第41章 夜襲!勝沼宿脇本陣(前段)

文字数 2,819文字

 笹子峠で水分嵐子が狙いを定めた「あ奴」とは、川越藩潜入部隊の二番隊隊長・貢川保道のことである。

 嵐子が甲州街道大月宿で口入れ屋一家を全滅させたのは元禄十二年(一六九九年)四月二十三日の早朝。その夜、予定通り大月宿に集合した二番隊の面々は、宿の一室で今後の行動について話し合った。

 嵐子もその場にいたが、副将格とは言え、客分である厳四郎のそのまた私的な家来という立場なので、部屋の端で黙って聞いていた。

 川越藩の者たちが厳四郎と嵐子の関係をどう見ているのか知らないが、旅籠では必ず二人のために一室が用意される。その日も同じであった。

「口入れ屋、代わりが見つかってよかったですね」
「そうだな」と、厳四郎がぼんやり答えた。窓際で半分よりほんの僅かに欠けた月を見上げながら。
「何かご不満でも?」
「いや。うん。石和の渡しで待ち伏せするという案も悪くはないが、俺なら夜襲だな。勝沼宿で夜襲を掛ける」
「どうして勝沼?」

「うん? ああ。連中にぴったり付いて見張っているわけではないから絶対とは言えないが、恐らく、勝沼宿が連中の当面の目的地なんだと思う。甲府の藩庁と連携するにしても、大月では遠すぎるからね。だとすれば、勝沼に着けばひと安心。その夜は油断するに違いない。狙い目だ。それに、勝沼で戦力を削るなり、足止めするなり出来れば、金山の探索に向かっている典膳殿の助けにもなる。石和では遅い」

「厳四郎様、さすがですよ。どうして言わなかったんですか」
「言っても仕方ない。二番隊の指揮官は貢川さんだからな。あの人にはあの人の計算があるのだろう」
 厳四郎は先代藩主の子であるが、不遇な育ちのため、我慢することに慣れてしまっている。一大決心をして柳生の里を飛び出してきたとは言え、性格までは変わらない。

 厳四郎の少し残念そうな横顔をチラリと見て、嵐子は、邪魔者の排除を心に決めたのだった。

 翌朝、嵐子は大月宿からまたも単独で先行し、笹子峠で貢川が来るのを待っていた。そして、貢川が配下二人を連れて現れると、今度は鶴瀬の関所まで駆けた。柳生藩の伝令として方々に出向く彼女は関所役人のあしらいには慣れている。それらしい物言いで不審者の接近を告げた。

 思惑通り、貢川ら三人は厳戒態勢を取った関所を避け、少し引き返した後、散り散りに山中に分け入って行った。

 標的の貢川は街道を逸れた山裾沿いに歩を進める。直心影流を遣うそうだが、なかなかの健脚である。付かず離れず、嵐子がそれを追う。

 広い栗の林に入った。視界が切れ切れになる。暗殺には格好の場所と言えよう。

 林の中程にひと際大きな一本の栗の木があった。嵐子は、大木の根元に女が一人いることに気付いた。
 三十前後、農家の嫁と思われるその女は、まったくの無警戒。着物の裾を豪快に捲り上げて用を足していた。健康的な太腿が妙に目立つ。すると、前を行く貢川がおもむろに両刀を脱した。そして、女の背後に忍び寄り、女が立ち上がると同時に当て身を喰らわせたのである。

 まったく、男って奴は!

 嵐子にも身に覚えがある。伝令任務の途中、野宿をしているときに何度かあった。無論、彼等は嵐子の体に指一本触れる前に、全員が命を落としている。

 嵐子は、目の前でいきなり始まった狂言に呆れつつ、同時に、しめた、と思った。いくら厳四郎のためだと主張しても、ただ殺したのでは間違いなく怒られる。何せ、大月宿でやらかした直後なのだ。

 厳四郎は柳生の兵法者である。勝つためなら詐略も使う。大勢で一人を囲んで討ち取ることも厭わない。しかしそれは、あくまで侍同士の対等な闘争においてのことだ。武士が道端の婦女子に乱暴を働くなど、決して許さない。万一、貢川を殺したことを知られても、これなら言い訳できる。

 嵐子は、音もなく貢川の背後に迫ると、彼の右の肩を軽く叩いた。袴の紐をほどき、今まさに事に及ぼうとしていた貢川はビクッとして振り返った。驚愕に表情がゆがむ。

 その刹那、嵐子が腰の後ろから脇差を一閃させた。

 目と口を大きく開いたまま、貢川の首が胴を離れて宙に飛んだ。貢川に当て身を喰らわされて気を失っていた女は、体の上に貢川が倒れ込んできた衝撃で目を覚ましたが、自分の上に首のない死体が載っているのを見て、再度気を失う。

 嵐子は、その様子をぞっとするほど冷たい目で見下ろしていた。

 さて、問題はこの後だ。こ奴が死んだことを皆に知らせなければ、隊の指揮権が厳四郎に移動しない。次の集合場所に行く前に散った二人を探し出し、丸め込まないと。そして、彼等から厳四郎や他の者たちに説明させるのだ。もし逆らえば・・・。

 死体を埋めてしまいたいが、さすがに面倒だ。懐にあった長財布と刀だけを少し離れた木の根元に埋めておく。
 そして、貢川の胴体のところに戻ると、足元から袴をずるりと引き抜き、手早く袋状にした。血と泥にまみれて地面に転がる首を包み、背に担ぐ。何事もなかったかのように歩き出し、栗林を抜けると一面のそば畑。発芽したばかりか。黒い土の上に無数の小さな小さなハート型の若葉が。嵐子は何やら嬉しくなり、鼻歌交じりに駆け出した。

 その二日後の未明、甲州街道勝沼宿、脇本陣の裏手。今まさに、厳四郎と嵐子が夜襲を仕掛けようとしていた。

 厳四郎は腰に大小、胡桃染の小袖に裁付袴。袖が邪魔にならないようにたすき掛けだ。額には簡易な鉢金を巻く。一方の嵐子は、腰の後ろに脇差一本、身は黒装束。嵐子常用の筒袖と伊賀袴はリバーシブルで、裏返すと黒に近い紺色となるのだ。さらに、性別を隠すため頭と顔の下半分を黒布で覆っている。

「お嵐。お前は塀を越えたら玄関を突き破って、警護の連中を出来るだけ引き付けてくれ。俺は庭から上段之間に侵入する。目指す間部詮房は、恐らくその隣の部屋にいる」
「どうして分かるのですか」
「上段之間は大名のための部屋だ。間部という奴、至極真面目な男らしい。分を弁えて必ず隣にいる」

「なるほど、さすがですよ。では、厳四郎様、ご武運を!」
「ああ。せっかくお前がくれた機会だからな」
「あっ、分かってました?」
「お前、俺を舐めてるだろ。分からないわけがない。ともかく、感謝しておくよ。行くぞ!」
「はい!」

 厳四郎と嵐子は、脇本陣裏手の塀にぴたりと身を寄せた。厳四郎が、少し離れた通りの角に控える二番隊の残りの四名に合図を送る。彼等は二人が接近戦、二人が弓の準備をしている。厳四郎と嵐子が塀を越えた後、直ちに正面に回って待機。目標が正門から外へ逃げ出た場合、これを待ち伏せして討ち取る手筈なのだ。

 厳四郎は嵐子の背中を借りて塀を越えた。嵐子は軽々と跳躍してその後を追う。そして、二人は一度目を合わせ、互いに頷いた後、厳四郎は建物を左回りで庭へ、嵐子は右回りで玄関へと向かった。

 狙うは甲府中納言の片腕・間部詮房の首。ちょうど、夜空を優しく照らす逆さ三日月が雲に隠れた。

次章に続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

狩野吉之助(かのう・きちのすけ)


本作の主人公

男性、35歳、既婚


題名の「狩野岑信」は、彼が御用絵師として用いた名前

後にもうひとつ、「松本友盛」という別名(むしろ本名)を持つ。


江戸画壇の総帥・狩野常信の次男

兄に優る絵画の才能を持ちながら、勘当同然に家を出された。

甲斐で山役人として生き直していたところ、偶然の出会いから風雲渦巻く江戸に戻る。

その後、絵師と武士の二刀流で主君のために奮闘する。


身長六尺二寸(約185cm)の大男

絵師とは思えぬ厳つい面貌


得意とする武術は杖術(山役人になってから習得)

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み