第7話

文字数 2,802文字

 三角形の明かり取りから差しこむ光が、褐色がかった細い煙を浮かび上がらせている。それが目立って見えるほど、裸電球一つの部屋は薄暗く、ぼうっとした薄靄に包まれていた。
 元は蚕棚が並んでいた場所を改良したらしく、まるで船室のように寝台が上下にすえられ、常磐がそこに横たわっている。私は彼に声をかけようとしたが、その言葉はなぜか喉の奥につかえたままだった。
 常磐は桑の模様のある火鉢のそばで横向きになり、不思議な煙管を手にしていた。象牙か海泡石で作られたものらしく、淡いクリーム色の胴全体に細かな装飾が施され、吸い口の反対側に大きな火皿がついている。彼が呼吸するたびに、その火皿の内部が蛍のようにぽうっと明滅する。鬼隠の爺さまも時折煙管を吸うが、こんなに太いものは見たことがない。
 枕の横には漆塗りの盆が置かれ、その擦り切れた朱の上に耳かき状の匙や、取手つきの小皿がままごと遊びのように並んでいる。鼻につく異臭は、その金属製の小皿に残された黒っぽい欠片の匂いだろうか? まるでバッタの吐瀉物のように青臭く、それでいて香辛料のような刺激も感じる。常磐は心臓が弱いと柘榴から聞いたことがあるが、こんなところになぜ平気で横たわっていられるのだろう?
「常磐さん」
 私は思いきって声をかけた。漢方薬にはひどく苦いものや嫌な匂いのするものもある。これは不調を治すための治療かもしれない……そう考えてはみても、常磐がすぐ目の前にいる私に頓着なく、野太い煙管をほうっとくわえている様子はやはり不可解だった。
 常磐は何も答えない。その唇には淡い笑みがたたえられている。薄茶色の瞳は茫然として、まるで真夜中の猫のように瞳孔が開いている。それから、彼は煙管を盆に置き、ふうっと大きく息をついた。しかし、開かれた唇から言葉が漏れることはなかった。火鉢の炭が崩れ、火の粉がブワッと舞い上がる……常磐の笑みが深くなり、その瞳がまるで硝子細工のような琥珀色に透ける。私の存在に気づいていながら無視しているのか、無視する必要すら感じていないのか。彼の瞳は私の後ろにいる、薄明かりに揺らめく影にでも笑いかけているようだ。恍惚とした三昧境の瞳。他人を完全に拒絶した、彼ひとりの永遠の世界。
「鬼舞さん」
 その言葉は薔薇色の唇から生じたのではなく、梯子階段の下からかけられたものだった。振り返ると洲楽先生がいた。彼は作務衣の袖に木屑をつけたまま、自分の彫刻作品でも解説するように鷹揚な口調で言った。
「大きな声を立てないでください。お坊ちゃんの邪魔をしてはいけません」
「でも」
 洲楽先生は首を横に振った。しかし、このまま素直に引き下がれば、私はただの侵入者になってしまう。
「一体、常磐さんはどうしたんです?」折衷案として、私は踏み板に腰を下ろしながらきいた。「いつもの彼じゃありません。これじゃまるで……」
 しかし、肝心の常磐の状態をどう表現したらいいのか分からない。猫のよう。赤ん坊のよう。どれも鬼橋の跡取り息子としては穏当さを欠いている。私は無言のまま彼を見つめた。
 深い艶を浮かべた紬の襟からのぞく鎖骨はうっすらと汗ばみ、長いまつ毛は熱帯のシダ植物を思わせる影を頬に落としている。微かな吐息が漏れるたびに、伏せられたまつ毛が影とともに痙攣する。時々喘鳴のような吐息が漏れるが、のったりした沈黙が寝台を包みこんでいることに変わりはない。
「騒ぎを起こせば、彼を破滅に追いやることになりますよ」
 洲楽先生は脅し文句を口にして私をにらんだ。しかし、その表情にはどこか戯画めいたところがあって、彼が私を憎むどころか、むしろ共犯者に仕立てあげようとしていることは明らかだった。
「本当に破滅ですよ。彼にも誇りというものがありますからね。人間として必要最低限の思いやりというものがあるなら、このままそっとしておくべきです」
「でも、私にも責任があります。こんな様子を見たら柘榴……彼の家族が心配するに決まってます」
「心配いりません。これは治療、ええ、魂の治療行為の一環ですから」
 ふと、私の脳裏を棘の生えた黄緑色の「果実」がよぎった。
 私の表情から考えを読み取ったのだろう。洲楽先生は私に尋ねられる前に先回りして答えた。
「いえいえ、これは曼荼羅葉なんて物騒なものじゃありません。そもそも、あれは私的な研究用の畑ですよ。こんな村じゃちゃんとした精製もできませんから。ご推察の通り、彼は阿片を吸引しています。しかし、ただの阿片じゃありません。先ほどの薬湯にはヒヨスが含まれておりまして……もちろん、彼の椀にだけですよ。ヒヨスチンと阿片を同時に摂取することによって……いえ、詳しい説明はやめましょう。つまり、彼は今桃源郷をさまよっているのでして、このときばかりは際限のない苦しみから逃れられるというわけです」
「苦しみ? 彼がですか?」
 ええ、とうなずいて洲楽先生は続けた。
「彼は一遍に愛情と将来への夢を失ってしまったんです。詳しいことは私もよく知りません。おそらく、柘榴さんもご存知ないでしょう。ただ、私には分かるんですよ。人の心の奥底というものがね。純粋なものほど壊れやすい。だから、自然界には混じりっけのないものなどほとんど存在しません。そして、採掘された鉱石が精錬を必要とするように……その過程を楽しむ人もいるんですよ。水銀を加え、破砕し、加熱する。ええ、とても残酷なことです。一人の人間を実験材料に……それも不確かな研究目的で使うんですからね」
 洲楽先生は自分のことを言っているのだろうか? それとも、そうと気づかず誰かを揶揄しているのだろうか?
 裸電球に蛾がぶつかり、ジ、ジッと異様な音を立てる。そのたびに鱗粉が舞って小さな虹の靄が生じている。かつて、この薄暗い場所には大量の蚕がひしめいていた。小さな卵から孵化し、桑を食べて白く膨れた幼虫となり、もう一つの口から糸を吐いて繭を紡ぎだす……しかし、彼らは羽化することなく、煮られて赤黒くなった姿で蚕塚に葬られたのだ。
 パチパチと、小さな音が鼓膜を震えさせる。火鉢で炭がはぜる音? それとも、蚕が自分の周りに繭の砦を築こうとする音だろうか? 作りかけの繭は飴細工と似て、その籠目から蚕自身の姿がのぞいて見える。その体も溶けかけの氷のように透き通っている。
 常磐もまた一匹の蚕のように、桃源郷という繭を自分の周りに築こうとしているのだろうか?
「柘榴さんにはご内密に。必要とあれば、彼自身が話すでしょうから」
「告げ口なんてしません」私は微かな音に耳を傾けながら言った。「でも、きっと柘榴は気づいてるでしょう。聡い人ですから」
 洲楽先生が生唾をのむ音が聞こえる。しかし、常磐は私たちの話し声にも蛾の舞踏にも関心がない様子で、ぼうっとした瞳を中空へ向けている。
 彼は今、確かに誰かと話している。
 不意に、そんな気がした。
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