第1話

文字数 9,987文字

 昨日ここでは、少年たちがボールを投げ合っていたのだろうか。ボールはこの暑い太陽にも、いつ吹いてくるのか分からないような風にも、誰にも邪魔されずに飛んでいっただろうか。  
 かつてイチローはこう言った。「第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分が納得した生き方をしたい」私は恋ステで、自分が画面越しでどう思われているのかなんて気にせずに頑張った。どんな決断が下されても、私は強くなった自分に拍手をしたい。
 とまあ、こんな風に考えられるほど私は冷静じゃなかった。いつも見ていた風景が実際に訪れると、急に緊張してきた。
 だけど、緊張の理由はそれだけじゃない。私は今日恋ステチケットを使い、この野球場で告白することになっている。今、告白相手を待つ瞬間ですら、頭は回らない。考えてきた言葉をもう一度頭で復習することもできない。
 こんな時に限って、もし遠くの雲みたいな大きい綿飴が売られていたら、原宿のギャルの友達は悲鳴を上げて喜び、綿飴パーティーとか言ってインスタに載せるんだろうなあ、なんてことしか思い浮かばないのだ。
 綿飴を投げ合うギャルのことを妄想しているうちに、網のドアがキィといって開く音がした。
 私の告白する相手、聡太が私に近づいてくる。最初の言葉だけ必死に頭で繰り返した。まな板の鯉ならぬ、野球場の中のギャル。きっと現代の若者なら、こっちの方がわかりやすそうだ。
 聡太が私の前に立つ。
「来てくれてありがとう。初めて会った時には、聡太はもう何週か恋ステの期間を終えていて。でも、同じ高一同士だったからすぐに打ち解けてずっと一緒にいたんじゃないかって思うほど仲良くなれました」
 私が追加メンバーできた時、聡太はもう三週目だった。でもその週に聡太は恋ステチケットを使わなかったから、聡太の期間は五週間だと確信した。実は私は三週間のチケットを引いたけど、聡太はもう帰ってしまうことが分かってたから二週目の今日、告白をした。
「聡太が今日誰に告白のチケットを使うかで、どうせ聡太の気持ちの答えは分かるけど、それでも自分の口から気持ちを伝えたかったので、今私はここにいます」
 初めて聡太と会って話したときは、友達ができたと思った。聡太はバスの中で、最近見た香港映画がいかに面白くてシュールだったかを話してくれた。主人公がサッカーボールを蹴飛ばしたら隣町の時計台に刺さってしまったシーンを、事細かに説明してきた。そして、時折思い出し笑いをするのだった。
「聡太といると、面白くて、楽しくて、笑い合えた。でも、それ以上の気持ちになるなんてその時は思っていませんでした」
 みんなの前でも面白いから、私の前でも面白いのは特別なことじゃないと思っていた。でもふとした瞬間に、これが私だけにしてくれる特別なことだったらいいのにと思うことも多くなっていった。
「雨の日に、急にピンクのペンでビニール傘いっぱいに丸を書き出したでしょ?あの時は変なのって思いながらも、実はすごく嬉しかった」
 私の今年のラッキーカラーがピンクだ。だから、桜を見るのが楽しみにしていたが、ち丁度春に骨折をして入院し、桜をむることができなかった。六月に、桜が奇跡的に咲いている!と思って下を見てみたら、サンザシという謎の花の名前が書かれたプレートがあった時のショックは未だに忘れられない。
 そんな話を聡太にしたら、「これで少しは春の思い出取り戻せない?」と言って、ピンクの水性ペンで透明の傘に落書きしたのだ。雨に滲んで、だんだん淡く、そして消えていくあのピンクを見ていくうちに、私はサンザシに対して感謝の気持ちしかなくなった。
 ありがとう、サンザシよ。君のおかげで、こんなロマンチックな体験ができたんだ。この先、君より好きな花はもう二度と現れないよ。そんな風に思うのだった。
「辛い料理が食べた後に、ミルキーくれた時も、私の心はとっても喜んでいました」
 テレビの激辛挑戦企画を見ただけでも、ホラー映画で幽霊と鏡の中で目を合わせたのかという位に目を瞑ってしまう私。ほんの少しの辛さでも体が受け付けない。そんな中、昼食で韓国料理屋に連れて行かれた日があった。絶望を隠しきれず、予め水のボトルの近くに座り、覚悟を決めた。
 美味しそうと連呼するメンバーを見て、暑さで頭が変になったのだろうと思い、地球温暖化の深刻さを身に染みて実感した。そんな中、一口食べるたびにコップ一杯水を飲む私の様子に気づいたのは、一番遠くの席にいた聡太だった。店を出る時に、何言わずにミルキーを差し出してきた。
「そんな小さなことがいっぱいあって、私の気持ちは大きくなりました。そして、好きになりました」
 とうとう私は告白してしまったようだった。
聡太の真っ直ぐな瞳が私の目と合い、そして笑った。
「ありがとう。七海ちゃんは後一週間あるし、俺も今日結果出すって分かってたのに、気持ちを伝えてくれて嬉しい。でも」
 ああ、やっぱり。このタイミングでの「でも」でうまくいった例はほとんどない。
「俺は今日、このチケットを使うことを辞退した。七海ちゃへに告白するか迷ったけど、好きっていう感情があっても、俺自身がまだ素を出し切れてないなって思ったから。例えばさ、俺って実はSっぽいんだけど、そういう一面とかって出せてないだろ?だからお互い分かり合えたとは言えない状態だと思うんだ。本当にごめんなさい」
 こうして、聡太は唐突にS系男子であったことを公表し、私は振られた。

 電車を降り、急いで出口案内を探す。エスカレーターに乗ったところで、ようやくずっと鳴っていた携帯に出る。
「ごめん、まだ駅」
「じゃあ先店入ってるから来てね」
「分かった。ごめんね、本当に。後五分くらいしたら」
 言い終わらないうちに電話が切れる音がした。私は急いで再び駆け足になり、人混みに
溶けていった。私のこの小さすぎる悲しみは、当たり前に誰も気がつかない。だからもっと駆け足にならなければ。そう思った時、何かにぶつかった。
「え、七海ちゃんじゃん」
 聡太だった。もう2年も会っていなかった。
聡太はあの時の高一の時のあどけなさはなくなり、高三、いやもっと大人見えた。
「あ…久しぶり、だね。どうしたの?仕事?」
「そう。事務所がこの近く」
 聡太の目は相変わらずまっすぐだった。あの野球場での瞳を思い出した。
「そうなんだ。私は普通に遊びにきたの。ごめん、急いでるから。またね」
「あ、うん。またね…」
 私は出口の方向は分かってるのに、出口を探すフリをした。なぜか聡太がまだ私を見ている気がしていた。シンプル自意識過剰野郎がまた発動してしまった。
 私は待ち合わせの店に向かうまで、タピオカとチーズドッグを持っている人はどっちが多いか選手権を一人で開催した。結果は、タピオカの圧倒的勝利で、チーズドッグはこれから暑くなる時期に食べたくなるという私の説は実証された。
 というのは、本当は私がこの前原宿に来た時にやったこと。今日は第二回目を開催しようとしたができなかった。勿論聡太のせいだ。
 私はあれ以来聡太との関わりを絶っていた。SNSも全てミュートにしていたし、芸能事務所に所属していない私は、何かのイベントで会うこともなかった。
 だって私は、もともと派手な性格じゃない。

「あ、来たよ」
 そう言った綾は、すぐに私から目を逸らす。
私と三秒以上目を合わすと石になってしまうと言わんばかりのスピードで逸らす。でも、それは当たり前。
「ごめん遅くなって」
「大丈夫。あ、ななみんの分も頼んでおいたから。じゃあとりあえず、写真撮ろう」
 花はそう言いながら、お決まりのフィルターを用意する。私の視界には、私に用意されたバナナ味のケーキがあった。
 妙に濃い黄色で、どこにも自然さはない。私の嫌いなバナナ味。
「ハイチーズ」
 隣の席の葵が、目の前で大切なシャネルの財布でも盗まれたかのような大きさで目を見開く。だから私も、負けじと一瞬で最適の角度を探し出す。高校生活で身につけた唯一の特技だ。
「よし、食べよう。美味しそう!」
 みんなが口々に美味しそうと言う。この瞬間に、私の役目は終わった。
 みんな私と写真をとることが目的なのだ。私が可愛いから。
 恋ステに出た後は、私もフォロワーが増えていたため、一般人以上インフルエンサー未満的な立ち位置になっていた。私は写真スポットとしての需要は、余計に高くなっていった。 
 高一の春、恋ステ好きな同級生たちが、学校で恋ステに出るなら誰かっていう話をし始め、気がついたら私は出演することになっていた。
 私も中学生の時から見ていた好きな番組だったため、対して抵抗なく参加を決めた。
 でも、とっても短い青春と引き換えに、みんなの私への露骨な態度に嫌気が差すこともあった。
 例えば、今日みたいな日。
「その後にさ、この時代にまさかの手編みマフラーで。びっくりしたのよほんと」
「引くわ〜。まあさすがだね。安定のキャラ」
「花そう言うの嫌いそうだけどね」
 考え事をしているうちに、もう話についていけなくなった。私のバナナ味のスポンジは、気づけば半分になっていた。
「そう言えばさ、ニコスターチの新商品買った?すごい良いリップって聞いたけど」
 と葵が言う。葵は生粋のお嬢様だ。全てを与えられ、常に何も考えていなさそうな、そして、本当に何も考えていない子だ。だから、いい意味で私のことも気にしていないし、私は葵と昔から仲良かった。
 ただ、葵は本当に何も気にしていないので、私を取り巻く環境だったり、私の人間関係だったりと、全て変化や複雑さに気がついていない。
 とにかく楽しくて明るい日々を過ごしている。
「私まだ買ってないんだけど、パパにおねだりした方がいいかな?」
 と葵が言う。
「いや、まだいいと思う。ニコスターチって、自然な艶感が売りだけど、実際は人によってひび割れとかしちゃうから。コラーゲンとヒアルロン酸を配合してるのにね。あと、爽やかなフルーツミントフレーバーってなってるんだけど、意外とフルーツ感はないの。まあ短時間だったら乾燥することはないから、買っても良いかもしれない」
「やっぱり綾に聞いといて良かった」
 やはり、葵は何も知らない方がいい。私は
綾が、ブランド物のボロボロ中古リップを購入し、綺麗にして中身だけ無理やり入れ替えていることを知っている。
 綾は私のフリマアプリのお得意様だからだ。私が使わなくなった古い化粧品を出品すると、半分くらいは綾と同じ住所のユーザーが購入する。知らぬが仏だ。
 綾は当然、ニコスターチなんて高級リップ、使ったこともないだろう。

 家に帰るとDMが届いていた。「今日はすごく偶然だったね。お互いなんとなく変わった気がしたな。七海ちゃんも大人っぽくなっててびっくりしたよ。」と書いてあった。
 私は恋ステが終わってから、普通の女の子に戻ります宣言をしていたから、出演していたメンバーともあまり連絡をとることがなかった。本当に約2年ぶりの会話だ。
 連絡したらすぐにでもあの時の気持ちが蘇ってきそうだった。2年経ってた今も、それは変わらない。
 「私もびっくりした。あの時のことを、ちょっとだけ思い出したよ。懐かしかったです」そう返信した。

 駅のホームに足が着いた。電車から降りても、まだ人混み地獄は終わらない。「トロトロしてんじゃねえよ」と言う声が後ろから聞こえてきた。こんなところで昨日食べた豚の角煮の片栗粉の量に文句をつけるとは何事か。そう思い、後ろを振り向いて豚の角煮おじさんを見た。
「早く歩けよ」
 苛立ちの矛先は、片栗粉ではなく私だった。
「すみません」
 と申し訳なさ全開の表情で謝る。眉毛をへの字にして、五度位首を前に傾け、声を一オクターブばかり高くする。これで、大抵の怒りは治るどころか、大抵向こう側も
「いや、大丈夫だよ。ごめんねこっちこそ」
 とか言ってくる。ならば初めから言わないで欲しい、とは思わない。もう慣れすぎたため、動作自体に感情がなくなったからだ。
「いや、大丈夫だよ。ごめんねこっちこそ」
 と、豚の角煮が言った。予想が大当たりしてしまったようだ。
「大丈夫?」
 聡太の声はすぐに分かった。なぜか落ち着きがある声。柔らかくて、どこも尖ってない声。
「同じ電車だったんだ」
 私が探していた反対側から、マスク姿の聡太の顔が見えた。聡太は恋ステ出演後もモデルやYouTubeの活動を通してどんどん有名になっていた。
「大丈夫。やっぱり東京はどこも人が多いよね」
「東京しか住んだことないのによく言うよ。ちょっとでも早く会えて良かった。行こうか」
 やっぱり聡太の声は優しかった。大きい手で、私の手を掴む。まだ全然慣れない。デートは二回目だ。
 私と聡太は、そういう間柄になっていた。

 駅を出て、公園に向かった。鳥の大群が鳴く声と、一斉に飛び立つ音が聞こえた。「なんか喋れよ。お前携帯で会話のネタ帳必死に作ってたじゃねえか。あ、そうだ。お前それ間違って削除しちゃったんだっけ。もういいや、知らない」と、鳥たちは確実にそう言っていた。付き合ってみて分かったが、聡太はあんまり喋らないらしい。会話をすれば盛り上がらなかったことはないくらい、面白いし、楽しいのだが、聡太から積極的に面白い話をしようと言う感じではないのだ。
「今日は昨日より全然あったかいね」
「暑いよな。もうすぐ夏だ」
 聡太が視線を空に移した。
 私は、なんてどうでもいいことを喋ってしまったのだろうと後悔した。今日は昨日よりもあったかいなんて、口にしなくても分かる。史上最強にどうでもいい情報を提供してしまったのだ。聡太も呆れただろう。
「夏、なんかしたいとかある?」
「夏ねえ。海、山、川。これを制覇したい」
「山川?海はわかるけどさ。山川って例えばどこ?」
「山川って一括りにして、苗字みたいに言うなよ」
 聡太が目を細めながら言った。
 なぜ私は山川の間に句読点を入れなかったのだろうと後悔した。日本の山川さん達に失礼だ。史上最強に紛らわしい言葉のチョイスだ。聡太もやれやれだろう。
「ごめんなさい」
「ん?何?怒ってないけど?」
「あ、いや、全国の山川さんに謝ったの」
 そう言うと、聡太は私の顔を見下ろした。
「ほら、じゃあ今もう一回ごめんなさいして」「え?ごめんなさい」
 私の声には戸惑いが含まれていた。聡太はまた目を細めながら笑った。
 告白されてOKした時も、聡太は目を細めて笑っていた。高校が男子校だった聡太は、私が初めて真剣に考えた相手だったらしい。
 その後仕事でいろいろな女の子と会う機会があったけど、会った分だけ私のことが忘れられなくなったと言っていた。
 何回か電話したり、お互い進路のことや自分のことなど相談していくうちに、楽しいだけじゃなくて、ずっと一緒にいたいと思うようになった、とも言ってくれた。
 ちょうど一ヶ月前、人がいないところまで遠出したいと言う聡太に付き合って、全然知らない駅の、全然知らない町まで出かけた。太陽が空をオレンジ色に染めた頃、たまたまあった公園のブランコに乗って、聡太は言った。
「好き」
 私が「え?」と聞き返すと、
「俺、七海ちゃんが好き」
 と、夕陽を受けてオレンジがかった瞳で私を見つめて言った。
「ごめん急に。でも、それが俺が今思ってること全部」
 私の顔は、真っ赤になっていたと後から聞いた。夕陽のせいでしょとは言えなかった。
 嘘だ。そんなはずはない。そう思った私は、強めに地面を蹴飛ばし、勢いよくブランコを漕いだ。急いで百からどんどん七を引いていった。計算の答えが合っているかはわからなかったが、一応頭は正常に働いており、夢ではないことを確認した。
「七海」
 その言葉を聞いて、私は必死にブランコを止めた。靴で地面がガリガリと鳴った。
「付き合って欲しい」
 やっぱり嘘だと思った。私とは違い、どんどんん遠くの存在になっていった聡太。私は電話していても、たまに自分が聡太と話ていることが信じられなくなる時があった。
 もう一度強めに地面を蹴飛ばし、勢いよくブランコを漕いだ。急いで一からどんどん七を足していった。やはり頭は働いた。
「…お願いします」
 この時の私の顔は、噴火直前の火山のようだったと後から聞いた。きっとUFOのせいだよ、なんて言えなかった。代わりに聡太は、「あの時は、今までで一番素直に感じたことを言葉にしたんだ」と言った。

 私たちは、公園の中を流れる川沿に歩いた。自然の中の川じゃなかったが、それでも聡太は嬉しそうだった。
「やっぱり、ちょっとでも自然のものに触れてるだけで心がお休みできる」
「そうだな」
「東京以外の場所だったら、ずっと心が休まるのかな」
「そうかもね」
 聡太はいつもとちょっと違う声で言った。
 私は、このまま大きい葉っぱに乗って、知らない町まで川で流れたい気分になった。
「結構遠くまで歩いたけど、疲れてない?」
「うん。大丈夫。私が行きたいって言ったのに、ごめんね」
「バカ。いいんだよそんなん」
 聡太は笑いながらそう言って頭に手を乗せてきた。私は照れるのを隠すために、聡太の手が重くて、頭が沈んでしまった感を精一杯演出した。
「照れてんの?」
「いや、手が重いから、俯いちゃう…」
 聡太が私の頭からそっと手を離す。私はまたもやミスをしてしまったようだ。手が重いなんて言ったら、まるで聡太の手が五十センチ位あって、食べるのがとてつもなく苦労しそうな人みたいになってしまう。きっと聡太は手が重すぎて、上手くケーキでも食べれない姿を想像して笑い転げているかもしれない。
「ほら、重くないだろ」
 聡太は私の顎を前に向かせ、もう一度頭に手を乗せた。私は体が樹齢千年の大木のように固まり、ロボットのように聡太を見上げた。
「俺にそんなに嘘つくなよ」
「ごめん」
「あと、ごめんも禁止。ごめんが口癖なのを治しましょうキャンペーンだからな」
 私は今、ごめん禁止キャンペーン中になったようだ。

 姉が私の部屋のカーテンを開け、日差したちが何の遠慮もなしに飛び込んでくる。
「もう、また閉めっぱなしにして。あんた一生一人暮らしできないよ」
 姉はせかせかと、窓を開け、換気する。
「ちゃんと新鮮な空気も吸わないと。病気になったらどうするのよ」
「そのくらいで病気になんてならないよ」
「ちゃんとしなさいよ」
「ごめ…あ、えっと、ご迷惑おかけします」
「はあ?どうしたのよ」
 姉はそう言って、お下がりの服を私のクローゼットにしまいだす。中には見たこともないようなドクロ模様のものもあったから、あとでフリマアプリにでも出品しておこう。
 姉は母みたいだ、昔から。ずっと姉の背中をみてきた私だが、今は姉が京都に一人暮らしているためなかなか会うこともできない。
「私には若すぎるから。ここ置いとくね」
「あ、うん」
「そうだ、進路とかどうするの?」
 姉が今日きた目的はこの話をするためだと、分かっていた。
 私は二つ違いの姉がいる京都の大学に行きたいと、少しだけ考えていた。ほんの少しだけだ。姉は4年になったら就活のためにほとんど東京にいるが、三年のうちはまだ京都にいるから、もし通うことになっても一年間は安心だ。そして、その後も見知らぬ土地ならば、自由にのびのびと、新しい一歩を踏み出せるかもしれない。 
 姉のいる大学は留学生が多いこともあり、みんな一人一人尊重し合いながら楽しく過ごしているようだった。姉に誘われてオープンキャンパスに行った時にちょっとだけ、ほんのちょっと、羨ましかった。
「何よ、黙り込んじゃって」
「ごめん…五面体ってどんな形だっけ」
「もう。相変わらずそんな変なこと言ってたら、心配じゃない」
 姉の顔は、多分花咲爺さんみたいだった。本当に心配しているようだった。
「私の通ってる大学とかどう?この前来た時、目がキラッキラしてたわよ。今はまだ五月だけど、夏とか推薦入試も始まるし。七海だったら、行けるかなって思うけど」
「まだ、あんまり考えてない」
「そう?まあ自分で決められるならいいけど」
 そう言って姉は、また私へのお下がりの服
を畳み始めた。

 今日の日差しは、強い。暑い。
「なあ、七海。そう言えばさ、高校卒業したらどうするの?」
 太陽で熱を帯びた銀色のベンチに座っている時、聡太は言った。もう蝉が鳴く季節だも終わりに近づいた九月中旬だった。
「ほら、付き合う前にさ、お姉ちゃんが言ってる大学とかいいなって思ってるとか言ってたじゃん。京都の」
「そうだっけ。まあ別にそんなに真剣には考えてないよ」
「そう。ならそれはそれでいいんだけど」
 私は姉の通う大学の推薦入試に合格していた。でも、まだ聡太には言っていなかった。怖かったのだ。折角東京で聡太と付き合って、ちょっとずついい方向に進んでるかなって思ってたから。でも一方で、このままだと私は、自分を変えるチャンスを逃してしまうような気がしていた。私は芸能人(仮)のような経験をし、キラキラJK(仮)のように高校生活を過ごし、インフルエンサー(仮)のような一面も持っていた。言い換えれば全てが中途半端で、自分の目標や、夢を見つけることから避けてきた人生だった。
「あのさ、もし私が京都に行きたいって言ったらどうする?」
「応援する。電話して、たまに会って喜んで、ずっと好きでいる」
「確かに寮だったら電話もできるし、聡太も大阪の仕事とかあるから、会えるかもしれないし、大学は長期休み長いからその時は東京帰って頻繁に会えるし、会って喜んでくれるかはわからないけど。でも私ほら、電話たまに気がつかないし、勉強忙しいかもしれないし、京都での新しい生活とかで精一杯かもしれないし。すごく不器用だから、いろいろ考えちゃうとさ、」
 言い終わらないうちに、聡太の唇が私に触れた。
「行ってこいよ京都。俺の気持ちは変わらないから。それに、受かってるんだろ?」
「え?なんで?知ってるの?受かってること」
「わかるよ。七海のことだぞ」
 そう言って、聡太は笑った。
「夏前から英語資格の勉強し始めたり、難しい本バッグに入れてたりしてだろ。最近は京都の本読んだり、一人暮らしのための雑誌とか、立ち読みしてたじゃん。気づかない訳ないだろ」
「そっか」
 聡太は気がついていたんだ。お互い忙しくて、あんまり会えなかったけど、それでも聡太は私のことを見ていてくれたらしい。
「前から、なんかモヤモヤ悩んでただろ。自分のこととか。でも、大学のこと考えてるんだろうなって思う時は、いつも七海は楽しそうだった」
「うん。楽しかったんだと思う」
「俺は七海が不安になるようなことは絶対にしない。それから、ずっとこの先も七海が好き。だから何も怖がるなよ。自分が行きたいって思うんだったら、行ってこいよ」
「え?私が京都に行ってもずっと付き合ってくれるの?」
「当たり前だろ。京都に行っても逃さねえぞ」
 聡太は目を逸らした。
「うん。私、長期休みは毎回一目散に帰って来る。それから、お姉ちゃんみたいに4年生になったら東京に戻って来る。ファッションマネジメントとか、デザインのこととかもちゃんと勉強して、一人前になって帰ってくる」
「そんな修行みたいに言うなよ」
 聡太は底抜けに明るい声で、笑いながら言った。私もつられて笑ってしまう。
「待ってるから」
「うん。待っててね」

 今日の日差しは、心地いい。
「おっ。久しぶり」
 聡太が私の荷物を軽々と持ってくれる。
「これが、最後の東京帰りだな」
 と聡太が言う。
 私は大学4年生になろうとしていた。春に少しだけ京都に行けば、あとはほとんど東京だ。
「ただいま」
「家じゃないぞ。ここは」
 そう言って、聡太が東京駅を見渡す。
「東京は人がいっぱいだけど、今は嫌ないっぱいじゃない。帰ってきたなって感じ」
「成長したんだよきっと」
「そうかな」
「そうだよ。これからも一緒に、成長して行こうな」
「うん!私頑張る!」
 聡太が笑う。聡太が私に顔を近づけるも、すぐに遠ざけた。
「やっぱり東京は人が多すぎるな。早く行こうか」
 聡太が綺麗な瞳で私と目を合わせ、屈託のない笑顔で微笑んだ。
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