第5話

文字数 2,463文字

 トン、と心地良い音ともに巻藁の的に矢が刺さる。その音で私は呼吸を整え直した。
 頭上に矢をつがえ、手に力をこめるというより、肩甲骨を開いてゆく感じで腕をのばす。いつも通りの呼吸。いつも通りの仕草。視線は的のやや上。それでも、その日は何かが少しだけ異なっていた。
 握りが汗で滑るような気がするし、きっちりはめたはずの弓懸が微妙にずれている気もする。しかし、そう思ったのは矢を放つ瞬間で、気がついた時にはもう右頬がじぃんと痺れていた。
 的の中央どころか、巻藁の足下に矢が転がっている。紛れもなく自分が放った矢だ。鼓膜がまだ衝撃でぶわぶわと震えている。熱を持った頬に触れたのは鹿革製の弓懸で、一瞬私はそれが自分の手だとは思えなかった。
「鬼舞さん」
 常磐が駆け寄ってくる。鬼橋の跡取り息子は私と口を利く機会のある数少ない異性の一人だ。自分が矢をぶつけたように色白の頬に朱を浮かべ、水で冷やした手拭いを渡してくれた。
「すぐに冷やさないと腫れるよ。僕もこの前やったから」
「ありがとう」
 そう答えて、私はまだ弓を握りしめていたことに気づいた。そこでひとまず弓を床へ置き、弓懸を外して常磐のくれた手拭いを受け取った。それは大漁時に村全員に配られたもので、藍地に船や波、鰹が白く染め抜かれている。地味なようで派手な手拭いをいつ使えばいいのだろうと思っていたが、ちゃんと活用している人間が少なくとも一人はいたらしい。
 私の様子を見てほっとしたのか、常磐自身も笑みを浮かべた。綺麗な唇が三日月の弧を描き、半化石になった貝のように透き通った歯がこぼれる。それから、瞳がおずおずと、それでいて強く輝きだす。まるで相手に許可を求めるような微笑み方。鬼橋の本当の跡取りは柘榴だ、と村の人々が噂するのも仕方ないと思えるほど繊弱な、柔和な笑み。
 手拭いから藍染め特有のすっとした香りと、焚きしめられた紫檀の香りが漂ってくる。
「集中できないなら休んだ方がいいよ」常磐は私の横に正座して言った。「意地悪じゃなく、本当にそう思って言うんだ。弓は人を殺す道具だから。いい加減な気持ちで扱っちゃいけない」
 常磐の視線が一瞬私とぶつかり、浅葱色の空の下で行儀良く並んでいる巻藁へ向けられる。シジュウカラの澄んだ歌声が降ってくる。矢を拾い集める人の袴が、まるで掃除するように砂利の上を滑ってゆく。
「それに大切な……」
 そう言いかけて、常磐はふいに口をつぐんだ。個人的に心配していると思われるのを恐れたのか、「御子神となる人だから」という後に続く言葉の残酷さに気づいたからか。失われた言葉の代わりに彼は腰を浮かせ、謝罪のように私の手を引いて立ち上がらせてくれた。
「洲楽先生のところへ行こう。腫れに効く良い軟膏があるんだよ。僕もそれをもらったんだ」
「冷やせば大丈夫」
「明日はもっと腫れるよ。結構良い音がしたから」常磐は真面目な口調で言い募る。「僕もちょうど先生に用事があるんだ」
 何の? とはききかねて、私はただ曖昧にうなずいた。きっと、常磐は単に息抜きがしたいのだろう。彼の顔色は青白く、柘榴とよく似た薄茶色の瞳もどこか陶然としている。それから、彼は私の弓を拾い上げ、弦輪のところを確かめながら言った。
「ああ、弦を直しておかないと。これじゃあんまり苦しすぎる」
 まるで私の弓がしなやかな、一匹の海蛇に化けてしまったようだ。それなら矢を拒んでも仕方ないだろう。私は足袋のこはぜをちょっと直してから立ち上がった。
 雑草の生えた茅葺き屋根に、滑車が傾いたままの古ぼけた井戸。その裏には小さな畑が広がっている。私はかつての我が家の門をくぐり、石粉に満ちた坑道のような匂いのする土間に足を踏み入れた。
 しかし、往時とは異なり、ひんやりした土間には木屑が散らばり、囲炉裏の火棚に干された薬草が独特の香りを放っている。洲楽先生は小さな文机とも、足付きのまな板ともつかぬものに覆い被さるようにして杉の角材と向き合っている。私たちを目にすると、彼は円らな瞳を瞬かせ、血色の良い唇に笑みを浮かべた。神楽面を彫るのは彼の趣味だが、人に見られるのは恥ずかしいのだろうか?
「返事がないから勝手に入りましたよ」
 常磐はそう言って上り框に腰かけた。その框にある釘隠しには扇の模様の浮き彫りが施されている。私は懐かしい友人に再会したような気がした。
 長年煙に燻されて黒光りした梁も、そこに走るいびつな亀裂も、奥の方に張った蜘蛛の巣もそのまま。しかし、主を失った鬼舞家にかつての活気が戻ることはなく、私たち親子は夜逃げのように荷車を押して鬼隠の別宅へ落ちのび、代わりに疫病騒ぎで大賑わいの洲楽先生がここに住み着いたというわけだ。
「貴方たちは家族同然。挨拶なぞいらないと言ってるじゃありませんか」
 洲楽先生は作務衣の腹や脚についた木屑を払うと、草履を突っかけて土間の奥にある流しへ向かった。川の水をそのまま引いた竹の樋には絶えず清冽な水が流れている。彼はその水を鉄瓶に汲み、梵鐘のように乳が並んだ蓋をあわふわと浮かせながら囲炉裏の自在鉤に引っかけた。その鉤にかかった鯨の飾りも昔のままだ。父が「我が家のエビス様」と呼んでいた黒鯨……。
 背後には巨大な薬棚が主人然と鎮座し、天秤やら薬研やら、いかにもそれらしいものが雑多に並んでいる。囲炉裏縁に傷がついているのは、ここにまな板を置いて乾いた薬草を刻むからだろう。洲楽先生が灰を掻き立てると、ぶうっと音がして炭が赤い瞳を光らせた。
「矢がぶつかったんです」常磐は私の代わりに説明を始めた。「あ、刺さったって意味じゃありません。ただ放つ時にちょっとぶつけたんです」
 洲楽先生は常磐の話を聞いているのかいないのか、手拭いを外した私の頬をちょっと診ると、ああ、というふうにまた笑った。
「明日にはもっと腫れますよ。いえいえ、心配は無用です。良い軟膏がありますから。ええ、常磐さんにも差し上げたやつです。効果は保証済みですよ。紫雲膏を元にしてね……私なりに拵えた特製品なんです」
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