていく様を。私が作る世界も、甘くはないわ」
 妖神(マガカミ)が歩き出すと、大国主(オオクニヌシ)は見送る。
 彼女の背中から伸びる黒い影が、雨で揺れるように揺らめきながら消え、通りの暗闇に溶けていくのを大国主(オオクニヌシ)は見届けた。
 その後姿を見送ると、大国主(オオクニヌシ)はスーツの襟を正す。
 二柱の神は、すれ違い合う。
 こうして神々の饗宴は終わるのだった。

 ◆
 
 雨が降る中、《あなた》は花屋の前を通りかかる。
 色とりどりの花々が並ぶ店先からは、様々な香りがする。
 心安らぐような甘い香りもあれば、みずみずしく活力を感じられる香りもある。
 店内の花は、色や種類によって綺麗に並び揃っており、雨の日でも凛として美しく咲き誇っていた。
 一人の女性店員が《あなた》に向かって呟いた。
「ずぶ濡れですよ。よかったら傘をお貸ししましょうか?」
 雨音の中に響く女性の声が《あなた》を誘う。
 《あなた》は突然の誘いに戸惑うも、その問いかけに抗えなかった。
 差し出された傘を《あなた》は手にすると、彼女は微笑みながら見送ってくれた。
 雨の雫が傘を叩く音が聞こえてくる。
 ずぶ濡れになって今更差す傘にどれほどの意味があるのかと考えるが、何もせず雨に打たれるよりは良いと思った。
 だが、人の持つ優しさと思いやりは、悪いものではなかった。
 雨を避けられる傘の下で、安らぐような心優しき女性に感謝した。
 もう二度と来ることは無いと思っていた。
 だが、傘を貸して貰った以上、返しに来なければならない。
 《あなた》は、傘を返すという新たな目的を達成するため歩き出した。
 人と人とが結ぶ絆や、人と自然とのつながりは《あなた》だけでなく全ての人に幸福をもたらすきっかけとなる。
 そして《あなた》もまた、そんな希望へと繋がる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み