朝のこと

文字数 1,141文字

眠れそうにないとか思っていたくせに目が覚めたということは寝ていたということで、食欲ないとか考えてたくせにしっかり空腹を覚えて朝食を摂り、誰にも会いたくないとかいう気持ちを携えながらも制服を着て寝癖を整えて家を出る。
たくましくて笑っちゃう。
行きたくなくても時間通りに電車はやって来て加速し、景色は流れて私を運び、会社員も学生も通うべきところへ向かい、スマホの画面から顔を上げずとも目当ての駅になれば降車して、列をなして改札を出る。
解けないままの誤解を抱えて、すれ違ったままの思いを背負って、人と人との間のことなどお構いなしに今日も一日は始まり、社会は滞ることなく運営される。
心の痛みも感情の(きし)みも捨てることはできなくてしがみついて離れなくて、だからといって立ち止まるでなくうずくまるでなく前に歩くしかない私は高校までの道を急ぐ。
道すがら、出会った友だちに挨拶したり、軽口をたたいたり、余裕すらあるかのような態度で内心先輩に会ったらどうしようと怯えながら背筋を伸ばして、腕を振って、一点のシミもなく何事もなかったかのように、社会を形成する一員となって、それでものしかかる重い気持ちは無視するには存在がでかく、些細なことで泣きそうになって、下がりがちになる眉を持ち上げ、足取りは軽くなったり重くなったり、平らな道を上ったり下りたり、ローラーコースターに乗ったかのように、息を弾ませ、潜ませ、目立たぬように、主張して歩く。
嫌でも目に入る長身、風になびく髪、猫背気味の背中に張り付くシャツ、電柱の陰に隠れそうになる気弱と走って追いつこうとする強気との一騎打ちは言い訳と不平と決めつけと憐憫にまみれて大乱闘となり、負けそうになり、負けたくなくなり私はそれらを踏み越えて声をかけるのだ。
「先輩おはようございます」
健気すぎて泣いちゃう。
先輩は先輩で、お通夜みたいな顔してたのにひなたに出てきた猫みたいな表情になるから、勇気を得た私は先輩の言い分を黙って聞いて、予鈴が鳴る前に二人並んで校門をくぐる。
思い通りにはいかない。プラモデルを組み立てるみたいに説明書に書かれた通りの手順を正確に踏みさえすれば完成する、わけではない関係性にこうして私は毀損されることもあるけど、それでも踏み出して、築きたいと思うのだ。
より深く。より高く。
大丈夫、こんなに社会は放っておいてもびくともせずに勝手に営みを続けるのだから、先輩の目を見つめるために私が少しくらい立ち止まったとしても、この先立ち行かなくなることなどないのだ。
全てを孕んで回る世界で、こんがらがった糸を紐解いて修復して、噛み砕いて吐き出して飲み込んで反芻して見つめ合う私と先輩は、唾棄されることなく社会の一部となって溶けてなくなる。
愛しすぎて笑っちゃう。
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