第1話

文字数 1,255文字

 ランドセルから飛び出して、宙へと舞い上がった譜面。必死で拾い集めようとするわたしをばかにするように、いったんアスファルトに降りたはずなのに、また譜面は浮き上がり、目のはじっこの方では、別の譜面がかさかさと道路をすべっていく。いかないで。その先には橋があり、川に落ちたら、子どものわたしの手では拾えない。頭上で踊る譜面たちを気にしながらも、道路を早足でかけていく譜面をわたしは追いかける。譜面は橋の上へとたどり着き、そこで直角に空へと浮かんだかと思うと、橋の下へと急降下していく。あわててガードレールにしがみつきながら見下ろすと、川の表面にくっつくかくっつかないかすれすれのところを舞う鳥のように、わたしの譜面は川の流れとともに飛び去り、ずっと向こうの道路の下に口を開けた真っ暗な空間へと吸い込まれ流れ落ちていく。

 夢から覚めたわたしは、冷たい汗で肌にひっつく下着に不快感をおぼえながら、布団を畳む。ふすまを隔てた部屋で寝ているお母さんと妹を起こさないようにそーっと引き戸を開けて、トイレをすませ、台所に立つ。戸棚から袋入りのインスタントラーメンを取り出して、鍋を火にかける。
 茹で上がるのを待っていると、台所のドアが開き、お父さんが入ってくる。髭剃りクリームとお酒の混じったにおいがする。
「おう、りき。おはよう」
 いい子は、お父さんにこう言われたら、お父さんおはようございます、とか、おはよう、とか返事をするんだろう。しっかりと、目を合わせて。それはわかっている。でも、わたしはお父さんの目が怖い。お父さんが怖い。
 無言のまま、ぐつぐつと煮えたつ鍋の中を見続けているわたしに苛立ったのか、お父さんはわたしの横に立ち、
「りき。おはよう」
ともう一度いう。鍋を見つめたまま、わたしは、
「⋯⋯おはよう」
とかすれた声をしぼり出す。
 お父さんがきびしい目でわたしの頭を見下ろしているのを感じながら、食器棚から丼を出して、ラーメンをそそぐ。テーブルへと持っていく。
 無言のままラーメンをすすり込むわたしを、お父さんは向かいの席に座ってじっと見ていたが、ガタッと大きな音をたてて立ち上がると、わたしの両肩をつかんできた。
「襟をしっかり出せ。だらしない」
 わたしの首元にごつごつとしたお父さんの手があたる。ため息とともに、台所のドアが閉まり、ややあって、玄関の扉がバタンッと大きな音をたてた。

 お父さんのにおいが充満している洗面所で顔を洗い、制服に着替えて、家を出る。家から一番近いバス停まで向かう途中に、よくわたしの夢の中に出てくる橋がかかっている。夢の中とちょっと違うのは、橋の両側にあるガードレールに、緑色の高い金網が縛り付けられていることだ。この金網は、つい最近あらわれた。金網には、完成予想図と書かれたイラストが結えられていて、この川を埋め立てて遊歩道にする、と書かれている。
 わたしは橋をわたり、大通りに出て、信用組合の建物の前にあるバス停で待つ。ややあって、新代田駅前行きの東急バスが坂をゆっくりとくだってくる。
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