居酒屋殺人事件①

文字数 2,393文字

 車体の低い黒光りの車が北山(きたやま)通りを突っ走る。パン屋やカフェなどオシャレな洋風の建物が並び、チャペルでは純白のドレスに身を包んだ新婦と、光沢のあるタキシードを着た新郎が、親族や友人に囲まれながら祝福されている。
 そんな様子には目もくれず、後部座席の椥辻はA4の封筒の中に入っていた用紙を見ていた。クリアファイルに挟まれていたのは二枚。一枚は履歴書で、項目はすでにパソコンで入力されており、氏名は『将軍塚登(しょうぐんづかのぼる)』となっている。もう一枚には京都市内に居酒屋を三店舗経営する会社の情報が載っていた。
「労働実態調査ですね」
 念のため確認すると、運転席にいる河原町子から愚問とばかりに「そうよ」と返ってきた。
「……新しい会社ですね。本店は街中から外れた所にあって、儲かれば街中に店舗を増やしていく。チェーン店の常套(じょうとう)手段でしょう。売上が安定するまでは、少しでも利益を上げるため細かいルールは守らない。京都は大学生が多いですしね。社会的な知識に乏しいアルバイトを大量に雇って成り立ってる。社員が何か言ってきても『うちの会社は大きくないから』などと正当防衛のように言って、会社の知名度が低いうちは問題になることも恐れていない」
「無茶はやめてね」
 勝手にベラベラとしゃべる椥辻を町子が牽制(けんせい)した。椥辻の父親が居酒屋チェーンの店長として勤務し、過労死したことを彼女は知っている。
 スマホを手に取り、求人を検索する。三店舗全てでアルバイトの募集が行われていた。
「どの店舗でもいいんですか?」
「いいわよ」
 信号が黄色から赤に変わり、車が止まる。町子はメガネを外し、マイクロファイバーのクロスでレンズを拭いた。

 電源コードが抜かれた暗いスタンド看板が見え、店名を確認して階段を下りる。ビジネスバッグを手に椥辻が、木目調の玄関ドアを横に開いた。
「失礼します」
 入ってすぐの所にレジがあり、ファックス付きの電話機やタイムレコーダーの機械が目に入った。店内は縦に長く、左側にカウンター席、右側には四人掛けのテーブル席が、奥に向かって一直線に並んでいる。人の姿はなく、シーンとしていた。
 少し足を進める。左側から物音がして顔を向けると、カウンター席の裏にある厨房から作務衣(さむえ)姿の女性が出てきた。目が合う。
「3時半からの面接で来ました将軍塚と申します」
「そちらにどうぞ」
 テーブル席を指すが、椥辻が動かなかったので「どのテーブルでもいいですよ」と付け足した。真ん中の席に腰を下ろし、バッグからクリアファイルを取り出す。しばらくして彼女も椥辻の前に座った。
「店長の持田亜季(もちだあき)です。よろしくお願いします」
「将軍塚登と申します。よろしくお願いします」
「履歴書よろしいですか?」
 クリアファイルに挟まれていた履歴書を渡す。
「……大学を卒業されて、就職はしなかったのですか?」
「はい。特になりたい職業もありませんでしたので」
「そうですか。飲食店でのアルバイトの経験とかって、ございますか?」
「大学生の時に居酒屋で接客をしていたことがあります」
「なるほど。ホールとキッチン、両方とも募集しているのですが、ご希望はどちらになります?」
「キッチンでお願いします」
「ちなみに料理の経験とかは?」
「家で豚の角煮とか作ったりしてます。一人暮らしですので」
「へえー」
 持田店長が感心した。
「うちはシフト制になるのですが、週にどれくらい入れますか?」
「三日くらいでお願いします」
「あとランチもやっているのですが、昼って入れます?」
「すみません、夜だけでお願いします」
「分かりました。こちらからは以上ですが、何か質問はありますか?」
「シフトの希望はどれくらい出すのですか?」
「一ヶ月分出してもらいます」
「分かりました」
 椥辻がうなずく。
「では面接を終わらせていただきます。お忙しいところ、ありがとうございました」
「ありがとうございました。よろしくお願いいたします」
 持田店長が腰を上げ、玄関に向かう。ビジネスバッグを持ち、椥辻もついていくと、持田店長がドアを開けてくれた。もう一度礼を言って頭を下げ、店を後にする。
 特に何事もなく、不採用の場合のことも伝えられなかった。大丈夫だと考えていたが、もし不採用になれば、そこで任務は終了となる。そうなってしまった時を想像すると少し身が震えた。椥辻は気分転換に寺町京極(てらまちきょうごく)に寄ってから帰ることにした。

 翌日、採用を伝える電話が掛かってきて、無事に勤務することになった。夜の営業は夕方5時から始まり、その30分前に店に行く。白い割烹着(かっぽうぎ)を渡され、店の奥にある座敷で着替えてレジに戻ってくると、持田店長からタイムカードを渡された。
「着替えてから打刻ですか?」
「そういうルールなの」
「……分かりました」
 厚紙のカードをタイムレコーダーの機械に差し込む。
「これは毎回なんだけど、タイムカードを押したらスマホを私に預けてほしいの」
「はい……」
「仕事中にお客様の前でスマホいじったり、トイレに行って30分くらい戻ってこなかったスタッフもいて、ちょっと厳しいかもしれないけど、お願い」
「汚い手でスマホ触りたくないんで、大丈夫です」
 持田店長は笑みを見せ、カウンター席の横から厨房に入った。
「ここのお湯のみでお茶は自由に飲んでいいから」
 並べられた陶器の湯のみと、小さなサーバーに目を向ける。視線を前に戻すと一人の男性、佐位修司(さくらいしゅうじ)が黙々と鶏肉に串を刺していた。持田店長が「佐位さん」と声を掛けると、手を止めて振り向いた。
「今日から厨房で働いてもらう将軍塚くん」
「新人くんか。新人くんは焼き場に入ってもらおうか」
「……将軍塚と言います」
「名前で呼ばれたかったら、早く仕事を覚えるんだな」
「……」
 嫌な感じがした。ただの調査では終わらない、よくある胸騒ぎだった。椥辻は串を刺す続きをやることになり、持田店長は地上のスタンド看板に電源を入れに行った。
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