チヤとロク

文字数 5,870文字


チヤ、あんたんとこの弟がまた虐められとうよ。
そう声をかけられて、物干し台の上から洗濯物を干す手を止めて見おろせば、千也(ちや)の住む長屋の隣に住む漁師のお内儀が、背負った赤ん坊を揺さぶりあやしながらこちらを見上げている。その後ろに弟の碌也(ろくや)がちんまりと項垂れていた。お内儀に頭を下げて詫びながら泥にまみれた弟を戸口に引き入れて、チヤは姉さんかぶりの手拭いを外してロクのシャツと半ズボンに付いた汚れをはたいて落とす。それから手拭いを濡らして顔につけられた泥を拭い、その手が顎につけられた擦り傷に触れると、それまで黙っていた弟が「なにも言ってないよ」と呟いた。

それが原因ではないのか。説明不足が更なる誤解を深めて何もかもが後手に回る。そしてとにかくその場を離れて逃げることを考える。そうやってロクは虐められっ子になっているのだろう。
子供らの社会で一度決まった役まわりは、環境の変化が起きない限りそう簡単に変わることはない。ロクは小学校に上がった頃から口数が減り、今やすっかり家族の元でしか口を開くことがなくなった。自分たち家族はロクと普通に会話するし、そうする姿しか知らないが、一歩家を出た途端にロクは貝のように口を閉ざし、誰に何を尋ねられても声を出して答えるということをしない。学校にいても近所の子らと遊んでいても、チヤのいない場所では黙りこくっている。だから問題が起きれば黙って逃げるしかないし、腕力に訴えて抵抗する、ということも得意としないロクは、こうやって怪我を負って帰る日もある。お隣のお内儀が「また虐められとう」と言うくらいにそれが普通になっているのだ。

弟に対する不甲斐なさと同時に、チヤは少し罪悪感にかられる。
家の貧しい暮し向きが、ロクが虐められる理由になったとは思えない。チヤはいろいろと理由を考えてみるが、原因を探る指先は結局自分の方を向く。ロクが虐められるのは、自分のせいではないだろうか。


チヤはまだ中学生だけれど、按摩の父と弟の三人での生活は、チヤが家事を引き受けてまわっている。国のあちこちに焼け焦げを作って長く続いた戦争も、チヤが産まれて最初の夏、暑い盛りに終わってもう12年が経つことになる。結核だった母はチヤが小学校に上がってすぐに亡くなり、まだ3つにもなっていなかったロクを背中におぶって、父は片手で杖を握り、反対の手に持った紐の端をチヤが持った。盲の父は読経する僧侶の声と、チヤが引く紐を頼りに後をついて歩き、集落の共同墓地へと野辺送りをした。

盲だったために兵役に就かずに済んだ父親は、按摩をして暮らしていたが、わずかな蓄えも母の病気療養で使い尽くしてしまったから、お世辞にも暮らしぶりは楽とは言えない。どうにか食い繋いでいられたのは、家からすぐのところにある漁港に行けば、漁師たちが網に掛かった雑魚を分けてくれるからで、船の戻る時間に港へ行けば、家から持って出た鍋にざぶんと一杯の魚を盛って寄越してくれる。少しばかりの野菜は海辺近くに作った畑で工面したり、時には父が貰い受けてきた。僧形をして白杖を突き、贔屓にしてくれる旦那衆の家に招かれれば、托鉢さながらに米や野菜の施しを受けて帰ってくる。皆按摩の家に子供が二人いて、母親は亡くなったことを知っているから、そうやって暮らしが立つようにしてくれるのだ。どうしてもお金が足りずに困っていると、同じ長家に住む女がチヤを海女小屋へと誘い、下働きをさせながら魚介の捕り方を教えてくれた。そうしてチヤに獲らせた貝や海藻の類を現金で買い上げてくれたから、収入は少なくてもどうにか食べていくことはできた。

もっともどの家だって似たり寄ったりの暮らし向きで、皆いつでも飢えていて、山や藪に入っては食べられるものを探し、手間を惜しまずに加工して食べ繋いでいた。
男たちが戦地から戻り、焼け爛れた都市がぼちぼち再興しようとしている。それにつられるようにやっとまともな生活ができるようになり始めたばかりだ。貧乏暮らしをロクが虐められる理由にするのは無理がある。あれこれと理由をチヤが考える時に、真っ先に思い当たるのは、ロクが不可解な言動をするようになったことだ。


一番最初にそれが起きたのは、昼寝をしていたロクが突然目を覚まし、草履も履かずに表へと飛び出して行ったことで、横で見ていたチヤは慌ててロクを追いかけ、一緒になって表へと走り出た。ちょうど漁港の護岸工事が始まったばかりで、集落を貫く道路にはトラックが何台も往来している。飛び出した子供がはねられる事故が頻発していたから、チヤの心配はなおさらだ。追いついた襟首を捕まえて「道に飛び出したら危ないでしょう」と言うと、ロクは道端に呆然と立ち尽くして「姉ちゃん。ぷうかぷうか、どんどんが来るよ」と言い、目をくりくりとさせている。
何を言っているのか分からず、きっと寝ぼけているのだろうと思ったチヤだったが、翌日の午後になると、近所の子供たちがチヤとロクを誘いにやってきた。

「ちんどん屋が来てるから見にいこう」

誘われるままロクの手を引いて外へ出ると、日本髪のカツラを被った男が吹くクラリネットを先頭に、数名の派手な衣装の大人たちが、手にしたビラを配り歩きながら賑やかに家々の軒をかすめてゆく。隣町の呉服屋が洋品店として新装開店するということを知らせて歩く、その白塗り目張りの一団に、近所の子らと一緒になって後をついて歩きながら、チヤは生まれて初めて目にしたそれが「ちんどん屋」というもので、その奏でる音楽に身を揺らして歩きながら、なるほどこういうものかと納得した。それからふと昨日、ロクが「ぷうかぷうか、どんどんが来る」と言って外へ飛び出したのを思い出した。

ロクが言う「ぷうかぷうか、どんどん」とは、この一団のことなのか。
チヤが父に「ロクと二人で初めてちんどん屋を見た」と話すと、父はそうかそうか、良かったなぁと喜んで、それから前日に起きたことを話すと、再びそうかそうかと言って頷いて「ロクはちょっとだけ先が見える子なのかもしれないね」と言うだけだった。だがそんなことが続けざまに起きればチヤも穏やかでいられなくなってくる。


ある時ロクが突然「チヤ姉ちゃん、お船が沈むよ」と言ってベソをかいて、本当にその翌日、沖で発動機の不具合に見舞われた魚船が海流に乗って座礁し、乗員は皆避難したものの船は敢えなく沈没するという事故が起きた。また別の日には近所の子供達と遊んでいる時に、思い出したように「桶屋さんの犬が死んじゃう」と言って泣き出し、一緒に遊んでいた子供達をびっくりさせた。その桶屋が飼っている柴犬が数日後、散歩中に飼い主がうっかりリードを手放したところ走り出し、通りに飛び出したところでトラックに撥ねられてしまった。

さすがに気味が悪くなったチヤが父に話をすると、父はロクを呼び寄せて膝に乗せ、突然ぼんやりしたり泣き出したりするのはどうしてかと尋ねた。まだ幼く拙いながらもロクが説明するには、時折ふとした拍子に瞼の裏に絵が浮かぶようになったらしい。一番初めは夢に青白く光る蛇が現れて、自分の体を這い上り懐に入ったところで目が覚めた。その日から突然何の前触れもなく、目の前に景色が浮かんで、それが何を示しているのかもわからないうちにふっと消える。まだ幼いロクにはその映像の意味するところもわからず、また起きる全てを見るわけでもない。ただ数日のうちにその絵が現実になって再現されているのだ。

父親はロクに、そうかそうか。それは不思議なことだねと言い、ちょっとびっくりしたかもしれないけれど、それはいいことでも悪いことでもないから、心配することはないんだよと言った。
「これだけは言っておくけれど、お前のせいで何かが起きているわけじゃないよ。周りの人が見るものを、ほんの少しだけ早く見ているだけのことだ」父親はロクに、そう言って聞かせ、最後に一言付け足した。

「……それからね、ロク。今度から『見たものの話』は、他の人には言ったらいけないよ。私か、チヤ姉さんにならいいけれどね」


父がなぜロクが見たものを封じ込めようとするのか、チヤにははっきりとした理由がわからなかった。
それでもロクは父の言いつけを守り、それからは見えたものの話を家の外ですることはなくなった。思えばその頃から少しずつ口数が減ってきたロクの、学校や近所の子供達からの評判は「突然黙ってぼーっとする奇妙な子」ということになり、なんとなく疎んじられている様子が窺えた。

相変わらず家ではチヤや父親に「すもも売りのおじさんが来るよ」だとか「お隣のピイちゃんがどこかに飛んでいくよ」だとか、些細なことを告げる。するとほぼ2〜3日のうちに行商人が長家の路地あらわれて「今年はたくさん実ったから、ずいぶん遠くまで売りに来れたよ」と言って近所の軒を巡ってすももを売り、かと思えば隣に住んでいる老爺が、飼っている文鳥が窓を開けた隙に逃げてしまったと言って悄然としていたりする。薄気味悪さにたまりかねたチヤが、私はもう聞きたくないから、お父さんにだけお話しなさいよと言うと、ロクはしょんぼりとしてさらに口数が減った。そしてある日、ロクが通う小学校の担任教師が、チヤの住む長家へやってきた。

突然の家庭訪問の理由は、ロクが学校ではまるっきり口を利かなくなったからで、教室で挨拶をしても、授業中に質問しても、困ったような表情で黙って床を見つめるばかりで一言も喋らなくなってしまったという。周囲の子供たちに囃し立てられても、退屈した子供たちが返事のないロクを無視して、どこかへ行ってしまうのを待つかのように床ばかり見つめている。そうするうちに誰もロクには話しかけなくなってしまったらしい。

「音は聞こえていると思うんですよ。後から声をかけてもちゃんと振り向きますから。でももう一月以上碌也くんの声を聞いていないんです。ご家庭で何かお困りごとでもあるのかと思いまして」

まだ若く熱心そうな女性教師は、狭い戸口の上り框に座った父親の方へ向かい、中腰になって話し込んでいる。父親は『鍼灸按摩承り候 櫂禅坊了斎』と墨書きされた看板が掲げられている方を顔で示してから、教師の立っている方に向き直った。


ご覧の通りの侘び住まいですが子供等には三食の不自由はさせておりません。家ではきちんと私とも、姉の千也とも不自由なく口を利きます。早くに母親を亡くしておりますので、碌也は神経質なところがありますが、姉がちゃんと面倒を見てくれていますから、ご心配には及びません。それでも何か学校にご迷惑をおかけしているなら仰っていただければ、私から言って聞かせますがと了斎が言えば、教師はふと考え込む。
耳はきちんと聞こえている様子だし、授業中は大人しく話を聞き、試験をすればきちんと解答用紙を丁寧な文字で埋めてくる。暴れるわけでもなければ皆と一緒に行動できないわけでもない。教師の指示にきちんと従うことは他の生徒よりもむしろ従順なくらいだ。「ご迷惑」というものをこの生徒にかけられているわけもなく、「いいえ。こちらとしては碌也くんのことが心配だっただけのことです」とだけ言うと、教師は屈めていた腰を伸ばし、今後もし何かお困りのことがあったらぜひ学校にもお知らせくださいと言って帰っていった。

室内から二人のやり取りを聞いていたチヤは俄に不安になり、ロクを探しに出る。見当をつけて探し歩くうちに、漁港近くの小さな入り江で近所の子たちと一緒にいるのを見つけた。遠くの岩陰からそれとなく様子を伺っていると、確かにロクはみんなと一緒に紛れていながら、しかし声はまるで聞こえず、わずかな身振り手振りだけで意思疎通をしている様子だ。近寄ってロクに声をかけるとチヤの方を向くものの、何を尋ねても口を利かない。横で見ていた子供たちが、自分の姉さんとなら話せるのかと言って嗤った。そんなバカな。家ではいつも普通に喋っているのに。

「ロク、返事して。チヤ姉って言ってごらん」

チヤは詰め寄るようにロクの顔を覗き込み、合わせようとしない弟の視線を捉えようと躍起になった。弟の肩を掴んでいくら揺さぶっても、ロクはグラグラと項垂れた頭を前後させるばかりで、そのうち突然地面にしゃがみ込んで、水みたいな胃液をぶちまけて嘔吐した。驚いた子供らがわぁっと言って散り散りになり、入江にはチヤとロクだけが残された。


えずいているロクの背中をさすりながら、チヤの耳にはロクの担任教師の甲高い声がこだまして、うるさいくらいに繰り返されている。しばらくしてようやく落ち着いたロクの手を引いて、夕暮れも近くなった路地を通り抜け家へ戻る道すがら、ロクは呟くような声色で、チヤ姉には言わないよとだけ言った。
見えるものの話は聞きたくないから、父さんにだけ話せと言ったことがロクを追い詰めたのだろうか。この際何でもいい。少々薄気味悪かろうが、ロクが思っていることを話せるようにしなければ、このままでは本当に(おし)になってしまうかもしれない。「ロク、いいから私にも話して頂戴。どんなことでもいいから」焦りを見せればそれがロクを追い詰める気がして、できるだけ柔らかく話しかけると、蚊の鳴くようなロクの声がする。

「……白い旗がひらひらして、みんなが行列してるよ。マサオのおばさんと、マサオがいるよ」

マサオはさっきまで一緒にいた子供のうちの一人で、ロクのひとつ年上にあたる子だ。
父親が出稼ぎに出ている家で、母親がいつもマサオの妹を背負った姿で、港近くにある水産加工場で下働きをしている。白い旗とみんなの行列、というのが何を指しているのか。理解できずに訝るチヤの耳の奥から軋るような音が響いてくる。何か良からぬものの訪れであり、ロクもそう感じていることは胃液で汚れたシャツを見ればわかる。果たして翌日マサオは学校を休み、そのさらに数日後にはマサオの家から葬式が出た。

亡くなったのは出稼ぎをしていた父親で、セメント工場で石灰石の破砕機に巻き込まれ、同僚たちが助けようとするも間に合わず、石に混ぜ込まれて赤い破片になってしまったのだ。わずかにそれとわかるだけの姿になってしまった亡骸は、石混じりのまま棺に納められたようで、力仕事に慣れた若衆たちを集め、数人がかりで担ぎ上げるほど重かった。念仏を墨書きした白い幡を垂らした旗竿を掲げる僧侶たちを先頭に、マサオの母親とマサオが続き、野辺送りの列が集落の筋を静かに進んで行った。
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