第1話

文字数 3,729文字

 実の姉が急死したと警察から聞かされても、新介には特に何の感情もわかなかった。
 せいぜいが、
「警察と関わるなんて、面倒だなあ」
 と思った程度で。
 姉のことを愛していたわけではない。むしろ姉弟仲は悪かったのだ。
 しかしすでに両親は他界し、ここ何年も親戚づきあいなどしていないのであれば、
「死体の身元確認には、自分が警察署へ出向くしかないのか」
 と、あきらめるほかなかった。
 こんな場合に頼れる友人もおらず、趣味もなく楽しみもなく、外出といえば職場へ出かける時か、最低限必要な買い物のみという暮らしを何年も続けていた。
 姉の名は佐田直子といった。新介の名は、佐田新介ということになる。
 まだ子供だった頃から、姉は新介にとって『目の上のタンコブ』のような存在だった。
 特に新介が中学1年に入学した時点で姉は3年生で、なんと生徒会長をしていた。
 女子が生徒会長というのは、当時は珍しいことだった。
 言ってみれば姉は、学校のマドンナだったのだ。
 新介が入学した初日、教師の言葉からしてこうだった。
「やあ、君が直子さんの弟かい?」
 校内で、新介の呼び名が決定した瞬間だった。
『直子さんの弟』と同級生も新介を呼んだ。
 ついに廊下ですれ違いざま、校長までがその名を使った時、堪忍袋の緒が切れた。
 その翌日、新介はテスト答案の氏名欄に記入したのだ。
『1年1組 氏名:直子さんの弟』
 呼び出されて怒られるかと思ったが何もなく、採点された答案が正常に返却された時には、体中の力が抜けた。
「ねえ直子さんの弟君、直子さんは今日はお忙しいかしら?」
「なあ直子さんの弟君、今度の日曜、直子さんを映画に誘いたいんだが、君の口からきいてみてくれないか?」
「おお直子さんの弟君、直子さんの昨日の演説は、なかなか立派だったね。さすがは生徒会長だ」
 だが生徒や教師たちの反応も、わからないではない。
 あの学校においては、姉一人が勉強のレベルや偏差値を引き上げている感があった。
 何かのコンクールで賞を取るのもいつも姉。
 善行で警察から表彰されるのも、新聞記者から取材を受けるのもいつも姉だった。
 その姉が今、新介の目の前で、冷蔵庫から引き出されて来たところだ。
 死体の確認は警察署でするものと思っていたが、意外にも検視局へつれてゆかれ、そこでご対面となった。
 壁一面が何十もの銀色のドアで埋めつくされた広い部屋があり、そのドアの一つが開いて、まるで引き出しのように姉は滑り出てきたのだ。
 その手際のよさに、新介は少し感心した。
 部屋の中には線香がたかれ、煙があたりを漂っている。
 ひき逃げだったのだ。
 一日の勤務を終えた夜遅く、駅から自宅への道でのこと。
 はねた自動車は、衝突後にブレーキをかけた形跡すらない。
「ご遺体はあなたの姉、佐田直子さんに間違いありませんね?」
 と刑事が尋ねるので、新介はうなずいた。
 あまり興味もなかったが一応、被害者遺族らしいセリフをはいておくことにした。
「犯人は捕まりましたか?」
「まだ捕まりません。あるところに防犯カメラがあり、その映像に写っています。しかし盗難車でしてね…」
「そうですか」
「それにしてもお姉さんは残念でしたね」
「えっ?」
 意外な言葉に新介は驚いたが、若い刑事は少しはにかんだ顔を見せた。
「学年は一つ下ですが、僕も同じ学校へ行っていたのですよ。懐かしいです。クラスの男子の3分の1ぐらいは、お姉さんに恋をしていたんじゃないでしょうか。
 隠れて写真を撮って、お姉さんのブロマイドを作って売っているやつまでいましたから」
「…」
「先日も同窓会があって、学年は違うからお姉さんはもちろん出席しませんでしたが、みんなでいろいろと語ったのですよ。
 なにせお姉さんは学校のマドンナだったから、みな覚えているのです」


 姉の部屋へ立ち入るのは、新介はこれが初めてだった。
 新介も姉も独身で、両親の残した家に住んでいたが、姉の部屋には常に鍵がかかっており、本人以外は入ることができなかったのだ。
 生前から、本当に姉は誰一人として、この部屋に立ち入ることを許さなかった。
 友人を招いてもこの部屋に通すことはなく、家族の者も同様で、掃除から模様替えまで、すべて姉は自分ひとりの手で行った。
 ひき逃げ事件はまだまだ解決しないが、とりあえず姉の私物だけは警察から返却されたので、その中にあったキーを用いて、新介は姉の部屋へはじめて足を踏み入れたのだ。
 意外にも、姉の部屋の内部は乱雑だった。
 姉の性格から、もっときっちり片付いていると思っていたので少し驚いた。
「姉の所有物のうち、売れるものは勝手に売ってやろう…」
 と新介は考えていた。
 そんな新介の目に、金庫が目についた。
 家庭用としては場違いなサイズで、戸棚の影に隠すように置かれていたのだ。
 目立たない黒に塗られ、2枚の鉄扉が手前に開くようになっている。
 扉には鍵穴があり、もちろんロックされていた。
 しかしそのキーに新介は見覚えがあった。
 先ほどの私物の中に、長い金色のキーが目についたのだ。
「きっとこれだろう」
 試してみると、はたしてそれが金庫のキーだった。
 鍵穴にピタリと収まり、カチンと気持ちの良い音がする。
 つまり姉は、このキーを常に肌身離さず身に着けていたということだ。
 新介は、恐る恐る扉をひき開けた。
 金庫の内部には、雑然と物が積み上げられていた。
 写真立てや個人的なノート、学校の教科書といった、金庫の中身にふさわしいとは思えないものばかりだ。
 その中である物が、新介の目をひきつけた。
「あっ」
 と思い、手に取ると、ボール紙製のカードなのだ。
 いかにも子供向けの商品で、鮮やかな色で、文字と写真が両面に印刷されている。
「くそっ…」
 思わず新介は、悪態をつかなくてはならなかった。
 そのカードには見覚えがあったのだ。
 見覚えどころか、これはかつて新介の所有物だった。
 小学生時代、新介は怪獣ものの映画やテレビ番組が大好きで、いつも見ていた。
 学校でも、友人たちとは怪獣の話ばかりしていた。
 そういう新介の宝物は、怪獣の名と写真が印刷されたハガキ大のカードだった。
 1枚何円と駄菓子屋で安く売られていたのだが、新介は何十枚と買い集めた。
 それを毎日眺め、大切にしていたのだが、その中の1枚がある日、行方不明になった。
 しかもそれは、最も気に入っている火炎怪獣のもので、新介は家中を探し回ったが、結局発見することはできなかった。
 泣きべそをかき、とうとう捜索をあきらめたが、その後の数日間を文字通り新介は涙とともに過ごし、ショックがあまりにも大きかったのか、あれほど好きだった怪獣への情熱も、急速にしぼんでいったのだ。
 それ以来、何事かに熱中することも関心を持つことも、新介はきっぱり止めてしまった。
『何かを好きになると、それだけ失ったときの衝撃も大きい』
 と小学生なりに学んだのだろう。
 それ以後、新介は何事にも情熱を燃やさず、深く関わることを拒否する人間へと成長していった。
 そして今、その火炎怪獣のカードが金庫の中から出てきたのだ。
「これじゃあ、犯人が誰か分かりきっているじゃないか…」 
 新介が言うのは、もちろんひき逃げ犯のことではない。
「姉が盗んで、ここに隠していたのだ」
 そう思って見回すと、思い当たらないこともない。
 例えばこの金庫の中、怪獣カードの次に目についた数学の教科書だが、高校生用のもので、裏返すと所有者の名が書かれている。
 女の名で、新介に覚えはないが、かつての姉の同級生ではなかろうか。
 そういえば、
『理系クラスへ進みたいと数学の猛勉強を始めた誰かが、そのとたんに数学の教科書を紛失してしまい、大いに困っているらしい…』
 という話を、姉が母親にしているのを小耳にはさんだ記憶がある。
「ははあ」
 と新介はうなずいた。
 幼い頃からずっと、姉は『良い子』
 小学校へ入学してからも、常に『優等生』で通っていたのだし、家族としても疑ったことは一度もない。
 しかしどうやら、見かけの姉と真実の姉との間には、かなりの乖離があったようだ。
「おやおや」
 その次に発見した物体は、新介の確信をさらに深めた。
 大学入試の受験票だった。日付は10年弱の昔。
 つまり姉自身が受験生だった時期に重なるのだ。
 貼り付けられている顔写真にも、氏名にも見覚えはないが、これも姉の同級生なのだろう。
「受験票を紛失して、この受験生は受験できたのだろうか」
 新介は思いをめぐらせたが、まず受験は不可能だったろう。
 姉の行為は、新介自身を含め、少なからぬ人々の人生を狂わせたのだ。
 新介は、金庫の中の品々を調べ続けた。
 そのたびに、隠されていた姉の姿が浮かび上がる。
 そのバラエティーに、新介は退屈する暇もなかった。
 誕生日プレゼントだったのだろう。誰かの名が裏面に刻まれた女物の腕時計。
 どこかの男の名が書かれた表彰状が細かくちぎられて、封筒の小さな中に納まっていた。
 この男が何をし、何故に表彰されたのかすら、もはや新介は確かめるのも面倒だった。
 それほどまでに姉の『戦利品』は数多かったのだ。
 数え上げれば15点近い。
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