第2話

文字数 1,254文字

 授業が終わり、ランドセルを背負って、男子たちはそれぞれの塾へと急ぐ。わたしの通う私立の小学校では、女子は付属の中学にあがれるけれども、男子は中学受験に向けて勉強しなければいけない。バス停を離れようとしている東急バスに駆け込んで定期をみせて、終点まで眠りこむ。
 月・水・金曜は塾の日。日曜は模試。木曜はピアノ教室。
 大森駅ビルRaRaの数件隣に建っているビルに駆け込み、エレベーターで五階に上がる。午後五時からのレッスンに、ぎりぎりで間に合った。
 ピアノなんかきらいだ。
 学校でも、塾でも、わたしはそう言い続けている。お母さんの考えで、いやいや習わされているだけだ。こんな女の子みたいな習いごと、さっさとやめてしまいたい。そう言ってみせる。
 力と書いて「りき」と読む。わたしの名前はお父さんがつけた。男らしく、力強く育ってほしい、という願いをこめてつけたんだそうだ。何度も何度も言われた。昔のプロレスラーとおなじ名前でカッコいいな、それにしてはナヨナヨしてんなあ坊主、と、お父さんの友達たちは酒臭い息をはきながらわたしをからかう。わたしは、この名前が好きじゃない。
 でも、そんなことをうっかり言おうものなら、またお父さんはわたしを叩くだろう。ロープでぐるぐる巻きにされて物置に押し込められて、わたしが土下座して謝るまでけっして許してくれないだろう。
 いま練習しているのは、こども向けに書かれたピアノ曲集のうちのふたつ。高橋先生は音大に通っている若い女性で、わたしが弾きたい曲を選んでいいのよ、と言ってくれた。
 わたしは、それぞれの曲につけられた題名と、譜面のてっぺんに描かれたイラストを見比べて、
「ぼく、この曲がやってみたい」
と、『星のまたたき』という曲を選んだ。先生が試しに弾いてくれたその曲は、図書館でいつか読んだことのあるわたしの好きな童話のイメージそのままの可愛い曲で、ピアノの右の方を中心に音符が並べられ、キラキラした高い音の響きがとても気に入った。弾いている先生の女性らしい細い白い指を追いながら、わたしもこの曲が弾きたい、と思った。
 弾き終わった先生は、譜面から顔をわたしの方に向け、
「りきくんらしい曲ね。わたしもこの曲好きよ」
とニコニコしながら言ってくれたので、わたしもつられてニコニコしてしまう。でも、その直後、
「あと一曲はなににする?」
と言われた途端、これからなにが起きるか想像できてしまって、不安と恐怖が混ざったような、胸の奥がキーンと冷たくなるような気持ちに支配された。
 男の子らしい曲、男の子らしい曲、と、二つ折りになった譜面をいくつも見比べる。尖った自動車のイラストが描かれた譜面が一番男の子らしいような気がした。
「『スーパーカー』ね。ふうん⋯⋯」
 先生はその曲も弾いてみせてくれた。テンポの早い、ずんちゃ、ずんちゃ、と左手でおんなじような音を弾き続けるような曲で、ちっともいい曲とは思わなかったけれど、いいや、と思った。これで、お父さんもほめてくれるだろう。もちろんお母さんも。
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