第17話

文字数 2,444文字

 窓の外はいつの間にか真っ暗だった。もちろん変わらず雨も風もうなっているのだろうけど、窓に散らばる水滴が見えなくなったぶん、もしかしたら意外とたいしたことないんじゃない、と猫山は期待したくなる。いくらお迎えがあるからといって、車に乗りこむまでに濡れたらたまらない。本当は玄関口までつけてくれるのが一番いいのだけど、堅苦しい総務から敷地内に部外者を入れるな、と口酸っぱく言われているのだ。
 私の彼氏なんだから身内みたいなもんじゃん、と猫山は内心べーっと舌を出した。
「お気楽な仕事ぶりだな」
 冠野は皮肉たっぷりに血走った目で猫山をにらみつける。もはや収拾がつかない、と冠野は独断でリクエストを募り、残り時間は音楽をかけまくるという流れに変えてしまった。猫山は頬をふくらませて不満を訴えたが、「こんな醜態、これ以上さらせるか!」と怒鳴られた。
 それきりADはせっせとCDを用意しているし、冠野のしゃべりはアドリブだし、猫山のやる気は完全に失せた。もはや自分の手を離れた、と悟った猫山はさっさと気持ちを切りかえて、彼氏にLINEを送った。
【今日、早めによろしく】
 すぐさまウインクしたクマのスタンプが送られてくる。猫山よりかわいいもの好きの彼氏だ。そんなところがいじらしい。
 しかし、飄々としている猫山が冠野は気に食わないらしい。冠野はベテランでステレオタイプの人間だ。もともと猫山とはそりが合わない。日ごろの鬱憤が爆発したようだった。
「適当な仕事ばっかしやがって。おまえ、なめてんだろ。ちょっと色目使って上に気に入られてるからって、なんでもしていいと思うなよ。ちゃんと責任感と自覚を持って番組作れよ。新入社員かよ」
「今年で十年目ですー」
「わっ……かってんだよ、そんなことは! だったら中堅らしくしっかり仕事しろっつってんだよ。遊び半分のノリでやりやがって。ふざけんな!」
「適当にやらないと、久知良さんみたいになっちゃうじゃないですか」
 猫山は返信するスタンプをどれにしようか悩む。冠野は虚を突かれたように「は?」と二の句が継げずにいる。
 芸人が【サンキュー】と笑っているスタンプを送る。猫山はかわいいよりも面白いを重視する。一時は謹慎処分を受けていた芸人だが、最近活動を再開したばかりだ。ここぞとばかりに猫山はスタンプを乱用している。どや顔で笑っている芸人の顔は、とてつもなくウザい。ウザくてくせになる。
「おま……猫山。今、なんつった?」
「適当にやらないと、久知良さんみたいになっちゃうじゃないですかって」
「本当にそのまんま繰りかえすな! どういう意味だ? さっきのメッセージ信じてんのか? 久知良さんがこの職場訴えてるって」
「うーん、そこはまあ、信じてるっていうかー」
「はっきりしろよ! なんだ? 久知良さんからなんか聞いてんのか? 職場の愚痴でも言いあったのか? 労働組合でも作ってんのか?」
「あー、作ろうとしてましたねー。私は面倒くさいんで入らなかったですけど。仕事するうえにそんな活動してたら、コンサート行く時間なくなりますもん」
「おまえ、俺のこともなめくさってんな。おい、知ってることあったら言えよ。久知良さん、なにしようとしてんだ? 訴訟でもしようとしてんのか? 職務放棄なのかずっと席空けてるって、上もご立腹なんだよ。責任者会議でのもっぱらの懸念事項だ。なにかわかったらすぐ報告するよう言われてる。猫山、吐けよ。久知良さん、どこだ? なにしようとしてる? 答えろ!」
 冠野は恫喝した。ラジオでの陽気なキャラクターはどこへやらだ。彼がいらちで器の小さい男だということを、猫山はもちろん重々承知していた。だからこそ、ふわふわと適当にかわしていたのだが、こうも真っ向から絡まれると面倒だなあ、とため息をついた。その反応が、さらに冠野の神経を逆なでする。
「おい、なんだそのため息。おまえ、生意気なんだよ。いっつも浮ついた格好してヘラヘラしやがって。おまえみたいな平社員なんかどうとでもできるんだからな。寿退社のきっかけでも作ってやろうか、おい? 聞いてんのか、おい!」
「久知良さん、もう死んでますよ」
 猫山は温度のない声でそう告げた。冠野の表情筋がぴくぴくと痙攣する。彼女はスマホにじっと視線を注いだままで、冠野には目もくれない。彼氏とのLINEに集中している。【このスタンプウケるwww】と律儀に返してくれるところが愛おしい。調子に乗った猫山は煽り顔の芸人スタンプをさらに送りつける。即座に既読がつき、大笑いしているクマのスタンプが返される。小気味いいキャッチボールが楽しい。こういうテンポの合うところが好きなんだよなあ、と猫山はしみじみ思う。顔は全然好みではないのだけど。
「……猫山、おまえ今なんつった?」
 それに比べて直接会話しているくせに、この人はなんでいちいち突っかかったり聞きかえしたりするんだろう、と猫山は不思議でならない。合わないんだよなあ、テンポが。顔ももちろん好みじゃないけど。
「久知良さん、もう死んでますよって」
「だから、本当にそのまんま繰りかえすな!」
 すぐに噛みついてくるし。この人どんなスタンプ使うんだろう。別にLINE交換したいなんて思わないけど、それだけ知りたい。
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味ですー」
「ふざけんな! 久知良さんは今わけのわからん電波使って、あることないことつぶやいてんだろうが!」
「そうなんですよねー。それはびっくりです。久知良さん、よっぽど恨みが深いんじゃないですかー、この放送局に」
 猫山がそっけなく突きはなすと、冠野は黙りこんだ。そこで猫山は初めて彼に目を向けたが、冠野は顔面蒼白でうなだれている。この人、もとから顔色悪いのになあ、と猫山は冷静に観察する。
 だから、適当にやるのが一番なんだって。
 猫山はチュー顔の芸人スタンプを押して、スタジオを出た。
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