大津と安川

文字数 5,460文字


俺がセンパイの代わりに板長から話を聴けばいいんでしょ。楽勝っすよ。
安川がそう請け合ってくれたから、大津の憂鬱は少しばかり晴れた。町役場で使っている軽自動車に乗って片道10分かそこらのドライブに、安川はたいして必要もないのにガソリンスタンドに寄りたがる。午後の県道は閑散として、対向車線の路側にあるスタンドに車を入れるのも、なんの苦もないくらいに交通量は少ない。数日前の嵐が嘘のような好天で、確かにドライブにはいい陽気だと思えた。これが仕事でなければ隣にいるのが職場の後輩であっても、案外悪くないかもしれない。

安川はスタンドに車を入れると、小走りに歩み出た従業員に、レギュラー満タン、トイレ貸して、と声をかけて車を降りた。一緒に降りて後ろをついて歩く大津は、自分の表情も足取りも冴えないことを自覚はしているが、それを取り繕う余力もない。何が自分を憂鬱にさせているかといえば降って沸いた仕事で、誰かに押し付けようにもその相手もいないのだから仕方がない。逆に言ったらどうして安川がこんなに機嫌良くしていられるのか、大津にはさっぱりわからなかった。

大津は町役場の保健衛生課に勤めている。数日前に町内の旅館で食中毒騒ぎが発生して、その調査報告をまとめる仕事があり、関係者に聞き取りをするため後輩の安川を連れて出向いてきた。地方遊説中の国会議員が宿泊先の夕食中に体調不良を訴え緊急搬送され、一時は危篤状態にまでなったが持ち直し、現在は退院している。明確な原因が不明ということだったが、症状から判断するに食中毒が疑われ、食事を提供した調理場への聞き取りが必要になった。それが大津の憂鬱の種だ。海辺の集落でただひとつ営業する料亭旅館、そこの板場へ聞き取りのためにお伺いしたいと電話で事前連絡すると、料理長はどうやら初老の男性で、大津はこの手のタイプにはめっきり弱い。アポイントを取るだけで憂鬱になり、会う前から帰りたくなる。


子供の頃不在がちな父親の代わりに、家にいたのが強権的な祖父で、舅の顔を立てなければならない母親の、膝の後ろに隠れながら成長したのがいけなかったのだろうか。そのくらいの年齢の男性を相手にするのは大津にとって苦痛以外の何者でもない。苦手が貼り付いた顔で受話器を握りしめて唸っている大津を見かねたのか、数年前に配属替えされて自分の部下になった安川が、自分から一緒に行きましょうかと声をかけてくれたから、素直に甘えることにした。それがこのドライブの理由だ。

安川とは同じ中学校を卒業した仲で、部活も同じバスケ部の後輩にあたる。だから卒業して軽く十年は過ぎた今でも、大津のことをセンパイと呼ぶことに何の違和感も感じていないらしい。「だって実際センパイじゃないすか。俺、配属替えで保健衛生課( ここ )に来たばっかですもん」そう言って微笑む安川は元福祉課の高齢者担当で、年配の相手と話すことに慣れている。そういう意味でも今回の件に適任と言えた。

二人並んで用足しをして、車に戻る前に自販機で缶コーヒーを買って渡してやると、早速タブを起こした安川が甘い液体を啜る音が微かに聞こえる。フロントガラス越しに差し込む陽光がほの暖かく、二人の胸元を照らす。カーラジオが告げる道路交通情報と気象予報を聞いた後、少し音量を下げてから、大津が窓を細く開けて換気すると、潮の匂いを混ぜた空気がゆるりと流れ込んできた。……悪くないどころか、実に快適な絶好のドライブ日和ではないか。

「食中毒がらみの仕事って、よくあるんすか」
「俺も初めて、ってわけじゃないけどね。届けがあれば一応記録はせにゃならんしな」
「でも今回は集団食中毒でもないでしょう? 被害者は一人だけだし」
「本人の体質に起因する食物アレルギーってこともあるから、判断の難しいとこだね」


実際この件では、一緒に食事をしていた同行者からは被害者が出ていない。食中毒、というのはあくまでも症状から判断した「疑い」であって、その後保健所が立ち入り検査をした調理場からは、疑わしい菌の検出もなかった。ただその「被害者」がそれなりの知名度がある代議士だったことが、調査報告書が必要だとされる理由だ。これが一般人の身におきたことなら、調査報告どころか表沙汰になるかどうかも怪しいくらいだ。事実警察は一通りの調べを済ませ、食中毒ではなく本人の体調不良によるものと結論づけたらしかった。

「だからまあ、おれたちも通り一遍の調査報告書をまとめて、発生の経緯とその後の対応を記録するとこまでがお仕事、ってこと。大丈夫、お前がうまいこと聞き出してくれたら、紙にまとめるのは俺がやるからさ」

ご機嫌をとる必要もなさそうな様子の安川に、せめて無用の不安はかけまいと大津はこれからの段取りをそう説明する。安川はラジオから流れる軽快なエイトビートに合わせ、指先でパタパタとハンドルを叩きながら頷いた。

スタンドを出てからいくらも走行しないうちに、庭木の緑をはみ出させた旅館の白壁が見えてきて、正面玄関を通り過ぎた車は裏にある駐車場へと回り込み、そこから小さな路地を抜けて板場の勝手口へと向かう。引き戸の横に置かれたベンチのような長椅子には、初老の男性が白衣を着て腰を下ろしていた。どうやら電話で対応してくれた板長が、大津たちの来訪を待っていてくれたらしい。
挨拶くらいはまともにやろうと安川と並んで腰を折り、慇懃に名刺を差し出す。お手数おかけしますがと大津が言うと、うんああ、この間警察にも話したその繰り返しでよけりゃと言って、板長が頭に被った白い帽子を外す。大津は短く切り揃えたごま塩頭の角刈りを見ると、とっくに他界した祖父を思い出し、二言目には暗唱してみせる軍人勅諭まで思い出して辟易とする。やはり安川を連れてきてよかったと思いながら、大津は半歩下がって安川の腰に手を回すと前に押し出し、そこから先を任せることにした。


「このたびは大変でしたねえ」
「妙なことで有名になっちゃったよ」
「でも議員さんも退院したようですし。大事にならなくてよかったですよ」
「お役人さんが二人も出てくるんじゃあ、立派な大事じゃないのかね」
「いやまぁ、当日の話をちょこっと聞かせてもらうだけですから」

事故当日はいつも通り昼過ぎ頃板場に入って、午後三時からの仕込み。夕食が始まったのは午後六時半、七時過ぎた頃になって、被害者が『口がピリピリする』と言いだして、そのうちに呂律が回らなくなり、手に持っていた小鉢を取り落としたところで秘書が動いて、救急車が到着した七時半過ぎには四肢に痙攣が認められている。そこまでは帳場と消防から聞き取り済みだ。
それで、当日の料理についてなんですがと安川が切り出すと、板長は白衣のポケットから短冊に切った和紙を摘み出した。横長の二つ折りになっていて、開くと達筆な筆書きで当日の献立が書かれている。客席に一枚ずつ配膳されるもので、先付、前菜、煮物椀、お造り、焼き物、鉢物、ご飯物香の物に水菓子と、それぞれの料理名と簡単な説明が書かれ、最後に日付と旅館の名前が記されていた。

料理名の横には、使用した食材名が鉛筆で手書きされている。ああこうしていただけると分かり易いですよと安川が安堵の声をあげて、コピーさせてもらえますかと尋ねる。板長がそれそのまま持ってっていいよと言ってくれたから助かった。
ところで食材の仕入れはどうされてますかと安川が尋ねると、それもほら、ここに書いておいたと言って献立の裏表紙を指さして見せる。裏表紙の余白には出入りの仲買人数軒の名前と、連絡先が手書きされていた。


山茂商店、浜仲水産、大和精肉店、フルーツの信国屋。商店名らしい数軒の文字列に一件だけ、ふりがなが欲しくなるような『櫂禅坊のロク』という文字が紛れている。無理して読み上げようと試みるよりも、安川は素直に尋ねることにしたらしい。指先で文字を示し、何て読むんですかと尋ねると、板長は紙を覗き込み首を前後させ、読みにくそうにピントを合わせて答えた。

「……あぁ、『かいぜんぼう』ですな」
「仕入れ先の業者さんですか」
「ええまあ。業者、っちゅうか、小学校の同級生ですわ。地物の魚貝なんかを頼んどります」
「へぇ、小学生からじゃぁ長いお付き合いですね。幼馴染、ってとこですか」

安川がそう問いかけると、いやまあ、それほど仲が良かったわけじゃあないんですよ。それこそ、取っ組み合いの喧嘩もしたくらいだし。そう言って板長は顎を引くと、額の一角を指で示した。

「ほらここ、もうだいぶ薄いでしょうけど」

そう言って料理長は眉尻の少し上を短く切りそろえた爪の先でなぞってみせる。言われてみればわかる程度の白い筋になった傷跡が、こめかみに向けて2センチくらい伸びていた。

……私らが子供の時分、小学校が不審火で燃えましてね。町が半分焼ける大火になって随分大勢焼け出されました。小さな村ですから、疑心暗鬼っていうものが噂を生むんでしょうな。櫂禅坊っていう盲坊主が集落のはずれに住んでいて、そこのロクって子が同級生だったんですが、五つか六つ上に姉さんがいまして。その女が火をつけたんだ、って噂が広まったんです。
その同級生は啞なもんで、ただでさえ虐められがちなのに、お姉さんのことを悪し様に言われても否定もできなくてね。子供っていうのは残酷なもんです。何も考えず思ったことを口にしてしまう。私も酷いことを口に出したもので、お前の姉さんが付け火したんだろうって言ったら、弟が掴みかかってきたんですよ。普段は口もきかないおとなしいのが、火がついたように暴れて取っ組み合いになって。よろけて転んだ先にあった机の角でぶつけた、その痕ですわ。


……随分と経ってから、小学校の用務員をしていた男が、タバコの火の始末を忘れていたと認めたそうですよ。可哀想なのはその同級生です。散々嫌がらせを受けて、盲人の父親とお姉さんと三人して集落を出ていった後でしたから。酷いことをしたって後悔しても、後の祭りですわな。

それから随分経って、正直なところそんなことがあったことも忘れかけてました。そしたら数年前、ふらっとその同級生が現れたんですわ。
手製の網に型のいいワタリガニが数匹入ったのを手に提げて、板場の裏口にやってきたんです。成長して啞が治ったのか、嗄れた声で呼びかけてきました。何年か前に戻ってきて、こっちに住んでるって言うんですよ。お互いすっかり年寄りですが、顔を見たらあれこれ思い出してね。あん時は悪かったって詫びたら、それはもういいから、これを買ってくれんかって言って、手に持ったカニを差し出すんです。ここいらは漁師町だが、型のいいのは街へ売りにでてしまうから、逆に地物が少なくって。丁度予約の客もいたんで、幾らかの金を渡してそれを買いました。
そしたらもう、客が喜んでね。存外身が詰まってて旨みが強いんですよ。

それからもたまに顔を出してくれるようになったもんですから、宴席の予約があるときは何かいいものがあったら入れてくれって頼んでるんです。地物は客に喜ばれるし、何より仲買通すよりも割安で、型がいいのを持ってきてくれるもんだから、重宝しとるんですよ。

安川は退屈そうな素振りも見せず、殊勝な面持ちで相槌を打っている。聞き上手なのは予想以上で、相手の口が止まりそうになると合いの手を入れて、巧みに続きを促してゆく。子供の頃の思い出話を少しばかり照れくさそうに話す板長の声を、大津は少し離れたところで聴きながら、ふと板場の中を覗き込んだ。調理台の上はきれいに整頓されて、それぞれ道具が並んでいる。ふとその中にペンチが置かれていることが可笑しくて、話し疲れたらしい板長にちょっと声をかけてみた。


「ペンチ、台所で見かけると妙な気分ですね。料理で使うんですか」
「ああ、それね。ちょっとあると便利だよ。蟹殻とか、牡蠣割ったりするんだ」

岩牡蠣ってな殻開けるのに苦労するもんでね。ペンチでちょこっと端を欠いてやるんだ。そこからこいつを挿れてやるんだよ。そう言って隣に置いてあった牡蠣ナイフを指差した。
安川は板長からもらった当日の献立表を見ながら、隅に小さく書かれている「カキ」という文字を見る。だが当日の献立表には牡蠣を使ったらしい料理は見当たらない。

「この『カキ』っていうのは」
「ああ、岩牡蠣のいいのが獲れたから、ぜひ先生に食べてもらいたい、ってね。その同級生が持ってきてくれたんだ。一個だけしか獲れなかったって言うもんだから、蒸牡蠣にして先付にしたよ」
「じゃあ、他のお客さんは」
「食べてないね」
「ははっ、議員さん、さては牡蠣に当たったかな」

安川が笑いながらそう言う声に、生ならともかく火は入れてますしねぇと板長が応じる。
大津は安川が手に持った献立表の裏表紙に書かれた、仕入れ先の一覧をもう一度見た。ところでこの『櫂禅坊のロク』っていうのはお名前なんですかと尋ねると、いや、そう呼ばれていただけのあだ名です。本名は、ええと、何て言ったかな。考えるうちにすっかり黙り込んでしまった板長の向こう側、板場の奥から誰かが声をかけてきた。

「まあまあ、お疲れ様でございます。お茶を用意しましたから一休みしていってください」

大女将に声をかけられ、板場を辞した大津と安川は正面玄関に回り込んだ。玄関を上がりフロントに置かれたソファに腰を下ろし、お茶受けに出された饅頭の包装紙をびりびり破っている安川に、大津はおつかれさんと声をかけた。

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